新国立劇場「サロメ」その2──演出と歌手の方々

はじめに

引っ越してから2ヶ月が経ちました。通勤にも慣れましたし、ようやく部屋も落ち着いてきたところです。また元のように書き始めないと。私の目標は、ピアニストがピアノを弾くように文章を書こう、と言うものだったのですが、最近日和っておりますゆえ、ここらでもう一度奮起が必要。
さて、前回に続き新国立劇場「サロメ」のご報告です。

新国「サロメ」演出について

さて、演出の方は、エファーディング氏によるもので、私が2003年にはじめて来たときと同じです。
あの、7つのベールの踊り、のところが、記憶違いかもしれません。あんなに際どいところまで歌手は脱いだでしょうか? 最後はほとんど何も身につけておらず、だいぶ心配になりました。さりとて、オペラグラスで覗くわけにも行かず…。
今回気づいたのは、前半部分においては、サロメが天幕の中で踊っていて、シルエットだけが浮かび上がってくるのですが、あそこは他のダンサーが踊っていると思われます。衣装替えに時間がかかるからだと思われます。
前回2008年も気づいたのですが、ヨカナーンが実に人間的に描かれてれていました。サロメの甘い言葉に心と動いているのですが、それを否定するように、サロメをバビロンの娘とか、ソドムの娘などと呼びます。あれは、おそらくサロメを否定すると同時にヨハナーン自身の人間的弱さへの否定なんだなあ、と考えました。

歌手の方々

サロメのエリカ・ズンネカルド、やはりこういう方がサロメを歌わなければ。華奢な体でよくもここまで均一な声を出し続けられるのでしょうか。最終部では、さすがに疲れが見えましたが、最後まで張りのある声で、強靱に歌い続けていたと思います。
ヨカナーンを歌ったジョン・ヴェーグナー氏。この方は、2008年の公演でもヨカナーンを歌っておられましたが、あの時も鋭角な声に感動したのでした。今回もやはりすごかったです。波打ち震える銀箔のような声です。サロメの誘惑に心を乱されながらもひたすらに強く拒絶する姿は、ヨカナーンが乗り移っていたかのようです。
ナラボートを歌われた望月哲也氏。実は氏の歌うシュトラウスを今年の初夏に府中市交響楽団定期演奏会で聞いておりました。あのとき、えらくうまくてピッチのいい方だなあ、だなあと感動したのでした。今回もピッチは勿論声の質も充実しているように思いました。今後も愉しみです。
ヘロディアスを歌ったのは、ハンナ・シュヴァルツでした。先日も少し書きましたが、ベルリンフィル・ディジタルコンサートホールで見ることのできる演奏会形式のサロメでもヘロディアスを歌っていましたが、今回のパフォーマンスの中で突出した存在感でした。

ちなみに

今回の新国のパンフレットではヨハナーンと表記されていますが、ヨカナーンと表記されることもあります。で、パンフレットの綴りはJohanaanと書いてあります。9ページのヴェーグナー氏の紹介部分ですが。この綴りだと、ヨハナーンとか発音できない。私がこれまで「ヨカナーン」と書いてきたのは、大いなる勘違いであったのか、としばし疑ったのです。
ところが、私の持っているDover社のスコアではJochanaanと書いてあります。この綴りなら、ヨカナーンと発音してもOKです。
というわけで、私には、ヨカナーンのほうがしっくり来ますので、ここではヨカナーンと書いておきます。

最後に

今回もシュトラウスサウンドを満喫しました。さすがに落涙するようなオペラではなかったのですが、やはり私はシュトラウスが大好きなのでした。理由は何かなあ、と考えてみると、やはり和声なのでしょう。調性と無調の狭間を行ったり来たりしたり、不協和音であったり、旋律がテンションにヒットしたりするたびにゾクゾクしてきます。
それが、先日聞いたヴェルディのオペラと決定的に違うことだと思われます。
そう思うと、自分のジャズフレーズのついての問題点がわかったりするのでした。
このあたりはまた今度。
それでは。

