Tsuji Kunio

今日も「人間が幸福であること」から数節を…。

<今>を掛けがえなく生きるとは<今>がもたらす<楽しさ>を十全に味わうことだ。逆に言うと<楽しさ>を感じることが、<今>を本当に生きるということなのだ。花の世話をして楽しかったら、そのとき<今>を生きていたのだ。仕事に夢中になって楽しかったら、それも<今>を生きていたのだ。このようにして蓄積してゆく<楽しさ>こそが生の内容にほかならない。この<楽しさ>の濃さが生の本当の意味なのだ。<楽しさ>のないまま、ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切り離され、無縁な仕事を集積させるに過ぎない。いかにすべてを<楽しみ>の中に取り戻すか──それが<今>に生きる鍵であるに違いない。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、124ページ

ぼくたちが本当の幸福を見いだしたいと思ったら、とにかく不必要なものを棄てなければならない。そして人目など気にせず、夢中になって好きなことに生きることだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、134ページ

幸福な人は、わざわざ幸福だとは感じない。ただ夢中になって時を経過したと思うだけだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、135ページ

特に

ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切り離され、無縁な仕事を集積させるに過ぎない。

の部分が心にしみいります。現代は「効率化」の世の中で、「効率的」組織の中に組み込まれてしまっている僕自身としては、複雑な気持ちです。もっとも「仕事に夢中になって楽しかった」数年間が僕にもあったと考えられるようになってきたので、少しは前進かもしれませんが…。いまはそうじゃないんですけれどね…。

Tsuji Kunio

人間が幸福であること―人生についての281の断章 人間が幸福であること―人生についての281の断章
辻 邦生 (1995/02)
海竜社

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最近体調が悪く本を読むことが出来ません。そんな中でもなんとか辻先生の作品を読もうとしているのですが、いくら辻先生の作品が好きとはいえ、体調の悪さに打ち克つことが出来ず、苦しんでいるところです。

とはいえ、断章ぐらいは読むことができよう、と思い「人間が幸福であること」を手に取ってみました。この本は辻作品の中から281のフレーズを取り出して、テーマごとに並べた本です。以下のようなテーマが並んでいます。

  • 人生の豊かな実りのために
  • 死を通って生へゆく道
  • 生のさなかにあって
  • 「いま・ここ」を生きる幸福
  • 生きることに夢中になる姿
  • 生への共感と愛着
  • 暮しを楽しむ・暮しを想像する

まずは、ぱっとページを開いてみて、断章を読んでみるのですが、まるで今の自分のために書いてあるかのような文章にぶつかるのが不思議に思えてなりません。たとえば…

この世にはどうにもならぬ悲劇がある。だが、それは途方もない幸運と同じように、それで人生がどうなるものというわけではない。どうかなったと思うのは、その大きさによって眼がくらまされているからなのだ。人間の上には同じように日が昇り、日が沈む。この一日一日をいかに耐え、見事に充実させるか──それのみが人間の仕事なのだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、70ページ

もう一度やりなおしてみるべきだよ。誰だって、過失はある。そのたびに何もかも投げだしたら、一生かかっても人はなにもできやしない。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、71ページ

災難が降ってきたときは、人間は、ただじっと忍耐してそれを遣りすごすより他ないんだ。災難はかならず過ぎてゆくものだから。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、71ページ

昨日何気なく開いたページと、今日何気なく開いたページが同じページだったのも不思議ですが、そこに書かれていたことが、今の自分にとって価値あるものと思えるのも不思議なことです。

Classical

バッハ:チェンバロ協奏曲集 バッハ:チェンバロ協奏曲集
ミュンヘン・バッハ管弦楽団 (1989/07/01)
ユニバーサルクラシック

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久方ぶりにバッハのチェンバロ協奏曲を聴きました。10年以上前に聴いたきりだと思います。
憂いを帯びた弦楽合奏の音色に胸が引き裂かれるような気分になります。どうしてだろう、と考えてみました。
リヒターはモダン楽器を主に使い、ピリオド楽器は通奏低音におけるヴィオラ・ダ・ガンバのみだったそうです。このことに関してはいろいろと意見があるようですが、この弦楽合奏を聴けば、必ずしもそれが失敗だったと決めつけることは出来ないと僕は思います。ただ、この音色であれば、チェンバロの替わりにピアノを使ってみてもいいのではないか、とも思いました。確かにすこし弦楽部が前に出来てしまっているような印象があります。チェンバロの音をもう少し聞きたいな、という欲求もあります。
書いていて思ったのですが、僕はこの音の印象を持つ録音をもう一つ知っていることに気づきました。クレンペラーが振ったバッハのミサ曲ロ短調です。あの演奏もやはりモダン楽器を使った壮大な印象だったのですが、どこかに悲痛感や憂愁感を感じた録音でした。同じモダン楽器を使ったバッハということが共通点にあるのみですが、どうやらモダン楽器だから分かるバッハの憂愁感というものがあるようです。楽器の性能が良くなったが故に、バッハの真意を汲み上げることができるようになっているのかもしれません。もちろん逆にピリオド楽器でないとバッハの真意をくみ取ることが出来ないという考え方もありますけれど。

