つれづれなる──ベルク「抒情組曲」

 アクシデントはなかなか収束しない。ウチの組織に属する某課長が「仕事というのはどれだけ他人にボールを持たせるかなのだ」と滔々と語っているのだが、 現場組織から来た男は「仕事というのは、三遊間に飛んできたボールを以下に拾うか、なのだ」と言っている。はて、どちらが正解? どちらも正解? 少なくとも今は後者に従っているけれど、自分のポジションに飛んできた球を落としそうになっている予感。そろそろスタンスを前者に変えようかなあ。

人の記憶は余りに儚い。っつうか、どうとちころんで、ショルティのばらの騎士でキリ・テ・カナワが歌っている、という記憶になったのでしょうか。クレスピンじゃないですか。申し訳ありません。間違いました。

いつもお世話になっている「さまよえるクラヲタ人」さん。いつも素晴らしい記事で、勉強しております。新国の「ヴォツェック」のレポート、素晴らしくて、私も思い起こしながら読んでいた次第。この数日、ベルクを取り上げておられまして、私も刺激されてベルクを聴いています。

抒情組曲。この曲は元々は弦楽四重奏のために作曲された曲。念のために書き添えると、もともとはツェムリンスキーに捧げられていて、曲名の「抒情」は、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」から引用されています。これも有名な話しですが、ベルクは当時ハンナ・フックスという女性と不倫関係にありました。ハンナ・フックスは、アルマ・マーラーがマーラーの死後に再婚したフランツ・ヴェルフェルという文学者の姉に当たる人で、プラハ訪れたときに知り合った仲でした。

この、ハンナ・フックスとベルクの間に交わされた書簡が刊行されておりまして、英語版ですが私も購入しました。当たり障りのない挨拶が、急に深刻で切々とした愛の告白に変わってしまうという恐ろしさを味わいました。もっとちゃんと読まないといけないのですが。

wikiに載っていた第一楽章の音列ですが以下の感じ。冒頭のファンファーレ的なフレーズのコード進行と合致しているのがわかります。最初の音は、Fで、最後の音はHです。つまり、これはハンナ・フックスの頭文字と一致するわけです。

この音列、最初がハ長調で調性的で、後半はかなり外れてきます。こういうセンス、実は僕にとってはなじみ深くて、結構ジャズジャイアント、特にマイケル・ブレッカーなんかだと、こういう感じで調性から無調への飛躍をうまく取り入れておられると思います。

 

 →こちらで聞けますよ。Lyrische Suite_1.mid

ルルの音列も、調性と和を結んだ十二音音楽ですので、美しいのに実は十二音だったという籠絡のされ方が気持ちよいわけですね。

この曲、1年前ほどに、何十回と繰り返し聞いていたのですが、何度聞いても新鮮です。今日も昼休みはずっと抒情組曲。何度聞いても飽きがこない。それだけ僕には難しいのですが。。

 

 

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ハーマン・ウォーク「戦争の嵐」3  完了

9月に頓挫していたハーマン・ウォークの「戦争の嵐」、ようやく読了しました。主人公のヴィクター・ヘンリー、通称パグの一家を軸とした大河ドラマです。

パグという名前は、ヴィクターがフットボールのフォワードで、パグ犬のようにタフだからついたあだ名です。 大艦巨砲主義者のパグが、真珠湾を目撃し、マレー沖海戦のニュースを知って、合理的に航空兵力の優勢を納得するあたりは、合理性を重んじる実直な人柄な現れでしょうか。

パグはルーズベルト大統領の信頼を得て、チャーチル、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンといったキーパーソン達と相まみえることになります。このあたりは歴史の舞台裏を覗いているようで実に興味深い。物語の最終部、真珠湾攻撃の描写はアメリカ側からのものですので、少々新鮮でした。

間に挟まれた「世界帝国の敗北」という、架空の歴史書の記述も面白い。最後になって読んだ下りは実に印象的でして、曰く、三国同盟(ドイツ、日本、イタリア)は、軍事同盟と呼ばれるものではなかったという冷徹な指摘など。もし有効な軍事同盟であったとしたら、ドイツがソ連に侵攻すれば、同時に日本もソ連と戦端を開くべきであったし、アメリカの参戦を招く真珠湾攻撃こそあり得べからぬ作戦だったというもの。緊密に連携した米英に比べ、地理的に隔絶された日独が連携できなかったのもやむを得ないかとも思いますが。