新国立劇場「サロメ」その1──ラルフ・ヴァイケルトの指揮

新国立劇場で「サロメ」を聞いてきました。時を忘れた100分でした。まったく、天才たちが集まると、こうも素晴らしいことになっちゃうのですね。
今日は、指揮者のヴァイケルト氏のことを。長くなってしまいました。それほど面白かったのです。
演奏の開始は、いつもと少し違いました。
場内が暗くなり、明るくなったとたんに音楽が始まりました。いつもなら指揮者の登場を拍手で迎えてスタートなので、かたすかしをくらった気分でした。もちろん、以前にもこう言うことはありましたが、今日はなぜか違和感があったのです。
どうしてなのか、考えて見たのですが、どうやらそれは指揮者のラルフ・ヴァイケルト氏の姿をみたかったから、と言うことだったようです。
今回の公演は本当ならば芸術監督の尾高さんが振るはずだつたのですが、キャンセルとなり、急遽の代役だったのです。新国立劇場のウェブサイトでリハーサルの状況が紹介されていましたが、オケの心を一瞬でつかんだとのことで、どんな方なのか興味深かったのです。
最初はどうにも大人しい感じのサウンドで、何か音がくぐもっているような印象でした。どうしてそこでもっと鳴らしてくれないのか、というもどかしさのようなものがありました。
その理由の一つは、おそらくは私が座っていたのは二階席四列目だったので、響きが今ひとつのではあった、ということにあるでしょう。
それだけが原因なのか、と断じる気にもなれず、しばらく棒の振り方をみていたのですが、実に抑制された枯淡の境地のような振り方でした。
私が思い出したのは、10年ほど前に見たサヴァリッシュの指揮でした。最小限の棒の動きでN響を操っていた姿は名人そのものでした。ヴァイケルト氏の指揮の振り方はあのときと同じように、あるいは、他の老巨匠の姿と同じものだったのです。
そうした抑制美を聞き取る方向に考えが向かってからは、徐々に演奏になじむことができるようになりました。
テンポ感は、どちらかというと淡々としたもので、大げさにテンポを動かしたりしません。また音量も大げさにならず、抑制されたダイナミクスですが、それがまた絶妙なのです。ペーター・シュナイダーのそれより抑制されていると思います。ゲネラル・パウゼもそんなに引っ張らない感じです。シノポリよりも抑制されていたかと。しかし、それがとても良かった。媚びることのない美意識、声高に叫ばない主張、そういう感じです。
オケの音がいつもと全く違う響きだったのが驚きでした。私の印象では、弦の響きに透明感が加わっていて、実によくまとまったきめ細かい響きだったのです。この響きは、私にはペーター・シュナイダーのそれとよく似ていると思いました。
次第に、ラルフ・ヴァイケルト氏の語法がわかってきた感じで、最終幕に向かうにつれ徐々に演奏に心がフィットしていくのを感じました。私の感情も、最終部に向かうにつれ高まってきたようで、最終部、サロメの独唱の部分の昂揚感は凄まじいものがありました。指揮棒はそんなに大仰なものではないのですが、オケがちゃんとなっているのですね。
今日のオケは東京フィルハーモニー交響楽団でしたので、前々週に行ってきたトロヴァトーレと同じです。トロヴァトーレのときは、オケの縦線が全く合わない部分があり、歯がゆさも感じたのですが、今日の東フィルは何か違っていました。先ほど触れた弦楽器の緻密さもそうでしたが、縦線がかみ合っているのを感じたのです。いつもはそろわないこともある金管も今日はそろっていたように思います。なにか、マエストロの静かな気迫にこたえているかのようでした。
やはり、リーダーたるもの、メンバーを自主的に従わせるようでないとダメなのですね。首根っこを捕まえるのとは別の方法論がそこにはあるのではないか、と。あ、これは今日の演奏を聴いたからというより、今日の演奏を聴いて思いだした教訓です。
明日は演出や歌手の方々のことを書きます。

今週末、サロメ、予習中、ベルリンフィル、ラトル

すっかり秋めいてきましたが、皆様お元気でしょうか?
私の方は社命の試験が終わり、日々の仕事にくわえて、これも社命にて行っているお勉強に精を出さねばならないという今日この頃です。
そんな中でも、音楽聴いております。本当はEWIやSAXの練習をしたいところですが。今週末はきっと練習できるでしょう。
さて、オペラの法は、最近ですとシュトラウスの「サロメ」を聴いています。2009年2月にネトレプコの同窓生であるウシャコワの妖艶なサロメを見ましたが、サロメ再演が早くも新国立劇場に、というところですね。
その予習ということで。ベルリンフィルのディジタル・コンサートホールとカラヤン盤をよく聴いています。
ベルリンフィルのオンデマンドでは、ラトル指揮による演奏会形式の「サロメ」を観ることが出来るんですが、これが本当に素晴らしい。特にサロメを歌うエミリー・マギー。この方は、2010年5月の新国立劇場「影のない女」で皇后を歌われた方です。あのときもすごくパワフルな皇后で、さすがにバラクの妻を歌ったステファニー・フリーデにすこし食われた感じもありましたが、私的には本当に印象深い皇后だったのです。
エミリー・マギーは、新国ではただお美しい方だなあ、という印象があったのですが、ベルリンフィルの映像で見ると、美しい方というわけではなく、その後ろに燃えさかるものがあって、これはいわゆるブリュンヒルデ的なすごみというべきものなのでしょう。フレミングやデセイにはない凄みとでもいいましょうか。テオリン姐さんとまではいきませんが(テオリン姐さんは別格だと思う)、烈女的な魅力を兼ね備えているんですね。
 サロメの聞き所って、色々あると思うのですが、私が一つ楽しみにしているのは、ユダヤ人の博士達が、すごい六重奏を聴かせるところ。あそこはいつ聴いてもすごいと思います。これは、カプリッチョの後半に登場する六重奏的なスリリングさです。今回の新国においても期待できます。今週末、たのしみ。

