チェリビダッケが振るフォーレ《レクイエム》


刻一刻の夏が終わりに近づいています。一週間前の猛暑に比べると随分過ごしやすいです。昨今のウィークデーの過ごし方が巧くいっていなくて、生活が不規則です。しわ寄せはどうしても週末へ。なかなかうまく週末が過ごせません。もう少し身体をきちんと使わないと長続きしないでしょうね。何事も。などと考える今日このごろ。即効性のある答えはありませんが、だからといって手をこまねくわけにも行かないでしょう。

さて、今日も色々聞きましたが、先日読んだ《カラヤンとフルトヴェングラー》に登場したチェリビダッケのCDを聴いています。この本の中で中川右介さんは、このようなことを言っておられます。
カラヤンは、本当はフルトヴェングラーを全てにおいて凌駕したかった。その手法の一つとしてレコード録音があった。だからあんなにもカラヤンは録音を行ったのだ。だが、皮肉なことに、フルトヴェングラーの録音も夜に出回ることになり、フルトヴェングラーの偉大さが永久に残されることとなった。死んだ孔明が仲達を走らせたのと同じように。
そして、もう一つの皮肉がチェリビダッケです。
録音嫌いだったチェリビダッケも、その死後にBOXセットが幾つも登場し、いつの間にか最も充実したCDのラインアップを誇る指揮者になていたというわけです。これをカラヤンがみたらどう思うでしょうか。本来、フルトヴェングラーの次のベルリン・フィルの国王は、フルトヴェングラーと共同統治をしていたチェリビダッケであったかもしれなかったのですが、カラヤンは電撃的にそれを簒奪したのですから。カラヤンにしてみれば完膚なきまでに叩きのめしたチェリビダッケが、その死後、カラヤンとは違うアプローチで影響力を出しはじめたということなのです。
このフォーレの《レクイエム》は、ミュンヘンフィルを1994年に振ったライブ盤で、マーガレット・プライスとアラン・タイタスが歌っています。このアラン・タイタスという方、新国立劇場でファルスタッフとヨカナーンを歌っていたと思います。円熟味のある静謐な歌声。マーガレット・プライスは少し調子悪いかもしれません。
テンポどりもゆっくりではありますが、必然的な遅さです。チェリビダッケ的な遅さというわけではありません。むしろこの程度遅いほうが味わい深くなります。
明日からまた戦場へ。
ではグーテナハト。