それにしても、戦後になって振り返ると、連合国の勝利は間違いようのないものであったかと思いますが、その中に身を置いてみると、枢軸国の勝利も不可能が不可能である、と断じるのは難しかっただろう、と思います。さまざまな幸運や不運が積み重なって歴史は作られていくものですので。歴史をタラレバで語るのは愚の骨頂かも知れませんけれど。

バイロンとナタリーを巡る物語がスリリングです。特にナタリーはユダヤ人ですので、ナチズムが拡大する東欧や南欧にあって大変な苦労をすることになります。最終部では、なんとか船でイタリアを脱出するのですが、その先はいかに? また、パグが艦長として着任する予定だった戦艦カリフォルニアは、真珠湾攻撃で沈没寸前です。パグはどのように太平洋戦争を戦うのか? 戦闘機乗りの長男ウォレスは? 潜水艦乗りの次男バイロンは、ナタリーと再会できるのか?

続きである"War and Remembrance"は、邦訳がありません。ペーパバック版をebay(というかSekaimon)で格安で入手したのですが、さて少しずつ読まないと。

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シルマーとキリ・テ・カナワの思い出~シュトラウス「カプリッチョ」

今日から久方ぶりに仕事。三連休もあるとなまってしまいますが、がんばります。

今日は朝から、「カプリッチョ」終幕の場面ばかり聞いています。とりあえず通勤中はシュヴァルツコップ、昼休みはキリ・テ・カナワ。

実は、今までカナワのよさが巧く理解できていないところがあったのです。マノン・レスコーをドミンゴと歌ったDVDとか、ティーレマンが振った「アラベラ」でおなじみのはずなのですが。ところが、このウルフ・シルマーが振った「カプリッチョ」のカナワはとても良いです。柔らかく包容力があって、豊かな倍音を含んだ慈愛に満ちた声でしょう。それから、”Bruder” を「ブルーデル」、”Oper”を、「オーペル」と発音されたり、”Der”を「デル」と発音される感じが、ちょっと面白い。ヤノヴィッツはそれぞれ、「ブルーダー」、「オーパー」、「デア」と発音しているように聞こえます。ヤノヴィッツの発音のほうが学校で習った発音に近いです。

ウルフ・シルマーは、思い出深い指揮者です。これまで新国に何度も登場していらっしゃいますが、一番すばらしかったのはエレクトラでした。あれはもう欧州級のパフォーマンスだと確信できた演奏でした。それから、2001年のブレゲンツ音楽祭で「ボーエム」を振っておられるはず。あのときの映像、VTRに撮ったのですが、演出も刺激的で若手歌手もみなすばらしく、感動したのを覚えています。

それから、これも何度も書いたかもしれませんが、また書いちゃいますと、私が生まれて二回目に観たオペラは「影のない女」でして、見た場所はなんとバスティーユです。そして指揮はウルフ・シルマー。今から思えば贅沢極まりない光り輝く演奏だったはず。ですが、仕事疲れに時差ぼけが重なり、昼間の間お土産探しに走り回った所為で、陥落してしまいました。意識を失う三幕の間。。。なんてもったいない。穴があったら入りたい。まあ、当時は「影のない女」なんていう難しいオペラを理解できていたとは全くいえませんでしたし。なにより、幕が下りてから、バスティーユから、夜中のバスティーユ広場をつっきって安宿屋へ無事に帰れるか、ということのほうが心配で心配で仕方がありませんでした。

話がそれました。ともかく、ウルフ・シルマーの隙のないスタイリッシュで雄弁な音楽は大好きですので、このCDもたちまち気にいってしまいました。まず最初にチェックするのは月光の音楽なのですが、結構ゆったりとしたテンポでホルンを歌わせています。感動。溶けてしまいたい。

シルマーは、来春「パルジファル」を振りますが、いまからとても楽しみです。

それにしても月光の音楽て、なぜあんなに美しいのでしょうか。僕はそのひとつの理由は頻繁な転調にあると思います。短三度ごとにフレーズが転調しながら高揚へと向かう部分。あそこはこの曲の白眉だと思います。以前のように譜面を書いて考えてみたり、MIDIファイルをおけるといいのですが。