メトロノーム禁止!だそうです。

昨日は久方ぶりの友人とのみました。とある企業に勤めておられる古くからの友人です。
東京には発表で来たとのことで、急遽、帰宅間際にとある街のアイリッシュバーにてほんの小一時間を。いろいろ音楽の話ができて面白かったです。
たとえば、彼がオーボエを始めた話とか、最近、指導を受けている指揮者がすごいとか。
この指揮者の方、オケの練習で、ピッチとかテンポとか言わないらしい。全部メタファーで指導をこなすんだそうです。「そこは背筋を伸ばす感じで演奏しなさい」ということで、ピッチを補正する、みたいな。
これって、岡田曉生さんが「音楽の聴き方」で書いていたエピソードと同じだなあ、と。大指揮者の音楽を語るメタファ言語はすごいらしい。「相手と握手するとき、最初に産毛をさわるように演奏して!」とかいうらしい。
それから、「メトロノーム使って練習しちゃだめだ」というのもあるそうです。もちろん、アマチュアのオケに向けてだし、練度が十分ではないオケに向けた言葉なので驚きました。
これ、ちょっと興味深いです。
大学から社会人の若い頃にかけて、とあるバンドでサックス吹いていたんですが、毎週三時間みっちりメトロノーム漬けで練習していたんです。しかもメトロノームのクリックを裏拍でとってました。あまりにそんな練習していたんで、スタジオの壁に掛かっている丸時計の秒針の動きが緩慢に思えたりして。あるいは止まって見えたり。
1秒間の間に出来ることはたくさんあるんだなあ、とおもいました。
あれはあれですごく楽しかったんですが、そうじゃない方向もあったのかもなあ、と。そうなったら、どうなってたかなあ、などと。
友人曰く、その指揮者がくると、雰囲気ががらりと変わって、演奏がみるみるよくなって、良い状態で本番を迎えられるそうです。
「メトロノーム禁止」とかいうもんだから、最初は「何言ってるんだ?」と、友人はとても懐疑的だったのだそうですが、いまでは心酔している感じでした。
一度練習風景を見てみたいです。
結局ずるずると遅くまで語り合ってしまいました。アイルランドの黒ビールは苦みもあるけれど、サラリとした飲み口で、実にさわやかで、後味もすっきり。泡も柔らかく、最後まで消えることのないきめの細かさでした。おすすめです。
明後日はまた試験。嗚呼。

最近気づいた私の音楽嗜好の源流 その2

先日の続きです。久々に長文書いている気がします。

再発見

ジャズを聴き始めたあとに、杏里の「Boogie Woogie on Mainland」のライナーノーツを点検したのですが、そこに刻まれていたのは、ジャズ・フュージョン界で有名なミュージシャン達の名前でした。そのときは結構驚きました。
ポール・ジャクソン・ジュニアは、1992年に渡辺貞夫とツアーをともにしていたんですが、リトナーの後輩にあたるLAフュージョンのギタリスト。
それから、アレックス・アクーニャ。彼はウェザーに在籍していましたが、私が初めて見たのがこれもやはり1992年の渡辺貞夫のツアーでのこと。ロスを拠点に活動しているミュージシャンです。
ホーンセクションのアレンジは、あまたのアルバムのライナーに名前がでてくるラリー・ウィリアムズでした。
つまり、私が初めて受容できた「商業音楽」は、実はというかやはりフュージョン音楽だったのでした。それも極上のLAフュージョンのセッションミュージシャン達の音楽。杏里のアルバムなので、日本のポップスと思っていたのに違ったというわけです。
杏里のセンスはLAフュージョンに向いているのは間違いないでしょう。リー・リトナーとつきあっていた理由の一つとして挙げられると思います。嗜好の合わないミュージシャン同士がうまくいくのは難しいのではないかと思われるのです。

