Classical

えーと、私はフランス語は分かりませんが、デジャヴがフランス語であることは知っておりますので、こんな題名。間違っていたらこっそり教えてください。

先日の続きです。先日はこちら。うだうだ長い文章になっちまいました。それでもせっかく書いた我が子を見捨てるわけには行きませんので載せちゃいます。次の段落からが先日の続きです。

さて、クラシックに話を戻すと、とはいいながらも、必ずしもメインストリームではないようなところでは、クラシック音楽の新曲が日々飛躍し続けておりますね。現代音楽がひとまず思い浮かびますが、もう一つは映画音楽などでしょうか。武満徹も映画音楽をたくさん作っておりますし、池辺晋一郎さんもそうですね(「独眼竜正宗」のテーマは最高!)。

そう言うわけで、やっぱりクラシック音楽は、過去の新解釈を産み出すと言う方向性が一般的ではなかろうかと思うのです。

もちろん、クラシック以外においても星の数ほどの曲があると思いますが、そこでも今後同じことが起こる可能性は否定できません。J-POPを聴くとそうした兆候がすでに現れております。今現在のJ-POP、旋律的にはデジャヴなことがおおいですので。演歌もそうでしょうね。

もっとも、J-POPも演歌も歌詞に重きを置いているということになれば、J-POP・演歌においては、音楽はただの添え物でしょうから、それでも良いのかも知れませんし、商業音楽においてはクラシック以上に解釈性、カスタマイズ度が上がっておりますので、もう少しは大丈夫かと思います。つまり、楽器の編成を変えたり、楽器を増やしたり、シンセサイザーを使ったり、サンプリングを使ったり……などなど、まだまだ未開地は残されておりましょう。

もっとも、「デジャヴ」感それ自体を価値あるものと見る考えもあるでしょう。人は自分の経験を通して外界を認識している、というあの考え方です。バッパー(チャーリー・パーカーを代表とするビバップ、すなわち第二次大戦直後のジャズシーンにおいて、インプロヴァイズにて多用されたフレーズ群を再構成して演奏をするミュージシャンのこと)は、むしろそうしたデジャヴ感を武器にしているとも言えます。必ずしもマンネリズムは悪ではありません。でなければ水戸黄門が1964年から35年間にもわたって放映されているわけはないのですから。

ここまでくると、私の大好きな「引用」とか「パロディズム」まで来ております。これはもう意図したデジャヴですので、その引用の巧みさに大きく肯う感じとなります。先に挙げたバッパー達の作る音楽もある種の引用美ですので否定はいたしません。

先日の「名曲探偵アマデウス」でショスタコーヴィチ交響曲第五番が取り上げられておりました。あの曲はいわゆる「社会主義リアリズム」的音楽として、ソヴィエト共産主義へのショスタコーヴィチなりの跪き、だというのが建前ですが、まあ、みなさまご存じの通り、ショスタコーヴィチの本心はそんなものではなかったわけです。それで、それをどうやって表現したか。引用、あるいはパロディなわけでして、第四楽章の冒頭の金管のフレーズは、「カルメン」のハバネラの歌詞「信じるな!」の部分の短三度である、ということが紹介されておりました。これはもう江戸時代のマリア観音的状態とも言えるでしょう。

抑圧された社会にあっては本心を表現することはあたわず、ただただ引用やパロディを盾にした表現をしているわけです。これは、音楽だけじゃなく文学もそうだと思います。忠臣蔵の舞台は確か室町期だったはず。討ち入りを大手を振って取り上げることが出来るぐらい自由な社会ではなかったので、そうやって話しを入れ替えたんですね。これも引用やらパロディの一種では。

と言うわけで、クラシックの中でも少々外れたところにあると言えるかと思われる映画音楽(ドラマ音楽)から、湯浅譲治が作曲した、大河ドラマ「徳川慶喜」のサウンドトラックをきいてみましょう。。もう10年ぐらい前になりましょうかね。今は「坂の上の雲」で秋山真之を演じる本木雅弘が主人公の徳川慶喜を演じました。ちょうどいろいろあったころで、なかなか見られなかったのですが、オープニングテーマに大きなインプレッションを感じたのを覚えていました。早速サウンドトラックを買いに走りました。

このテーマ、オケの曲なのですが、使われている旋律には日本の伝統音楽が活かされています。五音音階的ななフレーズがフルートとオーボエなどで演奏されたあと、切れ目なくメインテーマに入っていくのですが、ここのヴァイオリンのフレーズがものすごく良いのですよ。雄大な広がりをもった希望に溢れた旋律。この旋律は何度も膨らみながら高揚へと達します。この旋律の下で支えるコントラバスとチェロのリフが泣けて仕方がない。こういうベースラインを聴くと、ベースって本当に大事だ、と思います。その高揚は、再び日本的五音階に遮られてエンディングへと向かいます。最後の幾ばくかの寂寥感は、全うできずに大政奉還となった徳川慶喜の無念の思いでしょう。

この曲を聴くと確かに少々「デジャヴ」ですが、先に触れたようにそれだからといって、退屈な音楽ではありません。湯浅さんのオーケストレーションの巧みさががっちりと底辺を固めておりますし、引用の範囲でありましょうから、とても素晴らしい音楽に仕上がっております。もう入手困難やも知れませんが、機会があればぜひぜひ。