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やられた、泣いた、驚いた。二期会「カプリッチョ」

行って参りました、二期会の「カプリッチョ」。

結論。泣けます。泣けました。演出の読み替えには白旗をあげましょう。やられましたよ。

日生劇場に行ったのは恥ずかしながら初めてでした。本当は「ルル」や「エジプトのヘレナ」など、行くべき公演はあったのですが、いけずじまいでしたので。60年代の日本がまだまだ成長するという進歩史観が有効だった時代で、建築も実にやる気に満ちあふれています。劇場内部は様々な曲線が織りなす不思議な空間で、俄然雰囲気を盛り上げてくれます。

「カプリッチョ」の実演は二回目でして、一回目はなんとドレスデンのゼンパーオーパーにてペーター・シュナイダーの指揮でみるという幸運。何度も書いたと思います。しかし、あのときはその凄さを十全に理解しているとはいえませんでした。繰り返しになりますが、「カプリッチョ」はいまや僕の宝物のような作品ですので、楽しみでならなかったのです。

今回の公演、演出の読み替えがすごかったのです。もういろいろなブログでも取り上げられていると思います。時代設定は作品が実際に作られた1942年当時でして、舞台は不明ですが、おそらくはドイツ占領地域でしょう。

冒頭の六重奏では、ダビデの星を胸につけたフラマンとオリヴィエが登場します。この二人がユダヤ人であるという強烈な読み替え。ダイニングホールとおぼしき部屋は椅子やテーブルが倒れ、シャンデリアが床に転がっています。二人はそこでソネットの楽譜を見つけ、女性の肖像画、おそらくは伯爵夫人マドレーヌの肖像だと思います。すると窓の外から自動車のヘッドライトが差し込んでくる。入ってきたのはナチスの兵士たち。おそらくは親衛隊でしょう。フラマンとオリヴィエは逃げていきます。親衛隊は、テーブルを起こし、シャンデリアを天井に上げ、椅子を片づけます。ここで時間が遡行したのに気づくわけですね。

整えられた部屋では、フラマンとオリヴィエがチェスを打ち、演出家のラ・ローシュはソファで眠りこけている。ここからは、特別な読み替えはなく舞台は進んでいきます。演出面で面白いのは、幼い女の子のバレリーナたちが現れるところ。彼女たち、切り分けられたチョコレートケーキを本当に食べていたのは微笑ましかったです。

後半の最後が圧巻でして、みんなでオペラの題材を決めて、じゃあ帰ろうか、みたいな雰囲気になったところで、さっきまで執事だった男や召使いたちが親衛隊に成り代わって登場する。さっきまで床をはいたり窓を磨いたりしていた年老いた老人が黄色いダビデの星をつけたコートを着せられて連行されようとしている。ラ・ローシュは親衛隊に渡された黒い革コートを来ていて、鈎十字の腕章をつけている。ラ・ローシュは、まさに親衛隊かゲシュタポの一味だったという読み替え。

親衛隊達は、フラマンとオリヴィエにも、ダビデの星のついたコートを着せる。互いに、詩の方がすごい、とか、音楽の方がすごいとか言うシーン、普通の演出だと、予定調和的な平和なところなのに、ここではあまりに切迫している。伯爵夫人は、フラマンとオリヴィエにかけよろうとするのだが、伯爵がそれを止める。泣きながら階段を昇って行く伯爵と伯爵夫人の兄妹。ラ・ローシュは、それでも、フラマンとオリヴィエを逃がしてやるのだが、その後は……、おそらくは冒頭のシーンに戻り、そのうちにナチスに捉えられ死に至るはず。

 それからがすごいですよ。月光の音楽で、舞台には群青色の光が差し込む。昼間部に登場するバレリーナが再登場。ドイツ軍兵士(男性バレエダンサー、もしかしたらドイツ軍兵士ではなくワルシャワ条約機構軍の兵士かもしれない)に銃を突きつけられるのだが、そのうち一緒に踊り出す。すると、テラスに杖をつく老婆が。これが、年老いた伯爵夫人マドレーヌなのでした。つまり、あれからもう何十年も経った戦後に舞台は移っている。

