Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

この商品の詳細を見る

ともあれ、私が残した仕事は、朝日の差しこむ明るい部屋のように、幾世代の人々の心のなかに目覚めつづけてゆくであろう。私はいずれ<死>に委ねられ、藤の花のようにこぼれ落ち、消え去るであろう。私の墓のうえを落葉が覆うであろう。(中略)墓石の文字も見えぬほどに苔むしてゆくであろう。だが、そのときもなお私は生きている。あのささやかな美しい書物とともに、和歌巻とともに、(中略)生き続ける。おそらくそのようにしてすべてはいまなお生きているのだ。花々や空の青さが、なお人々に甘美な情感を与えつづけている以上は、それらのなかに、私たちの思いは生き続けるのだ……。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、431頁
光悦の最後の独白です。死してもなお生きると言う境地に達した光悦の言葉です。それは、みずからの残した仕事において生き続けることが出来るというのです。
光悦の場合も同じでしょう。光悦は死しても、光悦の残した筆は消えることはありません。死後数百年が経った今でもなお生き生きとしているのです。光悦の作品を通して光悦は今もなお生き続けているとでも言えるのではないでしょうか。
この「自らの残した仕事において生き続ける」ということを僕は一瞬だけ直覚したことがあります。自らの信ずる仕事を後世に残すことで死を越えることができる、あるいは死と折り合いをつけることが出来るという純粋な直観を、会社帰りの真っ暗な夜道で感じたのを覚えています。辻邦生先生が亡くなってからもう七年半になりますが、いまでもなおその作品群において世の中を見据えていらっしゃるのではないか、と思うのです。
次回は、同じく光悦の最後の独白で述べられる「太虚」について書いてみたいと思います。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

この商品の詳細を見る

だが、おれは、ようやくこの世の背理に気づくようになった。(中略)この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)この世の背理に気づいたものは、その背理を受け容れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。(中略)それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、413頁

絵師とは、ただ絵を乾坤の真ん中に据えて、黙々と、激情をそのあかりとして、絵の鉱道を掘り進む人間だ

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、414頁
宗達の独白から二箇所引用してみました。
前者の「世の中は背理であるが、それを憎むのではなく、哄笑するのだ」というところ、ここに辻文学の秘密がかくされているのではないかと思うのでした。それは志波左近が「心意気」を拠所にして生きているのと似ています。人生を玻璃の手箱にたとえて、手箱の外に出て手箱を見遣る境地と同じなのです。不正、汚辱、矛盾、苦悩に満ちたこの世の中を憎悪したり、怨恨を抱いたり、性急な是正を求めるのではなく、あくまでその外に立って哄笑するのみという境地なのです。それは宗達の場合「黙々と絵の鉱道を掘り進む」ことによって求められるのであり、光悦の場合は書を書くことによって求められていたのでした。
これを読む我々はいかに生きるべきなのでしょうか?文学に人生訓を求めることは時に危険なことがあります。しかしながら、この文章を読んで自らの生き方に宗達の言葉を当てはめたいという誘惑を絶つわけには行かないと思います。
言葉で理念だけを述べるとすれば、世の中の背理、矛盾、悪弊を笑い飛ばし、自ら天命と思う仕事にただただ邁進するということだと思います。言葉で言うのはきわめて簡単ですが、これを実践に移すには果敢な決断力と勇気が必要とされそうです。
嵯峨野明月記も終わりに近づきました。次回は光悦の最後の独白を取り上げてみたいと思います。

