科学技術へのオプティミズム──オッフェンバック《ホフマン物語》

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昨日に続き、《ホフマン物語》関連です。

彼女は、死んでいるという噂だ。いや、生きていないんだ。

僕は人形を愛していたのか!

第二幕でのホフマンのロマンスの相手はオランピアでした。オランピアは、今で言えばロボットでした。歌をうたうことはできて、「はい」という肯定の返事しかできないのです。
最近でもおもちゃ屋で売っているしゃべる人形と同じです。そんな人形に恋をしてしまったというのが
オランピアの幕では、オランピアのアリアのところで、ニクラウスの表情をずっと見ていました。真実を冷静に見極めているのはニクラウスだけ。ホフマンは色眼鏡をかけさせられていて、真実をつかめないのです。ニクラウスの冷たい微笑。恋は盲目ですが自動人形を愛するとは、今から思えば馬鹿げています。
1816年のかかれたE.T.A.ホフマンの「砂男」を原作に持つオランピアの幕ですが、原作当時は、オランピアに入れる魂を主人公が奪われそうになるという筋だてであるのに対し、オッフェンバックの《ホフマン物語》においては、科学技術の発展の結果としてオランピアが誕生したとされ、魔術的要素は少なくなっています。未完成だったホフマン物語はオッフェンバックが亡くなる1880年まで作られ続けました。19世紀後半ともなると、科学技術の捉え方も変わってくるということでしょう。
ここでは科学技術への楽観主義がみられるのでしょう。「歴史」が発展し続けていた時代です。まだまだ無限に人類は発展していく。その中の一つに、人類は神にも近づき、科学によって生命をも創り出すことができるようになるに違いない、という楽観主義であり、その極地がオランピアなのでしょう。これは、近代以前においてはありえないことです。フランス革命とニーチェによって、宗教価値観が変貌したからこそ可能になったことなのでしょう。スパランツィーニが科学技術の発展を称揚できたのはこうした背景があるはずです。
ですが、やっぱりオランピアは恋の対象ではありえなかった。ホフマンが「人形だったのだ」と悲嘆にくれることこそが現実です。壊れてしまったのは科学技術が未熟だからなのか、あるいは科学技術の構造的な問題なのか。前者であれば素朴な科学技術信奉であり、後者であれば科学技術の先行きを見通した批判精神があるのでしょう。
オランピアが、スパランツィーニとコッペリウスの金銭問題を発端に破壊されてしまうのも象徴的です。経済優位を見通したものなのだとすると、100年後を見通していると思いました。いくら科学が発展しても、経済に貢献しない科学技術は打ち捨てられるのですから。
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/meisakudrama/meisakudrama/Coppelia.html
昨夜脱稿したので、本日は日付切り替え後投稿でした。ではグーテナハト。