伯爵夫人は床に落ちていたフラマンとオリヴィエのソネットを取り上げるんだけれど、埃が積もっているので、手で払い息で吹き飛ばしたりする。このトランスクリプションがすばらしい。執事の歌は舞台裏で歌われている。これはあたかも伯爵夫人マドレーヌの幻聴である。伯爵夫人がフラマンか、オリヴィエか、と迷い歌うのだが、このトランスクリプションの中にあっては、悔恨の思いで歌っているとしか思えない。あのとき、なぜ決断しなかったのか、なぜ救えなかったのか、という思い。なぜか、歌詞を読むとそういう心情にフィットしていて、驚きました。

これはですね、もう20代の若者にはわからないだろうなあ、と思います。「ばらの騎士」の最終部で、マルシャリンが時のはかなさを歌うけれど、それよりももっと残酷で過酷で厳然とした時間の非遡行性への嘆息。これは30代過ぎないとわからない。歳をとればとるほど切実なはずで、だからこそ、年配の観客が比較的多かった場内で涙の音が聞こえたといえましょうか。私も涙が出ましたですよ。年をとればとるほど涙腺ゆるみます。涙を流すというカタルシスはある意味心地よくもありますので。

一緒に行ったカミさんは厳しくて、そんなに評価してくれなかったけれど、僕の心にはかなり響きました。

ただ、最後に舞台装置を壊してしまったのは残念。伯爵夫人マドレーヌのシルエットを強調したいために、セットを取り払ったのだけれど、なんだかちぐはぐに思えてしまいました。演出面で言うとそこだけです。

指揮とオケもすばらしかったですよ。指揮は沼尻竜典さんで、演奏は東京シティフィルハーモニック管弦楽団。ちょっとした疵はいくつかありましたが、うねるような波がいくつも押し寄せるような演奏で、弦楽器の音も豊かで暖かく、演奏だけでも涙したシーンがありましたし。特に第七場最終部の間奏曲的部分はすばらしかった。月光の音楽ももちろん、です。ただ、月光の音楽のところ、演出に気をとられ驚いていたもので、少々上の空だったかもしれません。

すばらしかったのは、ラ・ローシュを歌われた山下浩司さんでして、声は鋭く張りがある感じで、ピッチも終始安定しておられまして大変安心して聴くことができました。あのラ・ローシュの大演説の部分もすばらしかった。歌だけではなく演技もそれらしくて、大変良かったです。この方、新国の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にも出ておられたのですね。

ともかく、またカプリッチョの実演に居合わせることができたのは大変幸福でした。これも一生の思い出になるのでしょうね。

次は、12月の新国メニューの「トスカ」です。トスカは久しく聴いていないですね。ま

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そうかあ、新国も事業仕分けで圧倒的予算縮減?ですか……。

 ふうむ、しかし残念なニュース。「日本芸術文化振興会、予算要求の縮減(圧倒的な縮減)」とのこと。

http://www.mext.go.jp/a_menu/kaikei/sassin/1286925.htm

新国、つまり新国立劇場は、独立行政法人日本芸術文化振興会の配下で予算をもらっているわけで、親組織の予算が圧倒的縮減となれば、影響は避けられないでしょう。来年の「トリスタンとイゾルデ」も「アラベラ」も危ない。危なすぎる。っつうか、2010年4月以降の演目も心配。せめて「影のない女」は見たいです。実は、来シーズンにまた「ばらの騎士」をカミッラ・ニールントが歌うという情報もありますが、それも厳しいのでしょうか。

まあ、景気が悪ければ真っ先に切られるのは文化芸術分野や科学分野だと言うことはわかっているのですが、いかにも残念すぎる。

新国の総予算は79億円。そのうち国からの予算は48億円。予算ヘラされても自前でなんとかできるようにしないといけないのかもしれない。メトロポリタンだってやばかったけれど、相当頑張っている。しかし、オペラや演劇、バレエのバックボーンがない日本で、どれだけやれるのか、不安は大きいです。

新国も他の分野ではいろいろゴタゴタがあるみたいですし、ハコモノにも見えましょうし、天下り先と見られても仕方がないんだけれど、昨今は公演のレベルも上がっていると思うし、新監督尾高さんを迎えてこれから、というところなんですがね。オペラは、ある種夢の世界ですが、本当に夢になってしまいそう。