Tsuji Kunio

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夏の海の色 夏の海の色
辻 邦生 (1992/04)
中央公論社

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<夏の海の色:赤い場所からの挿話 IX>「夏の海の色」

夏の海の色から「夏の海の色」を読む。


あらすじ

主人公の「私」は中学受験に失敗している。浪人しようか、第三志望の中学にいこうかと悩んでいるのだが、叔母の妹である咲耶は第三志望の中学校に入った方が良いと言うのだった。

「私も学校のことにこだわる人、嫌いよ」咲耶は私を慰めるつもりだったのか、極端な言い方をした。「いい大学を出たって、駄目な人は本当に駄目なのよ。学校のことにこだわる人ほどろくな人はいないわ。」

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、105頁

こうして「私」は第三志望の中学に進むことになった。中学校では剣道にいそしむ毎日。入学試験に失敗したことを得意な剣道に打ち込むことで癒されていくのだった。

咲耶から家に遊びにおいでと誘われるのだが、二年生になってやっと行くことが出来る。咲耶の住む街は古い城下町なのだった。

都市の中央に石垣と、青く水を湛えた堀割の残る城址があり、石垣に囲まれた三の丸、二の丸から本丸にかけて、樟の繁る影の濃い公園になっていて、夏の昼下がりには、行商人が荷を置いて、その木陰で昼寝をしている姿をよく見かけた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、108頁

私は、城下町を歩きまわって、歴史を楽しむのだった。剣道も朝と夕方に素振りをしていたのだが、咲耶が気を利かせて地元の中学校の剣道部に練習にいけるように手配をしてくれたのだった。武井という男と親しくなる私。ただ、武井が咲耶と親しいことに少しいらだちを感じている。

剣道部の練習に行くと言うことで、土蔵の中から剣道具を運び出そうとする咲耶と私。私は土蔵の中で、咲耶とその子供と思われる写真を見つけるのだった。だが、なにか触れてはならないことのように思えてならないのだった。

地元の中学の剣道部の練習に参加する私。やはりここでも剣道の旨さで一目を置かれるのだった。そのうちに合宿を海辺の街で行うことになったのだという。参加しようとする私だが、咲耶は行っても良いが絶対に海で泳いではならないという。

「私ね、あなたに海で泳いでほしくない──それだけなの。わけは訊かないで頂戴。でも、これだけは約束して」
 私は咲耶の切迫した表情を見ると、いやと言うことは出来なかった。
「絶対に泳ぎません。誓います」
 私がそういうと──私は今もそれを眼の前に見るような気がするが──咲耶の眉の間から、何か凍りついていたどす黒いものが、見る見る溶けて流れ落ちていった。それはいかにも安堵の思いが顔に拡がってゆく、という感じだった。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、127頁

海辺の街で剣道の練習に勤しむ私。だが、武井の唆しにも関わらず、咲耶との約束は決して破らず、海で泳ぐことはなかった。合宿も終わろうとする頃、咲耶から電報が届く。合宿が終わってもそのまま宿舎の寺に残るように、とのことだった。

数日後、咲耶が現れる。寺の住職と話をしている。私に一緒に浜まで出てくれないかという咲耶。浜辺には船頭が船を準備して待っていた。船に乗り込むと、沖合の赤いブイのあたりまで船をすすめるのだった

「典ちゃん、お母さまが来たわよ」咲耶はそういって、船縁から身を乗り出すようにして波の底を見つめていた。
「いいのよ。そんなに無理に笑わないでも。お母さまは、あなたがそうして許してくれるって言うだけで、もう十分なのよ」
 彼女は長いこと両手をあわせて船縁に蹲っていた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、132頁

咲耶は城下町の出身で東京の良い大学をでた男と結婚していた。だがその結婚は望んだ結婚ではなかったのである。10年目に子供をおいて離縁したのだが、その子供はこの海で、ちょうどブイのあたりで溺れ死んだというのだった。


