おくればせながら新国立劇場「椿姫」

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椿姫のこと、ブログに書きそびれていましたが、ヴェルディが幾分か苦手な私でさえ、めちゃめちゃ感動しました。思いがけずに目が涙に浮かぶところまでいったので、相当なものでした。というのも、それはヴィオレッタを歌ったチョーフィーとジェルモンを歌ったガッロによるところが大きいのです。
第二幕前半でヴィオレッタとジェルモンが対峙したところ、あの緊張感は一生忘れないと思います。ガッロがマジ顔で顎を引いて低音を歌い出した瞬間の恍惚といったらありませんでした。ちょうどその場面をガッロの顔を双眼鏡見ていたのですが、あまりの気迫に鳥肌がたちました。チョーフィーのほうはといえば、冒頭ではピッチに乱れがあったように思いましたが、ぐんぐん調子をあげていきました。第二幕も素晴らしかったけれど、第三幕で瀕死のヴィオレッタを歌ったところ、あの神がかった死の場面は、本物のヴィオレッタが乗り移ったかのようでした。最後、死ぬ寸前に「痛みが消えたわ! 私生きるのね!」と歌うところ、あれは、たまらない。鬼気迫る歌と演技に痺れました。
しかし、第一幕で愛を高らかに歌われてもあまり共感出来なかったのですが、第二幕から俄然面白くなりました。経済問題、世間体、もつれあった愛憎、嫉妬、やっかみ、勘違い、悟り、後悔、赦し……。ヴェルディのオペラの過酷な現実ドラマは極めて素晴らしいです。
広上さんもよく振っておられたと思います。粘りのある情感ある音つくり。だが広上さんが舞台に上がるとブーイングが。対抗するブラヴォ。これは最近の新国でよくある構図です。しかし、あれは誰に向けられたブーイングなのか、は語るまい。
僕は、もともとはシュトラウスの中期以降の洒落たオペラが大好きですが、やっとヴェルディへの道が開けてきた気がします。ちょっとうれしいです。
次はマノン・レスコーに行く予定。

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年甲斐もなく伊東たけし的真夜中

いやあ、なんだか、凄く若返った気分。
高校時代のわたくしのアイドル、伊東たけしごっこしてしまった。EWI4000s、最近毎晩吹いているのですが、今日はSQUAREを吹いてしまったですよ。
高校二年と三年の二年間のわたくしは、T-SQUAREに捧げられたといっても過言ではありますまい。
このSPORTSというアルバム。高校二年ごろ、カセットテープをすり切れぐらい聴いたなあ。私の青春時代。今聴くと、日本的醤油の匂いのする、これまたほろ苦いものなんですが、あの頃は、これしかなかったので。しかし、伊東たけしの微妙なベンドのかけ方、私が吹いているサックスのベンドのかけ方と似ていて怖すぎる。
しかし、若さ故の記憶とは凄くて、いまでも、伊東たけしのソロを相当覚えていたりする。15年ぶりぐらいに聴いたっていうのに。
最近、永劫回帰な気分。ぐるっと回って、元に戻ってきた。だからこそEWI吹いているんですが。10年ぐらい損したけれど、まあ、無駄な遠回りと言うわけではありますまい。

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Fourplayのことなどなど。

なんだかすっかりご無沙汰してしまいました。先々週、「夕鶴」を観た後の私は、アルバン・ベルクと「ヴォツェック」についての英作文を試みながら、エルガーの交響曲第二番、チェロ協奏曲にかかりっきりでした。エルガーも日本語にまとめないとなあ、などと。
最近つとに思うのは、ブログに書いたものが残らないなあ、ということ。世の中にはBLIKIという造語もあるそうですが、WikiとBlogが融合したコンテンツができないかと思案中です。その前に、このMovabletypeの重さをどうにかしないといけない。そのためにはサーバーを変えないといけない。できるんだけど、優先度は下げざるを得ない。辛いところです。
などといいながら、今日の私の通勤のお供はFourplayでした。ボブ・ジェームス、リー・リトナー、ラリー・カールトン、ネイザン・イースト、ハーヴィー・メイソンという米国ウェストコースト系の偉大なジャズメンが繰り広げる脅威のフュージョンサウンド。結成当時の20年前は、なんだか物足りなさを感じていたのですが、今はもうこういう音作りのほうが落ち着くようになってしまいました。
昨日、仕事でコーディグしながら聴いていたんですが、そりゃもう癒されたのなんのって。フュージョンといっても、20年前に流行ったT-SQUAREのような派手さはないし、Brecker Brothersのような激しく身もだえするようなものでもない。かといて、スムース・ジャズのよりも厚みがあるのです。スムース・ジャズの特徴の一つは極度なまでのインプロヴァイズへの依存にあるそうですが、Fourplayは、楽曲の構成や和声などのアンサンブルもきちんと考えられているし、PAだってすばらしい。
2010年にラリー・カールトンが脱退してチャック・ローブが加入したらしい。っつうか、これ、全部追いかけよう。
* Fourplay (1991) Warner Bros.
* Between the Sheets (1993) Warner Bros. ○
* Elixir (1995) Warner Bros.
* Best of Fourplay (1997) (Best edition) Warner Bros.
* 4 (1998) Warner Bros. ○
* Snowbound (1999) Warner Bros.
* Yes, Please! (2000) Warner Bros. ○
* Hearfelt (2002) Bluebird/Arista ○
* Journey (2004) Bluebird/Arista ○
* X (2006) Bluebird/Arista ○
* Energy (2008) Head Up
* Let’s Touch the Sky (2010) Head Up
そうそう、この週末からEWIを再開しました。楽しい。12音階のスケール練習をして、インプロヴァイズごっこをして遊びました。
今日は雪です。ボエームの三幕を聴いているところ。カラヤン&パヴァロッティの定盤にて。明日の出勤が心配です。