10年後に、「あの頃は新国でも「軍人たち」や「ヴォツェック」をやっていたんだがねえ」なんて繰り言を言うようになっちまうかも。10年の蓄積は人的資源、ソフトウェアなんですが、このご時世だと、高速道路やスーパー農道と同じように写るんでしょうね。新国なんて、一部の人間しかその恩恵を享受していないと言われても仕方がないですし。

新国だけじゃなくて、国立劇場や文楽劇場などの国立系劇場もその影響くらうのだけれど。

先日ニュースで、日本科学未来館の予算も削られるとのことで、館長で宇宙飛行士の毛利衛さんが、民主党議員の前で必死に抗弁しているシーンが出ていました。そのお姿には痛々しささえ感じました。結局思い届かず予算削減となったのですが、本当に複雑な思い。むなしさを感じました。

これも民主主義ということなんですけれど、やっぱり少人数がバタバタと仕分けする姿は、なんだか統制主義的なにおいも漂う気がしなくもない。、国民の「生活」が大事だし、経済分野が最重要課題なのはわかりますが、殺伐とした統制社会が訪れようとしているのかもしれない。

つうか、まだ決まった訳じゃないし、意見あればメール送れるらしい。

ネット上の意見のうち、センセーショナルなものでは、新国はもう自主公演をできないのでは、的な意見もある。実際はどうなるかわかりませんが、今後の動向は注視が必要です。

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刺激と毒に満ちあふれた濃密な美的世界-新国立劇場「ヴォツェック」

行って参りました。新国立劇場のベルク「ヴォツェック」公演。スマートで格好良く、刺激と毒に満ちあふれ、片時もよそ見や上の空を許さない濃密なパフォーマンスでした。全三幕十五場を約100分のあいだ、ぐるぐるとヴォツェック世界のなかで振り回され、駆け回され、最後に一人舞台に取り残された子供の姿を見て思わず涙が出てしまうといった案配でした。なんでこんなに面白くて興味深いのでしょう。

水の張られた黒々とした舞台。立方体の部屋が上下し、場面によってはゆらゆらと揺られていて、劇中人物の不安定さを表しているようにも思えます。水に倒れ込んだり、ジャガイモや金にむらがる黒服の男達の姿はドブネズミかゴキブリのよう。黒服の男達は黒子のように舞台の上を動き回り、ヴォツェックにナイフを渡したり、倒れたマリーを舞台外に運び出したり、楽団を背中に乗せて現れたり、と言う感じ。

アップライトピアノが水面を滑るように現れるのには驚くばかり。水面の反射が舞台上に波紋を映し出したり、ナイフの反射光がヴォツェックを舐め回ったりと、光の効果も秀逸すぎる。クリーゲンブルク氏のセンスは抜群で、僕のツボにがっちりはまってくる感じでした。未知なものなのに見知ったもののように思える瞬間が不思議すぎます。抽象画を観るスリリングな感じと、調性を外れながらも美しさを保っている不安定で安定した音楽、両者の融合が産み出したキメラ的美と恐怖、といったところでしょうか。

実に重々しく堂堂たるヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤーですが、第一場の"Jawohl, Herr Hauptmann"と歌った途端にすげーとうなってしまう。演技も歌も素晴らしいマリーは、ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンでして、終始安定した歌唱で、低めの倍音を吹くんだ豊かなメゾソプラノで僕の好みの声。ビブラートもそんなにきつくない感じです。鼓手長のエンドリク・ヴォトリッヒは少々遠慮がちかしら。昨シーズンの新国「ワルキューレ」でジークムントを歌ったときのほうが調子が良かったかも。大尉のフォルカー・フォーゲルは、第一場ではちょっと抑え気味でしたが、その後は安定的。医者役の妻屋秀和さんですが、もうこの方なしには新国の舞台は成り立たないのではないか、と思うぐらい新国登場回数が多い方です。歌も演技も凄く良かったです。声の質がいつもより少し硬質に聞こえました。

