「ある生涯の七つの場所」と僕



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1992年、百の短篇とよばれる「ある生涯の七つの場所」の文庫版第一巻「霧の聖マリ」が発売された。僕がこの短篇を手に取ったのは、辻邦生さんが済んでいた高輪のそば、品川プリンスホテル内の書店だった。大学受験で上京した宿泊先が品川プリンスホテルだったのである。「霧の聖マリ」の最後に辻邦生さんの文庫版あとがきが入っていて、その最後に「一九九一年師走 東京高輪にて」とあった。品川プリンスホテルの裏はすぐ高輪であることを知っていた若い僕は、ニアミス、あるいはシンクロニシティの神秘に心をふるわせたのだった。
一年間の浪人が決まり、いよいよ勉学に励まなければならない状態にあった。家族は僕のことを無視し続けていたが、何とか予備校に通って、勉強にいそしんでいたつもりだった。
そんな中でも読書だけは忘れなかった。「ある生涯の七つの場所」は1992年一年間をかけて二ヶ月おきにゆっくりと文庫版が刊行されていた。僕は隔月刊行の文庫を待ち続け、予備校近くの書店で発売日には早速と買い求め、通学電車の中で時を忘れて読み続けたのだった。百の短篇が織りなす時代のタペストリーの全体像を思い描くには、それなりの準備が必要だと思うのだが、百の短篇一つ一つに織り込まれた人間の情念や美への揺るぎない信念を感じるには、短篇一つを読むだけで十二分に味わうことができた。
一つの短篇を読み終わるたびに訪れる、まるで大理石を削りだして生まれた彫刻をみるような甘美な気分や、人間の情感がもたらす不思議な物語に触れた時に訪れる人知を越えたものへの憧憬を、ゆっくりと楽しんだのを覚えている。
僕の辻邦生作品へのひとかたならぬ思いを形成し、読書の楽しみを教えてくれたのは、浪人中に読んだ百の短篇なのである。

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