この城下町のモデルは、辻先生が高等学校時代に過ごした松本市であると言われています。それでは、合宿をした海辺の街はどこなのでしょうか?想像ですが、僕は湯河原ではないかと思うのです。こんなシーンがあります。

 そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上がっていて、波が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光の中に浮び上るのが見えた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、129頁

この文章から、月は海上にあがりはじめたと読むことができます。「上がっていて」という文章は、寝る前には月は上がっておらず、夜中になってみると月が上がっていた、ということになります。月は太陽と同じく東からのぼり西へ沈みます。したがって、この月はおそらく東から南にかけて上っていたことになります。もしこの海辺の町が日本海側にあるとすると、東から南にかけては山になりますので、この描写は不可能です。ということは海辺の町は太平洋側にあるのではないか、と考えられます。さて、なぜ湯河原なのかというと、ここからは少し僕の個人的な感情や経験が入ってきます。辻先生は終戦界隈に湯河原に疎開しています。

湯河原での日々は、時間を失ったような不思議なノスタルジーに満ちたものでした。徒歩で十国峠へ登り、芦ノ湖に出てみたり、熱海で映画を見たり、吉浜に疎開していた獅子文六に会ってフランス演劇の話を聞いたりしました。

辻邦生「松本 わが青春」『言葉が輝くとき』文芸春秋、1994年、306頁

小田原から湯河原にかけて、夜半前の時間に海沿いの道路を走ったことがあります。湯河原に向かう道路の左手には滔滔とした相模湾のうねりがあって、その上に銀色の満月がギラギラと輝いていて、うねりのある柔らかい海面に月の光が反射していてまぶしいほどの美しさだったのを覚えています。辻先生の文章を読むと、この夜の湯河原への記憶が甦ってきたのでした。辻先生もきっと湯河原で海面に映る満月の光を見たに違いない、と思うのです。

Miscellaneous

最近思うのは携帯を打つ速度が遅いと言うこと。キーボードの方が速いのは当然なのだが、携帯でサクサクメールを書く若い子達を見て、高校生の頃、ブラインドタッチをマスターした時のことを思い出したのである。その頃はブラインドタッチをものにした人はあまりいなかったから、一生懸命頑張って練習したものだった。携帯での文字入力も同じではないか。若い子達は、信じられない速さで携帯で入力できるのに、そこから逃げてはならないのである。機会を捉えてモブログで携帯での文字入力を練習しよう。

Classical

Samuel Barber: Orchestral Works, Vol. 2 Samuel Barber: Orchestral Works, Vol. 2
Wendy Warner、 他 (2001/03/20)
Naxos
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バーバーのアダージョを聴きました。家族はこういいます。「よくアメリカ映画でこの曲使われているよね。凄惨な戦闘シーンが音なしスローモーションで流れるとき、この曲をバックで流すよね」
たしかに、ありがちな状況です。
悲哀をおびた音楽なのですが、落ち込んだときに聴くと、逆にいいセラピーになる曲です。これから聴く機会が増えそうです。

Book

音楽入門―音楽鑑賞の立場 音楽入門―音楽鑑賞の立場
伊福部 昭 (2003/05/22)
全音楽譜出版社

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完読していませんが、面白いので少々引用してみます。

正しい思考と、長い訓練によってのみ、はじめて感得しうるような種類の美がありますが、まず、第一に裸になって、自分の尺度を主とするところから始めなくては、決してそのような高い美しさを感得しうるようにはなり得ないと言うことを述べたいのです。

伊福部昭「音楽入門─音楽鑑賞の立場」全音楽譜出版社 2003年 12ページ

アンドレ・ジイドは「定評のあるもの、または、既に吟味し尽したものより外、美を認めようとしない人を、私は軽蔑する」と述べていますが、……

伊福部昭「音楽入門─音楽鑑賞の立場」全音楽譜出版社 2003年 13ページ

私たちが音楽作品を聴く場合に、第一に心がけねばらなぬことはこのことです。すなわち、その作品にあって、音がどのように美しく構成され、またどのような運動をするかということにかかっているのです。もっと平易に言えば、音楽は音の純粋舞踊のようなものだと考えればいいのです