ヘンヒェンの指揮は、私が聴いたどのヴォツェックの演奏(アバド、バレンボイム、ケーゲル、メッツマハーだけですが)よりもテンポを落とす場面があって新鮮でした。マリーを殺害した跡のB音(H音?)のロングトーンの破壊力はすさまじかったですし、最終場へ向けた間奏曲の高揚感と不条理感にも心揺れる思い。世の中、現実、社会の冷徹さ。東フィルは、最初の方はムラがあったような気がしましたが、進むにつれて気にならなくなる感じでした。

カーテンコールでは、当然ですが水の張られた舞台に歌手達が登場するわけですが、指揮者のヘンヒェン氏は、長靴を履いて出てきました。ちょっと面白いです。

最近、仕事でトラブル多発でして、仕事が入るかも、と行けるかどうか危ぶんでいたのですが、何とか観ることが出来まして本当に感謝感激でした。

舞台がはけてホワイエに出ると、次期芸術監督の尾高忠明さんのお姿がありました。意外に小柄に見えてびっくりしました。

次は、明後日に二期会の「カプリッチョ」を聴きます。こんなにオペラ通いしてもいいのでしょうか。

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ヴォツェックづくし

いよいよ今週末に迫ったヴォツェックですが、予習中であります。昨日はバレンボイム盤、今日はケーゲル盤です。
昨日、かみさんと懐かしい話をしました。そもそもヴォツェックを初めて聴いたのは大学を卒業したからでした。きっかけはかみさんが大学で、ヴォツェックの原作となったビュヒナーの「ヴォイツェック 」を読んでいたからでした。昨日、そういえば原作を読んだことがないなあ、と思って、邦訳を探したのですが、見当たらない。図書館にもアマゾンにもない感じです。かみさんに聞くと、当時から邦訳がなくて、ドイツ語で読んだのだそうです。まあ、そういう事情もあってかみさんからこの曲を教えて貰った感じでした。
当時はブラームスやシューマンの室内楽ばかり聞いていたのですが、このヴォツェックの第一幕第三場のマリーが歌う子守唄のこの世離れした妖しい美しさに卒倒したものです。

今聴いているケーゲル盤ですが、録音がいい感じです。若干SN比が高めですが、音のコントラストがくっきりしていて聞きやすいです。演奏のほうもケーゲルらしい鋭く研がれたガラス細工のようなかんじで、純粋すぎてかえって畏れを抱かないといけない気分です。レコメンドです。そういえばこのCDはドレスデンの免税レコード屋で買ったのでした。
今日は携帯からエントリーしました。また次回まで。
 

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ヴォツェック・オペラトーク@新国 (2)

一週間ご無沙汰しました。言い訳はいたしませぬ。と言うわけで、先日に続いて、ヴォツェックのオペラトークについてです。

 


ともかく、このオペラにおいては、ヴォツェックもマリーも、完全に貧困の袋小路に入り込んでいる。ここから逃れる術は全くないわけです。だからマリーは、鼓手長の中に貧困から抜け出す微かな可能性を求めているわけですが、冷静に考えると、鼓手長なんて言うのは、軍隊の中での階級はたかがしれている。結局逃れられないということです。しかも、それは自分たちの子供にも波及してしまう。きっとヴォツェックとマリーの息子も貧困の中で成長し貧困から逃れられないという現実。

(これは、まさに現在の日本がないしは世界が抱えている問題にも直結いたします。でもどうしようもないという無力感。自分がずり落ちないように支えるのが精一杯という現実)

クリーゲンブルク氏の演出の意図についての話し。(少々ネタバレですが、)

舞台装置は四角く、床には水が張ってあるそうです。それから黒い服を着た人物が何人も。登場人物はこの世ならぬ姿格好をしているわけですが、これはすべてヴォツェックから見た世界を表しているのです。ヴォツェックは、医者の実験台になり、抑圧されていて自分を見失い、精神的に崩壊しつつあるわけで、ヴォツェックの見る世界は常人あらざるものになっているわけです。まともに見えているのは、マリーと息子だけ。

舞台に水が張っているのは以下の三つの理由があるそうです。

一つは、ヴォツェックのいる世界が居心地の悪いと言うことを示している、と言う点です。じめじめしていて足下が濡れているという居心地の悪さ。特にドイツ人に取ってみれば湿気は日本人よりも嫌うでしょうし。