Jazz


Smokin' in the Pit
Smokin’ in the Pit

posted with amazlet on 07.01.17
Steps Ahead
NYC (1999/08/10)
売り上げランキング: 2564

ステップスのアルバムには、マイケル・ブレッカーを始め、スティーヴ・ガッドやエディ・ゴメス、マイク・マイニエリ、ドン・グロルニックなど著名なミュージシャンが参加しています。大学時代に耳にタコができるほど聴いたアルバムの一つです。
数年ぶりにCDをAACに落としてiPodで聴いて涙。そして、最大の泣き場所は、Young and Fine。数年ぶりに聴いたけれど、懐かしいというか何というか。この曲のマイケル・ブレッカーのインプロヴァイズは覚えたよなあ……。サークルの先輩と飲みながら一緒に歌ったこともあったなあ……。
今聴いてもやっぱり覚えています。ああ、このブレッカー・フレーズ、音階を漸的に上げていって、最後にガッドと共に最高の境地に達するあの瞬間。ゴメスの超速パッセージ。時よ止まれ!なにもかも懐かしい!
僕もこの曲をバンドでやったことがありましたが(個人的には完敗でしたが……)、そうした思い出とも重なって、甘みとも苦みとも言えない、複雑な思いの中に沈んでいくのでした。


久々にジャケットを開くと、若いマイケル・ブレッカーの写真が載っている。本当にYoungでFineなブレッカーを聴くと悲しみがつのっていくばかりです。

Classical

マーラー:交響曲第5番 マーラー:交響曲第5番
ラトル(サイモン) (2002/10/25)
東芝EMI

この商品の詳細を見る

一日遅れですが、カラヤン以外ベルリンフィルで最も印象的だと思う演奏です。ラトルの振ったマーラーの交響曲第5番です。ヴァントのブルックナーのシリーズにしようか、アバドのマーラーにしようかと迷ったのですが、最も衝撃的だったのが、ラトルのマーラーでした。
はじめて聴いたのはNHKBSで深夜に放送された映像を見たときでした。もう4年ほど前になると思います。たしかラトルの芸術監督就任記念コンサートという位置づけだったと思います。
印象に残ったのは第三楽章で、テレビ映像に驚かされたのでした。ホルンがラトルの横に立って、あたかもホルン協奏曲のように演奏されていたのでした(メンゲルベルクが考案したそうです)。ウィンナーワルツのような華麗さを醸成していたのでした。
それにしても、ラトルの演奏を聴いて眼から鱗が落ちました。マーラーの5番がこんなにも面白い曲だとは思いもよらないことだったのです。それまで持っていた盤では味わえないものでした。ラトルが自分の美意識を隅々にまで浸透させているのがよく分かるのでした。そのころまでラトルを聴くことはあまりなかったのですが、本当に巧い指揮者なのだな、と思い知らされたのでした。生き生きとした躍動感と、隅々にまで施された装飾的美しさを、こんなに楽しむことが出来るのものなのか、と思ったのでした。
ベルリンフィルではなくラトル中心になってしまいました…。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

この商品の詳細を見る

今日も光悦の言葉から引用してみたいと思います。

荒々しく、獣じみて激しく生きることは出来なかった。私にはどんな形であれ、平行のとれた、静かな端正な生活が必要なのだ。それは諦念でもなく、逃避でもなく、むしろ本来の自分であろうとする決意といってよかった。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、286頁

私も、自分も今日をのがれる人の群れにまじって洛外へ歩いているが、この人々とは全く別個の世界に生き、そこに立っているのを感じた。(中略)自分がおそれてもおらず、失われるものにも全く無関心であるのを感じた。言ってみれば、私はこうした人々が一喜一憂する浮世の興亡や、栄耀財貨などを、加賀の夏、立葵が咲きほこるのを見て以来、自分に無縁のものとして切りはなしていたのだ。少なくとも私が書や能に打ちこんで生きることを心がけて以来、それらは日々刻々に私の外へと剥落していたと言っていい。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、326頁
「立葵が咲きほこるのを見て」というのは、加賀で志波左近と出会った光悦が、この世を一つの玻璃の手箱にたとえて、手箱の外に出てそれを静謐に眺める境地に達した時のことです(1月6日ブログ記事参照)その境地にあっては、浮世のこと、人間の栄枯盛衰や、経済の成り行き云々について徐々に無関心になっていくと言うわけです。それは、「本来の自分」になろうとする強い意志によって獲得された境地なのです。
こうした境地があることが分かっていて、この境地にすぐにでも達っしたいと思うのが常なる欲求なのです。この境地に達するための方策は、光悦とは違う方法で(ひいては辻邦生先生とは違う方法で)見つける必要があるということだと思います。それが「バランス感覚を保つ」ということだと思うのです(1月5日ブログ記事参照)。あきらめてはいけないと思いますが、本当に難しいことだと思います。

