Opera

この一週間は充実した毎日、とでも言うしかありません。平日はなかなか時間がとれないです。もっぱら通勤時間にジークフリートを聴いています。ジークフリートは二幕まではほとんど男声ばかり。鳥の声は女声ですが。ほとんど男子校的なのりで進むのですが、三幕にエルダが登場して、少し花を添えてくれますけれど、圧倒的なのは目覚めたブリュンヒルデとジークフリートの出逢い以降のところ。圧倒的高まりに感服。トリスタンの第二幕を思い出します。音楽的もようやくと分かり始めたというところでして、ワクワクしますね。

今朝、HMVのネットショップで、ブーレーズとレヴァインのリングDVDを買おうかと相当迷いまして、カートに入れるまでしたのですが、踏ん切れず。両者とも1万円を超えますし、DVDを見る時間はあまりないですのでかなり悩みます。っつうか、iPodに入れればいいのかなあ。

それにしてもジークフリートの無邪気さといったら。狡知に長けたハーゲンの術中にはまるのもうなずけます。ヴォータンの孫だというのに……。神々のコントロールを避けて、指環がアルベリヒの手中に収まらぬよう、自在に動くべき英雄なのですけれど。英雄とは邪気を持たぬ純粋な心の持ち主でなければならないのでしょうかね。そう言う意味ではジークムントも無邪気な英雄ですね。無邪気な英雄といえば、パルジファルもそうですね。

ここでワーグナーが書いた英雄は、神々のコントロールだけではなく、神々の意図を象徴する世間体とか共同体といった価値をも逸脱しているはず。ジークムントとジークリンデが駆け落ちしたのもそうだし、それを見てフリッカが怒るのは神々の意思=共同体倫理に反しているからともとれます。それは革命家としてのワーグナーとも重なりますし、不倫の恋を経験したワーグナーとも重なります。

そもそも芸術家はある種児戯的な物事に価値を置くところから始めます。常に世間と対立しなければならないということ。厳しい立場です。給与所得者とは違う厳しい道を歩いているというところでしょうか。 まあ、どの道も茨の道で、後ろからは追ってが差し向けられていて、走らないと死んでしまう。いや、死ねたほうがマシなくらい。追っ手は、我々を辱めたり、死よりも辛い境涯の輪を我々にかけようとしているのですから。