ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎──新国立劇場「ナブッコ」によせて その3

新国立劇場のナブッコ、本日がプルミエですね。私はは6月1日に出動予定です。

で、昨日の続き。期せずしてシリーズになってます。そして、期せずして新国立劇場「ナブッコ」に関連してきましたので表題も変えてみました。多分、このあたりの話は、パンフレットに記載されているでしょうけれど、独自の調査ということで。

ナブッコ「行け、我が想いよ」はどのように迎えられたのか?

私は、ナブッコの「行け、我が想いよ」が愛国的に使われたという話を、中公新書の「物語イタリアの歴史」で読みました。この中ではこの合唱が如何に熱狂的に迎えられたのか、が記されています。

「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」と合唱を始めると、客席の興奮は最高潮に達した。……
聴衆は熱狂してヴェルディを讃えた。「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」のメロディは、街中いたるところで歌われるようになった。……ミラノの床屋はアコーデオンでこのメロディを鳴らして客を集め、しばしば警官が出動して群衆を追い散らす騒ぎとなった。

藤沢道郎「物語 イタリアの歴史」第11版 中公新書、1998年、308ページ
確かに、アンコールとは一言も書いていないですが、この曲が熱狂をもって迎えられたと理解していました。
ところが、加藤浩子氏「ヴェルディ」においてはそのような熱狂はなかったのではないか、とされています。

だが、1987年に出版された《ナブッコ》の批判校訂版を編纂したロジャー・パーカーは、資料研究の結果、初演でアンコールされたのは<行け、わが想いよ>ではなく、最後の讃歌<偉大なるエホバ>だったことをつきとめた。また、ミラノに続いて行われたイタリア各都市での上演で、<行け、わが想いよ>が熱狂的に迎えられた記録はないという。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、62ページ

<行け、わが想いよ>が愛されるようになったのも、統一後のことのようだ。というのも、1948年に起こった「ミラノの5日間」の放棄の後、スカラ座はしばらく閉鎖され、オペラは上演されなくなるが、その間にリコルディが数多く出版した『愛国賛歌』の類の中に、<行け、わが想いよ>は見当たらないのである。<行け、わが想いよ>が、「合唱の父」と称されることもあるヴェルディによる「第二の国家」なら、この時に何度も出版されて当然だろう。だが、その時人気を集めていたのは、ピエトロ・コルナーリなる作曲家に因る《イタリア人の歌》という作品だった。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、64ページ
「行け、わが想いよ」が、アンコールされた事実も熱狂的に迎えられた記録もないかもしれない、ということになるわけですが、真実はどうなのか。
ビルギット・パウルスの説は、おそらくこちらの本になるはずです。あたってみたいところですが、ドイツ語ですか。少しハードル高いですね。。東京芸大の図書館にあるようですが、そこに入る術を知りません。町の図書館で取り寄せられないか、聴いて見ることにしましょう。

今後の予定

明日は、ヴェルディに政治的意図は本当になかったのか、を書いてみようと思います。これも記述がわかれていますので。
私の手元にある文献3冊が喧嘩をしていて、何が本当なのかわからないですね。「世界が非論理であり、真実というものは途端に消滅するもので、あるのは作為的な事実や歴史のみである」という、最近の私の考えと一致する状況でしょう。
面白いっすね。こういう謎解き。

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