Jazz

マイケル・ブレッカー マイケル・ブレッカー
マイケル・ブレッカー (1999/10/20)
ユニバーサルクラシック
この商品の詳細を見る
Don't Try This at Home
Don’t Try This at Home

posted with amazlet on 07.01.14
Michael Brecker
Mca (1996/09/24)
売り上げランキング: 161987

僕が最も敬愛するジャズミュージシャンであるマイケル・ブレッカー氏(Michael Brecker)が亡くなられました。57歳でした。
http://www.usatoday.com/life/people/
2007-01-13-brecker-sax_x.htm?POE=LIFISVA
ひどくショックを受けています。
数年前から白血病にかかり、闘病生活を送られていたのですが、ドナーが見つからず、娘さんから移植を受けていた、ということは知っていたのですが、よもや亡くなってしまうとは…。57歳ですからね…。若すぎます。
マイケル・ブレッカー氏のことをはじめて知ったのは1991年頃だったと思います。高校生の時分でした。AKAI社のEWIという楽器の使い手である氏のことを、ジャズライフ誌の記事で知ったのが始まりでした。Now You See Itというアルバムが初めてのマイケル・ブレッカー体験でした。
大学時代は、マイケル・ブレッカー氏名義のアルバムはもちろん、参加アルバムを聴き漁りました。サックス吹きとしては、ついぞ真似することすら出来ませんでしたが……。
社会人になってからも、ジャズと言えばブレッカー氏参加アルバムしか聴いていませんでした。
次に来日したら、聴きに行こう、と家人と話をしていたのですが、それも叶わぬ夢となってしまいました。
得も言われぬ喪失感です。この喪失感は1999年にも味わいましたが、またもやという感じです。ブレッカー氏には80歳になってもサックス吹いていてほしかったし、またクールで熱いインプロヴァイズを聴かせてほしかった。最近のアルバムではストレート・アヘッドなジャズを聴かせてくれていたのですが、もう一度フュージョンなブレッカー氏を聴きたかった。
これはもうしばらく元気を出すことが出来ないですね……。

Opera

Capriccio Capriccio
Richard Strauss、 他 (2005/09/13)
Deutsche Grammophon

この商品の詳細を見る

シュトラウス・ヒロイン シュトラウス・ヒロイン
フレミング(ルネ)、グラハム(スーザン) 他 (2006/05/24)
ユニバーサルクラシック

この商品の詳細を見る

Richard Strauss: Capriccio / Sawallisch, Philharmonia Orchestra Richard Strauss: Capriccio / Sawallisch, Philharmonia Orchestra
Richard Strauss、 他 (2000/08/15)
Angel
この商品の詳細を見る
R.シュトラウス/4つの最後の歌 R.シュトラウス/4つの最後の歌
トモワ=シントウ(アンナ) (1998/06/10)
ユニバーサルクラシック
この商品の詳細を見る

今日も聴いてしまった「カプリッチョ」。この場では何度も取り上げたので、少々執心が過ぎるのではないかとも思いましたが、今日もこの曲を聴きたい気分なのでした。
今のところ月光の音楽→伯爵夫人のモノローグの部分を、サヴァリッシュ盤(伯爵夫人:シュヴァルツコップ)、ベーム盤(伯爵夫人:ヤノヴィッツ)、エッシェンバッハ盤(伯爵夫人:フレミング)、カラヤン盤(伯爵夫人:トモワ=シントウ)の4バージョンで聴いていますが、いまのところ一番好きなのはベーム盤でしょうかね。
クラウス盤は、現在注文中。楽しみです。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