もう一つは、音響的な効果を狙っていると言うこと。ベルクの複雑な音楽に水音が加わることで、水音という我々にとっては身近な音が、ベルクの音楽世界をより現実に近いとことへと引き寄せよう、という意図があるのだそうです。これは実際にパフォーマンスに接してみないと分からない効果です。

さらには、視覚効果でして、水底が深淵であるように見せたり、あるいは水面の反射などの視覚効果を狙っているとのこと。こうした視覚効果から非合理的、非現実的な世界を表現しようとしているようです。

(少し面白かったのですが、舞台に水が張ってあることを、長木さんが「最近の新国ではやっていますが」といったことをおっしゃると、聴衆が笑ったこと。先日の「オテロ」の舞台でもやっぱり水が張ってあって効果的だったのですが、そのことを指しているのか、あるいは、劇場正面の水が張られた光庭を指しているのか)

この作品で重要なことは、ヴォツェックもマリーも良き人になろうとしていること。それに対して、大尉も医者もモラルから自由になっている。ヴォツェックもマリーも貧困といった現実社会の厳しさに直面して良き人であろうとしてもなかなかそうはなれない。特にマリーは鼓手長と関係を持ってしまい、罪悪感を覚えるわけです。このオペラの中でもっとも静寂なのはマリーが神に祈るシーンなのですが、その後ヴォツェックはマリーを殺してしまう。

なぜヴォツェックはマリーを殺したのでしょうか。クリーゲンブルク氏はこうおっしゃいました。非常に悲しいことに、マリーの殺害は、ヴォツェクが初めて自分でした決断だったわけです。それはヴォツェックの持つ怪物的な側面、それは貧困や境遇や人体実験によるものな訳ですが、そうした側面が表に出てしまったということなのです。

最後に一言ずつ。演出のクリーゲンブルク氏からは、この上演にてヴォツェック世界に入り、上演が終わりそこから去る時に、何かを持って帰って欲しい、という言葉が。指揮のヘンヒェン氏からは、この上演を故若杉弘芸術監督に捧げたい。本来なら若杉さんが振られる予定だったわけですが、残念ながらそれは叶わぬわけです。それからヴォツェックを「恐れずに」聴いて欲しい、とも。難解晦渋な現代音楽ではなく、実にエモーショナルな後期ロマン派音楽として不安を持たずに聴いて欲しいとのことでした。

せっかく書いたのですが、新国立劇場のウェブに全文載っておりますね。(#1, #2)ショック。せっかく頑張ってノートをとったのに……。

 

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ヴォツェック・オペラトーク@新国 (1)

昨日は、午前中に都内某所での所用を終えて、新国に向けてダッシュ。何とかオペラトークに間に合いました。

オペラトークの内容ですが、復習をかねて少しずつアップします。必ずしもお言葉通りには書かないと思います。お話しの順番や、やりとりの整合性が私がご報告するにあたって少々やりにくいところがあったり、私の所感が混ざったりします。すいません。

司会は長木誠司さんで、近頃東大の准教授から教授になられたとかで、「教授になっても仕事は増えるばかりで、給料は上がらない」とぼやいておられました。大学の先生がいかにもおっしゃりそうなお言葉で、大学の頃を思い出しました。懐かしい感じです。演出はアンドレアス・クリーゲンブルク氏、指揮はハルトムート・ヘンヒェン氏。

まずは、念のためあらすじ。近頃、「ヴォツェック」のあらすじを、他の方に説明する機会が何度かあったのですが、言えば言うほど陰鬱で暗い感じ。

兵士のヴォツェックは上官の大尉に虐げられ、軍医の実験台になって小銭を稼いでいる。内縁の妻マリーとの間には息子がいるのだが、マリーは軍楽隊の鼓手長と関係を結んでしまう。ヴォツェックはマリーの不義を見て取って池の畔でマリーを殺してしまう。酒場でヴォツェックの袖についた血を見られ、慌てて池に戻るのだが、ヴォツェックも池に溺れて死んでしまう。池から死体が上がったとの知らせに、遊んでいた子供達は池の方に向かうのだが、ヴォツェクとマリーの息子はただ木馬遊びを続けるだけだった。