伊福部昭「音楽入門─音楽鑑賞の立場」全音楽譜出版社 2003年 42ページ

観賞の立場から言えば「音楽は思想で聴くものではなく、その音を聞くべきものだ」

伊福部昭「音楽入門─音楽鑑賞の立場」全音楽譜出版社 2003年 48ページ

何はともあれ真の音の美しさを味わうためには、自己の中にある既成の音楽上の観念を一度捨てて、純な素直な心がまえで、音楽にもう一度触れてみる必要があるのです

伊福部昭「音楽入門─音楽鑑賞の立場」全音楽譜出版社 2003年 52ページ
ふうむ、音楽鑑賞をするにあたって、少し冷や水を浴びせられた感じ。もっと素直になって聴かないといけないなあ、と。そのためには、いわゆる世評が確立された録音だけではなく、その他の録音も聴かないといけなかったり、「音の純粋舞踊」を楽しむために、音の構成や運動を理解する必要があったり、僕がまだ到達できていないところが求められているようです。
続きを読んでみてまた書いてみたいと思います。

Tsuji Kunio

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夏の海の色 夏の海の色
辻 邦生 (1992/04)
中央公論社

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<海峡:黄色い場所からの挿話 XII>「夏の海の色」

夏の海の色から「海峡」を読む。

今は、誰もが直接に生きるのを嫌うのよ。山に登るかわりにリフトで頂上に行こうと思うでしょ?自分で楽器を弾かないで、ラジオやレコードで音楽を聴くのを好むでしょ?」

辻邦生「海峡」『夏の海の色』中公文庫、1992年、260頁

このエマニュエルの言葉には、冷たい手を胸に当てられたような思いを抱いてしまう。最近はCDで音楽を聴くことが多くて、自分で演奏する機会なんてなくなってしまった。演奏できる楽器がサクソフォンだけなので、家で吹くというわけにも行かない。エマニュエルの言葉に触発されて、EWIという楽器を吹いてみるのだが、アンブシェアががたがたで長い時間吹けなかった。歳を重ねるにつれて出来なくなってくることが増えてくる。欲望だけは拡大していくのだが、実現できることは明らかに狭くなってきている。これだけが歳をとると言うことだとすれば、寂しいことだ。

話題がそれてしまった。とにかくこの掌編もアクチュアルなものとして対面せざるを得なかった。というのも、北の町で働くことを、最近になって現実的なものとして想像しはじめたからである。北の町でささやかな生活を暖めることが出来るのならば、それはそれで幸せなのかもしれない。都会は選択肢が多すぎて疲れるのだ、とある知人が話をしていたのが思い出される。

だが、北の町に暮らすことだけでは解決策にならない。都会に住みながらも生活を暖めることが出来なければ、文明の敗北だと思うのである。課題は山積するが、有効な解決策を見いだせない。ただ、本を読むことが出来るぐらいである。

これ以降あらすじ。


あらすじ

エマニュエルと私は、夏の休暇を、友人のウタ・シュトリヒの故郷である海峡に面した北フランスの小都市で過ごすことになった。これまでは南フランスで過ごしていたので、北フランスの夏を新鮮に感じるエマニュエルと私。エマニュエルは魚を捕りたいといって、小都市での暮らしを楽しみにしている。

「地中海の晴れやかな夏もいいけれど、北の海の翳りのある夏も味わってみたいわ。きっと私ね、魚を捕るのに夢中になると思うわ」
「今まで釣をしたなんて言ったことある?」私が言った。
「ないわ」エマニュエルは笑って首を横に振った。
(中略)
「しかしなんで急に釣のことなんか思いついたのかな?」
「きっと、私ね、生活にもっとさわってみたいのかもしれない」
「今だって生活しているじゃない?」
「もっと直接に、日の光や、風や波に触れる生活がしてみたいの」
「それは賛成だな」
(中略)
「賛成しない人の方が多いと思うわ。今は、誰もが直接に生きるのを嫌うのよ。山に登るかわりにリフトで頂上に行こうと思うでしょ?自分で楽器を弾かないで、ラジオやレコードで音楽を聴くのを好むでしょ?」

辻邦生「海峡」『夏の海の色』中公文庫、1992年、260頁

都会では、自分がする前にすべて他人がやってくれた。(中略)生活ではなく、生活の幻影を追って生きているのだった。私はいつだったか、ふと、このことに気付きはじめると、その後、都会では、自分で生活を試みる機会がいかに少ないかにしばしば驚かされたのだった。

辻邦生「海峡」『夏の海の色』中公文庫、1992年、262頁

こうして、エマニュエルと私は北の小都市へ到着する。慎ましく素朴だが、同時に質実剛健な雰囲気を醸し出す街の様子に二人は喜ぶ。早速、釣や海水浴をはじめるエマニュエルと私。