この商品の詳細を見る

与三次郎が言った絵というのは、ただ心の震えを一方的に吐きつくすというだけではなく、それが同時に、そのまま見る人の心に浸みわたってゆくものでなければならなかった。そうした心の震えを絵の中に湛えておくことを、描く者も望み、見る者も望むゆえにはじめてそこに成り立つのが、与三次郎の言う絵でなければならなかった。いや、絵というものはもともとそうしたものでなければならないのだ、と、おれは思わずつぶやいたものだ。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、239頁
美の生成者が産出する美的価値は、常に普遍的であることを要求されると言うことだと思います。これは「小説への序章」においても取り上げられている主題のひとつです。以下引用してみます。

主体は、「世界」のなかに置かれているが、同時に世界を「世界」ならしめている根拠を自己のうちに持っていることも直観的に了解している。しかしこの根拠とは、それが基準となり、そこから発進するという意味ではなく、「世界」に対して、自己が開かれ、「世界」を自己の意味内容としているという意味である。(中略)ここで重要なことは、直観そのものが全体性をとらえているということであり、したがってその直観内容を行動、言語によって分節する場合、それはすでにこの統一的な全体によって保証されているということである。

辻邦生『小説への序章』河出書房新社、1976、174頁
宗達は、狩野光徳のような経験を元にする帰納法的方法では全体の直観が不可能であると指摘していました。そうではなく、宗達が選んだのは、自分の中にある印象に基づいて絵を描くと言うことだったのです。これが「「世界」を自己の意味内容としている」と言えるのではないでしょうか。帰納法に対して言えば演繹的方法だと思います。
もちろん、この方法は科学的な方法ではありません。普遍的妥当性も客観的必然性を持つことは出来ないでしょう。しかし、芸術において、芸術の産出者は常に「世界」を自己の中に持っているというある種の気概、要求を必要とするのです。それが他者において受け容れられるべく世界とつながっているということを常に求めなければならないのです。

Opera


ワーグナー「ニーベルングの指輪」(全曲) ワーグナー「ニーベルングの指輪」(全曲)
サヴァリッシュ(ヴォルフガング)、ヘイル(ロバート) 他 (2005/09/14)
東芝EMI

この商品の詳細を見る

先日の「ワルキューレ」に続き、「ジークフリート」を三日かけてやっと見終わりました。正直疲れましたが、ブリュンヒルデの覚醒シーンには感動しました。ブリュンヒルデが「ジークフリート牧歌」のフレーズを歌うあたり、最高でした。
ルネ・コロ氏を楽しみにしていたのですが、衣装と髪型が今ひとつで残念。ジークフリートとしてつけられた演技も少し無理があるかなあと。まるで「知性のかけらもない乱暴な男の子」的な演技がつけられていて、すこし疲れます。ただし、男の子と言うには無理のある年格好なのですが……。コロ氏が悪いわけではないのですけれど。しかし目を閉じて聴いているだけにしておけば良かったです。
演出ですが、「ワルキューレ」の時もそうでしたが、未来宇宙都市と神話的舞台が混交していて、残念ながらちぐはぐな感じが否めません。スペースコロニーと見まがう背景を前に、革の切れ端を重ね合わせて作ったようなジークフリートの衣装を見るのは、解釈するのに少々疲れました。そのちぐはぐさに意味を見いだす必要があるのかもしれませんが、今の僕にはそれをなす力が足りないようです。
僕が大好きなクルト・モル氏が少ししか出てこなくて残念。あの美声はやはりばらの騎士で味わうしかありません。
次作「神々の黄昏」も引き続き見てみたいと思います。楽しみですね。

Classical

徳川慶喜 ― オリジナル・サウンドトラック 徳川慶喜 ― オリジナル・サウンドトラック
NHK交響楽団 (1998/07/15)
ユニバーサルクラシック

この商品の詳細を見る

1998年のNHK大河ドラマは「徳川慶喜」でしたが、湯浅譲二氏による音楽が抜群でした。
このサウンドトラックの冒頭のテーマ曲が特に素晴らしい。オーケストラ作品なのですが、オケの語法を巧みに使いながら、実に日本的な情感を産み出しています。能楽のような旋律の澄んだ空間感とオケの重厚な和声が産み出す重厚感が溶け合っています。大河の名にふさわしい壮大な音楽です。見事です。