新国立劇場「ルサルカ」その2 

すっかり寒くなってしまいました。半月前までは、まだまだ暖かいなあ、と思っていたのに。今日は6時前に家を出ました。真っ暗でしたが、空気は澄んでいて気持ちがよいと思いました。
ルサルカの第二回目です。
演出について書こうと思います。今回の演出はとても素晴らしかったのです。
色彩も、照明も、衣装も、解釈もどれも楽しかったです。
USTREAMで演出のカラン氏のコメントを聴きたいところですが、なぜか観られないのです。。
(→今日の夜時点では観られました。研究を進める予定)
ですので、これは主観的な感想です。

光の美しさ

今回の演出は本当に面白かったし美しかったです。水をモティーフにしているだけあって、舞台には波紋が水底に描くゆらめきが照明によって描きだされていました。
これは、本当にゆらめき、まるで本当に水底にいるかのようにも見えました。これ、当たり前過ぎるほど自然で、うっとりと見入ってしまいました。

人間らしさとは何か?

私が今回の演出でもっとも感銘を受けた部分はここでした。
私がそれを感じたのは、第二幕の結婚式の舞踏会とされている部分でした。
深い赤のドレスに身を包んだ男女が四方の入り口から舞台上に現れてきます。舞踏会の客という設定ですので何十人という大勢です。彼らは一様に目の部分を隠すマスクをつけています。表情はもちろん視線がどこに向いて居るのかも分かりません。
ルサルカは、彼らに話しかけようと近づきます。ルサルカは言葉を発することが出来ませんから、おのずと身振り手振りとなります。ですが、そのたびに、深い赤のドレスの彼らは、身を翻し、あるうはルサルカをよけるようにして、ルサルカのアプローチを拒絶します。それも拒絶していることすら気がつかせないよけ方です。完全に無視を決め込んでいいるわけです。いみじくも花嫁だというのに。まさに、存在を抹消しようとしているようにも見えます。
ここでは、全く違う価値観で動く人間達の中で、拒否されあるいは無視されるルサルカの姿が濃密に現されていたと思うのです。
ルサルカは、水の精の世界から人間界へと向かうのですが、そこで拒絶されてしまうわけです。人間になりたいということで、進んで人間になったはずのルサルカを無視する人間達という構図です。
理由は何か? ルサルカが真の人間になっていないからなのか、あるいは、ルサルカが人間で、人間達が人間ではないのか。
この物語は、人類普遍の問題を描き出しているのでしょう。真の人間性とは何か? という問題です。自分とは異質なものを拒絶するというのは、人間社会において普遍的なものです。それは、第二幕冒頭で給仕達が交わす会話にも現れていました。王子は変な女を森の中から連れてきて、全くどうかしているよ、みたいな感じです。
それから、何も言葉を紡ぎ出すことの出来ないルサルカの姿は、真実を語ることが出来ない、あるいは自らの真性を表出することを許されないという人間のある種のきまりをとらえたメタファーだと考えられます。
この場面は、人間社会の側面を指摘した秀逸な表現だと解釈しました。

神への言及

ルサルカに逃げられた王子は、どうやら色目を使われた外国の公女にも捨てられたらしく、悶々とした生活を送っていて、どうにも我慢ならなくなり、森に分け入りルサルカを探そうとするわけです。誰がどう見てもだらしがない男なんですが、まあ、ルサルカと再会して、もう死んでも良い、ということで死の接吻を受けて王子は死に行くわけです。「愛の死」にしては王子はかっこ悪いです。トリスタンとは大違いだと思います。まったく。。
ところが、その後がとても興味深いのです。ルサルカは神に祈り始めるのです。今日、私が見ていた中で、神についての言及に気づいたのはここだけでした。あまりの唐突感に違和感を覚えました。これは、私がクリスチャンではないからでしょうか。あるいは水の精という「異教的」な存在が突然神へと近寄ったからでしょうか。
結局は祈ることしかできない、あるいは、思考を停止し、行動を停止して、神にゆだねるというのでしょうか?
すごく興味深いのですが、まだ答えは分かりません。芸術には結論はありませんがこの飛躍がなにかとってつけたものに思えました。学者なら、ここに文献持ってこれるんだろうけれど、悔しいです。

終わりに

今日も少し乱暴な妄想でしたが、観ているときにこんなことを考えていたので結構楽しかったのです。
次回は音楽面について書きます。これもまた難しいのですよ。。。