「この夏は、ぼくたちはすべてにじかに触れるように暮らそうと言っているんだよ」私がウタに言った。「こうして自転車に乗って森の匂いや潮の匂いを嗅ぐと、もうそれだけで、ぼくらの願いが充された感じだな」
「ある意味では、ここには、そういう直接の生き方しかないんだわ」ウタは私を振り返って言った。「それはとてもいいことだけれど、この土地に縛られた人には、また別に考えられるのね」

辻邦生「海峡」『夏の海の色』中公文庫、1992年、268頁

ウタの父親は、海峡の連絡船の船長だった。だが、二年前に自殺し他界していた。快適な家があり、清潔な品によい街にかこまれ、家族とともに幸福に暮らしていたはずなのに、なぜ自殺をしてしまったのだろう、と私は考える。すべて満たされていたはずなのに、なぜ自殺を選んだのか?

しかし私は午後の静かな太陽に灼かれ、岩肌の快いぬくみで身体の湿りが乾いてゆくのを感じていると、この平穏な調和した安逸感が、かすかな不安を引きずっているのを感じた。
波は岩に砕け、音を立って海水が岩肌を流れ落ちていたするとすでに次の波が岩へ身体をぶつけてくるのだった。
私はその律動の無限の繰り返しの中に、生の無意味さ、生の無目的が、黒ずんだ窖のように、ぽっかり、口を開いているのを見るような気がした。波は砕け流れ落ち、また打ち寄せていた。
ひょっとしたら、ウタの父は、ある日、これに似た虚無感に捉われたのかもしれない。彼はそれに抗って、自分の市民的な義務(中略)を思い出し、生の意味を呼び起こそうと努めたに違いない。しかしずるずる崩れ落ちる蟻地獄のように、生の虚無の中に刻々に深く沈んでいったのかもしれない

辻邦生「海峡」『夏の海の色』中公文庫、1992年、275頁

エマニュエルと私は、ウタとともにこの北の小都市での休暇を楽しむ。午前中は釣をしたり、泳いだり、午後は午睡をとったり水彩画を描いたり本を読んだり。

そんなとき、対岸の街で市が開かれると言うことを知る。近郊の人々が不要品を持ってきて並べる市なのだという。ウタとエマニュエルと私の三人は連絡船に乗って対岸へと向かう。ウタは自分の父親の写真が出てきたと語りはじめる。父親はかつて人民戦線に加わっていたことがあるのだという。

私は考える。ウタの父親は、人民戦線での不幸な出来事の一切を忘れようとして、市民的な生活を送ろうとしていなのではないだろうか。この小都市でのささやかで幸福な生活に没頭しようとすればするほど、そこから引き離されているのを感じていたのではないだろうか。酸鼻を極めたスペイン内戦での出来事を見つめざるを得なかったのではないか。むしろこの小都市での幸福な生活の溢れるような生の意味を知っているが故に、そこから自分を切り離してスペイン内戦に加わったという重みが、彼に死を選ばせたのではないか?、と。ウタの父親が、幸福な生活の外にあるものを知っているが故に、このささやかで幸福な生活の意味を見いだそうとしていたのである。

だが、本当に、泳ぎや釣に没頭でき、太陽を愛し、風に心を高鳴らすのは、あの人々と──あの大都会の雑踏の中で──大工場の雑音の中で──事務機械のカチカチつぶやきつづけるなかで──汗を流し、不安と戦い、単調な時間に虐げられるあの人々と、真に心が結びつき、人々の思いがそのまま血のなかに流れつづけるときではないのだろうか。
ウタの父はそれを試み、それを失い、そしてその最後の糸を、この海峡の安逸のなかに見失いそうになった故に、自ら死を選ぶに至ったのだ。その死によって、彼のなかにある、この人々との結びつきを、彼は守り抜こうとしたのだ。

辻邦生「海峡」『夏の海の色』中公文庫、1992年、285頁

Miscellaneous

20061206161000
今日の夕暮れはなんと美しいのでしょうか……。まるで晩秋のそれのようです。暦は冬ですが、太陽がわすれものを取りに来た戻って来たようです。

Tsuji Kunio

旧Museum::Shushiの記事から。

このWeblogは幾つか意図があってはじめたのだが、そのひとつが、辻邦生についての自分の考えをまとめる場にしてみたい、という点。「辻邦生」なんて、書くのはあまりに恐れ多い。辻先生と書くことにしよう。何も媚を売るわけではなく、純粋な尊敬の念から、そう書きたいのだ。

いつも迷っていた、辻邦生さんのことを文中で書くときのこと。かつてのブログにその解答が載っていました。移行後も、辻邦生さんのことは「辻先生」という表記にしようと思います。