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新国立劇場「夕鶴」

今朝は7時頃起床し、8時半に所用のため新宿へ。午前中で仕事を済ませて、久方ぶりにジュンク堂に行ってみたのですが、あれだけたくさんの本を前にすると、幸福感と焦燥感、双方とも激しく亢進してしまいました。何冊かお目当ての本があったのですが、どれも分厚いので今回はパスしました。

東京の空は真っ白で、昨日までの快晴つづきも一休み。でもすごく寒い。立春を過ぎているから、もう春なのだし、どうやら各地の梅も咲き始めているようで、じわりと春の足音が聞こえ始めているけれど、春ほど憂鬱な塵芥に包まれる季節もありません。

「夕鶴」、昨日から二度ほど通しで聴いていますが、素直に読めばどうしたってキャピタリズムへの批判となってしまいます。それを超える読み替えは可能なのか、としばし考えてみたり。これをファンタジーとして捉えるのは、よっぽど心配がないか、よっぽど脳天気か、のどちらかであろう、などと、少々不遜な考えもよぎるぐらいです。

  • つう:腰越満美(ソプラノ)
  • 与ひょう:小原啓楼(テノール)
  • 指揮:高関健
  • 管弦楽:東京交響楽団

 腰越さんは、昨年の「鹿鳴館」で聴いたので、今回が聴くのが二回目でした。ピッチはもちろん豊かさも併せ持つ方。「鹿鳴館」は中劇場でしたが、今回はオペラパレスですので、声の感じが少し違って聞こえました。やや中高音域が鋭く聞こえました。 与ひょうの小原さんも立派でした。

演出は栗山民也で、新国のオペラでは「蝶々夫人」の演出も手がけています。がゆえに、今回の「夕鶴」の舞台演出には既視感がありました。家は舞台の手前に土台が設えてあることで表現され、舞台の奥からぐるりと回るようにして登場人物が登場します。「蝶々夫人」ではピンク色の桜吹雪が舞台を覆いましたが「夕鶴」では吹雪が舞台を覆い尽くしていました。舞台奥のスクリーンがモティーフとして使われているのも同じで、「蝶々夫人」では星条旗が掲げられていましたが、「夕鶴」ではつうの昇天がライティングで表現されていました。

ストーリー的には、「蝶々夫人」でしょうか。辻作品で言うと「時の扉」。いずれも男の体たらくが女性を裏切り傷つけ死に至らせしむというもの。悲痛です。

しかし、つうの嘆きは、与ひょうへの嫉妬なのか、与ひょうが経済至上主義へと絡め取られていくことへの反抗なのか。秀逸な仕掛けは、つうは、金儲けの言葉を理解できない、という仕掛け。これは面白いです。経済至上主義が悪いとは言いませんが、良いとも言えない。、たまにはこういう作品を見て、振り返ってみるのも良いかもしれません。ただ、つう側のことを、最近は負け組と言うらしいですよ。なんて。

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團伊玖磨「夕鶴」予習中

明日は、新国立劇場で「夕鶴」を見る予定です。言うまでもありませんが、念のためあらすじなどを。

このオペラ團伊玖磨により1952年に作曲されました。もとは木下順二の戯曲でいわゆる「鶴の恩返し」が下敷きです。この話は小さいころに何度も何度も聞かされましたね。鶴を助けた老夫婦のもとに若い娘が訪れ、機織をして立派な布を作るのですが、老夫婦には、絶対に機織をしている部屋をのぞかないように、と告げるのですね。老夫婦はこの布を売ったおかげで長者になりますが、ある日、とうとう我慢できなくなり機織部屋をのぞいてみると、そこには鶴がいて、自分の羽を布に織り込んで布を織っていたのでした。約束が破られたがゆえ、鶴は名残惜しくも去っていく、というお話。

オペラ版は戯曲を一言一句たがわぬよう作られているようです。ストーリーは、鶴の化身であるつうがすでに与ひょうのもとに嫁いでいて、、つうの織った布がすでに金蔓になっていることところからはじめまっています。また、つうが鶴の化身であるという示唆がちりばめられていて、最初から不幸な結末を暗示しているようです。そこが、通史的な民話とは少し違っています。

木下順二の戯曲には貨幣経済や経済至上主義への批判がこめられているようです。いつも思うのですが、こうした演目が劇場で公開されることの意味とは何か? ということ。おそらくは、これも純粋なファンタジーとして受容されるのでしょう。そうでない字義通りに受け止めるという受容の方法もあります。ともあれ、芸術作品の持つ偉大な力と、かたや何をもなしえないという非実践性、この二つの乖離が残念でなりません。

つうが、与ひょうが変わっていってしまう、と詠歎するところは涙ぐみます。ただ、日本語を西洋音楽へ乗せることの難しさというものも改めて理解しました。

木下順二の戯曲には貨幣経済や経済至上主義への批判がこめられているようです。いつも思うのですが、こうした演目が劇場で公開されることの意味とは何か? ということ。おそらくは、これも純粋なファンタジーとして受容されるのでしょう。

 

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