杏里の良いところ

だからといって、バックバンドだけが良いわけではありません。杏里の歌唱自体も好きだったりします。その理由はこんな感じでしょうか。
歌い方の面では以下の通り。
* 高音で音量を上げるところの、ロングトーンに揺れやブレがなく、素晴らしい。母音の発音が巧いのだと思います。
* フレーズの終わり方、微妙なビブラートをかけて、あまり引きずることなくそっと終わる。このあたりの潔いカッコ良さも魅力です。
* 絶妙なベンド処理。半音階以下のピッチの微妙な加減でフレーズが生き生きとしています。
* ピッチが良いのはいわずもがな。
気になることはいまのところ二つ。
* 少し気になるのは、たまにリズムフェイクの仕方が、演歌調になるところ。これは時代が降ると現れ始めます。
* それから、古いアルバムだとピッチが全体に下がっているんですが、これは、時代が降ると克服されています。
そう言う意味で言うと、デビュー直後の声と、80年代後半以降の声は全然違います。齢を重ねたからと思いますが、私は今の声が素晴らしいと思います。
楽曲の構成面でいうと、作曲している曲、転調が絡んだり、構成が単純じゃなかったりしていて、曲的に面白いです。単純なAABA構成じゃない。AABA|AABA|C|ABAみたいな。Cが入っているのが素敵すぎるんですね。
歌詞は、私はあまり聴かないんですが、最近聴きすぎていて、歌詞が入ってくるようになりました。80年代以降のバブルな感じ、トレンディドラマの題材みたいな歌詞で、聴いていてすこし面はゆい。セカンド・バージンとか流行ってましたが、その頃の世代が重なっているんだと思います。

Interestingなところ

他のポップシンガーもやっているかもしれないですが、ピッチをずらしてロングトーンを装飾するところが、サックス奏者のそれとよく似ていると思います。私もたまにやっていましたが、似ているなあ、と。
私がポップスのボーカル音楽を聴くことはほとんどないので、杏里以外の歌手との比較が出来ないので、偏狭な意見かもしれませんけれど。

私の音楽源流

今、記憶にある限りにおいては、杏里を聴いたのが、ジャズ・フュージョンに傾倒した私の源流となっているのは間違いないようです。これまでは、高校時代にT-SQUAREを聴いたから、と思っていましたが、どうやらその前に杏里があったらしいということ。さらに言うと、「BOOGIE WOOGIE MAIN LAND」の音作りであるLAフュージョンなんだろうなあ、と。

最後に

というわけで、先日の杏里コンサート以来、よく杏里を聴くようになりました。音源もだいぶんと入手しました。
名曲はまだまだあるみたいです。
たとえば、先日聴いたSolというアルバムには、めちゃ音の良いギターが聞こえるのですが、やはりリー・リトナーなわけですね。で、歌詞は別れる寸前の男女の物語だったりするわけで、なんともかんとも、

最近気づいた私の音楽嗜好の源流 その1




はじめに

最近気づいた私の趣味の源流。ナイル川にも源流がありますし、多摩川にも源流があります。私の音楽的嗜好にも源流があるはずですが、その一つが意外なところにあることを発見しました。

杏里との出会い

先日行った杏里のコンサート。その予習復習にということで、いくらか杏里のアルバムを聞き直していました。

その中でも最も大好きな一枚が、1988年のBOOGIE WOOGIE MAIN LANDというアルバム。wikipediaによれば、杏里の音楽が最高潮に達した最初の一枚なのだそうです。私がこの曲を初めて聴いたのはやはり1988年でした。

もちろん自分で買いに行ったわけではありません。当時のお気に入りは、チャイコフスキーとベートーヴェンでしたので。

このアルバム、実は私の父が買ってきたものです。私の記憶では、父がレコード屋の前に取りかかったときに、このアルバムが流れていたんだそうです。店員にも勧められたと言うことで、父が購入してきたというわけ。

私の最初の印象は、あれ、日本のポップスってこんなに気持ちいいのもあるんだ、みたいな感じでした。

当時は、いわゆるポップスには背を向けていましたし、ジャニーズにはまった弟を、母と一緒に弾劾して聴かせるのをやめさせたぐらいでしたから。そんな偏狭なわたくしにとっても、このアルバムは心地よかったんです。

杏里体験以降の音楽的遍歴

その後、クラシック音楽を聴き続けていましたが、高校時代にT-SQUAREというバンドにあこがれてサクソフォーンを吹き始めました。その中で知ったのがいわゆるLAフュージョンの面々でしたが、最初はリッピントンズを聴き始め、そのあとリー・リトナーにはまりました。浪人していた頃のことです。

その後、大学に入り、マイケル・ブレッカーという偉大すぎるサクソフォニストに傾倒しましたが、いつも裏側にあるのは、LAフュージョンと言われるような音楽への系統立ったと思います。

ですが、LAフュージョンのたぐいをバンドで演奏することはありませんでした。あれは難しすぎるのです。聴いている分には心地良いのですが、日本人のアマチュア貧乏学生の手に負えるような代物じゃないんですね。


続く