「ヴォツェック」は1925年にベルリンでエーリッヒ・クライバーによって初演され、一定の成功を収めました。構成としては、三幕構成でそれぞれ5つの場があります。全部で15場からなる安定した構成となっています。 あらすじにも書いたように、社会の底辺とも言うべき貧困という現実を描いたオペラな訳ですが、これは当然ながら、19世紀半ば以降のイタリアのヴェリズモ・オペラに由来するものなわけです。「道化師」とか「カヴァレリア・ルスティカーナ」、あるいは「ボエーム」や「蝶々夫人」もその範疇でしょうか。 ベルクはこのオペラの原作であるビュヒナーの「ヴォイツェック」を29歳の時に見ています。直後に第二幕のスケッチを始めるなど、強い衝撃を受けオペラ化への強い意欲を持ったようです。もっとも、師匠格のシェーンベルクには「書くのなら、妖精が登場するオペラを書いた方が良い」と言われ、落ち込んだりもしたようですが。

ベルクはこのオペラで伝統的な技法も用いていまして、それはパッサカリアであり、フーガであったりします。また引用も非常に多く、冒頭部にはベートーヴェンの田園交響曲冒頭フレーズがモーティフとして使われていたり、シューマンからの引用、シュトラウスの「サロメ」のコントラバス部分と似た部分、マーラーの「高い知性の歌」(子供の不思議な角笛)など、様々な要素が取り入れられています。

(私が最近聴いている限りでは、マーラー的要素は随所に見られまして、交響曲第三番のフレーズがよく現れるような気がいたします。また、軍楽隊の部分もマーラー的だと思います)

つづく

 

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ブラームスの室内楽はお好き?

久々にブラームスを聞きたくなりました。というわけで、ピアノ三重奏曲第一番を。 ブラームスの室内楽には16年前から本当にお世話になりました。

今の私の嗜好はオペラ、大オーケストラに向いていますが、当時はほとんどブラームスの室内楽を聞き続けるという日々でした。きっかけは大学の助手の先生から借りたアマデウス弦楽四重奏団の室内楽曲全集でした。クラリネット五重奏曲と弦楽五重奏曲に耽溺していました。 それから、指揮がどなたか忘れてしまったのですが、シェーンベルクがブラームスのピアノ四重奏曲を編曲したオケ版を聴いたことがあって、あれ以来、ピアノ四重奏曲が気になって仕方がなく、たしかルビンシュタインがピアノを弾いたピアノ四重奏曲のCDを死ぬほど聴いていました。当時、ルコント監督の「仕立て屋の恋」を観たのですが、あの映画で第四楽章の気欝な感じの甘いフレーズが効果的に使われていたのに感動したのを覚えています。

当時は、まだサクソフォーンをバリバリに吹いている頃でした。当時の僕にとって見れば、室内楽の音のつくりとジャズコンボの音のつくりが多少似ているところがある、と思っていたらしいのですね。おそらくは、リズムを合わせる緊張感とか、音楽全体を構成する要素が数人規模であるところとか。ずいぶんと共感を覚えていたと思います。

少し話はそれますが、私は1995年から1999年頃まで、今思っても大変な幸福な出来事だったのですが、偉大な先輩方と一緒にバンドを組んでライヴをやったりしておりました。当時で言う「ホームページ」なるものを作りまして、いろいろと貴重な体験をしたわけですが、その時代が、ちょうど私が室内楽を聴いていた時代と重なるわけです。あのバンドでは、楽譜もまともに読めず、リズム感も音程も悪い私を良く拾ってくださったと思っています。

まあ、そういう淡い思い出的な要素もあって、今日聞いたピアノ三重奏曲はすてきでした。演奏はもちろんピリスとデュメイの黄金コンビ。私は、もうこの演奏でメロメロです。甘みのある倍音を含んだヴァイオリン、柔らかい雨だれのようなピアノ。まあ、ショパンの夜想曲をピレスで聞いていたからそう思うのだと思うのですが。この曲、何度か実演で聞いたことがありますが、やはりここまでの完成度に達した演奏は聴いたことがないです。

このお二方が演奏するフランクのヴァイオリンソナタも名盤中の名盤でして、そういえば、私の結婚式のBGMに使いました。

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