続 舞台と客席の断絶は広く深いのか。

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 29,692

先日の件、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の93ページから記載されていました。
レコードマニアを小澤征爾が批判をしているシーンでした。
高価なオーディオ装置とレコードを沢山持っている人はだいたいにおいて忙しい人達だから、家にいる暇なんてなくて、音楽を少ししか聴いていない。お金のある人は忙しいのだから。
小澤征爾はそうしたレコード、CD、商品に対する嫌悪感を持っていて、都内の大型レコード店で、しばらく忘れていたそうした嫌な気持ちが甦ってきてしまった、というのです。
その嫌悪感が具体的にどういうものなのかは語られていません。
一方、村上春樹の音楽の聴き方はマニア的な聴き方ではない、と小澤征爾は述べます。村上春樹の音楽の聴き方がとても深い、というわけです。そうした中で、音楽に対する、小澤征爾の見方と村上春樹の見方が違うことがわかり、そうした違いが小澤征爾にとっては面白く新鮮だったようです。
最後に、村上春樹との対話をマニアのためにはやりたくなく、本当に音楽の好きな人たちにとって、読んでいて面白いというものにしたい、と小澤征爾が述べて、このシーンが終わります。
このシーンのあと、村上春樹が長い注釈を書いています。このシーンの重要性ゆえだと思います。
村上春樹の音楽の聴き方というのは、いろいろなレコードを買って、あるいはコンサートに熱心に通って、同じ演奏を違う演奏家で聴き比べる、相対化するということに喜びを見出し、自分にとっての音楽をひとつひとつ時間をかけて形づくってきた、というものだそうです。おそらくはこうした聴き方に小澤征爾は興味をもったのだと思います。
その後、やはり痛切ともいえる思いが述べられていました。
プロとアマをへだてる、あるいは創り手と受け手を隔てる壁というのは、かなり高いもので、相手が小澤征爾ぐらい超一流であれば、その壁は高く分厚いものになるというのです。
ですが、村上春樹は、音楽について正直に率直に話し合うことの妨げにはならず、音楽はそうしたことを許す裾野のひろい、懐の深いものであり、そうした高く分厚い壁を抜ける通路を見つけることが大切なのである、というわけです。
なるほど。
自分の音楽の聴き方というものを改めて考えるものでした。どこまでいけるものなのか。どこまでいくべきなのか。難しい問題です。
ではグーテナハトです。

Kindleを愉しむ今日このごろ。

IMG_1121.jpg 近所のほうれん草?畑です。青々と若葉が吹き出していて、なんとも希望にあふれた光景です。未来にむかってこういう若々しさが保たれるといいのですが、どうも最近思うのは文明が疲弊し衰退しているのではないか、という気分です。まあ随分前から言われていることでは有りますが、昨今つとにつとに思うことが多くなりました。
さて、最近Kindleで本を読んでます。といってもiPhoneアプリですけれど。とにかくかさばらず、手軽に読めますので、重宝しています。
photo 本はなんだかんだとかさばりますし、荷物が重くなります。私はどうもいつも荷物が多くかばんが大きいので、本をこういう形で手軽に持つことができるというのはありがたいことなのです。
こちらは吉川英治の「黒田如水」で、無料で手に入れることができます。ちなみに、大河ドラマはどうもあまり史実に敷衍していないようですし、評判もあまり良くないようですが、私は嫌いではなく、ずいぶん楽しんでいます。
こんな感じでマークもできます。
photo そして、マークをした部分を一覧表示もできますね。
photo 紙の本の場合「何を持っていくか」という選択を外出前に常に強いられていましたが、Kindleはそういうことがなくなりました。これって、iPodがでた時に感じたのとおなじです。かつては、持ち出すCDを選ぶ時代でしたが、いまは、iPodにある程度音楽が入っていますので、持ち出す音楽に悩むということはなくなりましたので。
Kindleなんて、もう何年も前から使えるようになったわけですが、最近は本も増えてきて使いやすくなりました。もう少しほんの値段が下がるといいんですが、値段が下がるのも書籍文化にとっては今ひとつなのでしょうから、いまはこちらで一旦は滿足しておきましょう。
ではグーテナハト。

風格のある猫

本日は自宅にて仕事などを。午前中に片付けて、休息の後、午後は近所のカフェを家族と一緒に開拓に。その帰り道に出会った猫がこちら。
IMG_3455 IMG_3457 明らかに王者あるいは女王の風格で、人を恐れることがありません。写真を撮ろうとするとこちらに擦り寄ってきます。どうやらなでて欲しかったようですが、私にその気がないと知ると、ぷいっと何処かへ消えていってしまいました。
まあ、人間も猫も同じです。また会いに行こうと思います。今度はなでてあげることにします。
それではグーテナハトです。

「わかったつもり」から深い読みへ。文章もオペラも同じ。

Photo 青葉が映える季節になりました。もう初夏と言ってもいいような一日でした。
先日読んだこの本が、テクスト解釈を考える上で、わかりやすくまとめられていたので少し紹介します。

なぜ読んだのか?

15年以上も社会人をやって同じ仕事をやっていると、わかったつもりになっていることが多々あります。本人は理解しているはずなんですが、じつはミスリーディングをしているということがあり、すこし困っていました。こうしたことを防ぐためにも、何かしらのヒントが無いかと思い読んでみました。
結論から言うと、そういう「わかったつもり」に対する即効性のある対策を得ることはできませんでした。我々がテクストを「読む」時にいかに誤った読み、浅い読みをしているのか、ということを再認識することは出来ましたが、その対策が、自分がわかっていないことをわかれ、というソクラテスの「無知の知」のような教訓だったので(もっともこれが私がこの本を「わかったつもり」になっているだけなのかもしれませんが)。
自分がわかっていない可能性を常に意識し、細部にいたるまで読みを深めて行くことが必要である、ということでした。
「慣れ」てくると、段落を一瞥して「ああ、これはこういうことをいっているのだ」ということを経験的に察知してひとくくりの意味のまとまりとして認識してしまうことがあります。こういう「慣れ」が危険であり、細部に至るまで読みを深めるという愚直な営みが必要なんでしょう。
海軍大将で総理大臣をつとめた米内光政は、本をかならず3回読むということを信条にしていたのを思い出しました。あたりまえのことですが、テクストを細かい部分いたるまで読み込むことが真の理解に必要ということなんですが、まあ当たり前ですね。

テクスト解釈

テクスト解釈についての示唆は少なからず受けました。整合性を持っているれば、テクストの解釈は行かようにあってもよく、それが正しいとか誤っているという判断を下すことはできない、ということなのです。整合性を失った時に初めてその解釈は破棄されることになります。
この整合性という言葉が、この本を読んでもっとも印象的だったものです。
これはオペラ演出やその解釈に適用できるでしょう。演出家はオペラというテクストを使って解釈を進めます。テクストと整合性のあるかぎりにおいてあらゆる可能性が導出されるわけで、整合性があればこじつけであってもそれは誤っているとはいえません。
そして、聴き手も、そうしたオペラ演出を、整合性を保つ限りにおいて自由に解釈することができるわけです。
逆に言うと一辺倒な解釈では不十分で、それではわかったつもりなのだ、とも言えるわけです。今後はオペラも「わかったつもり」ではなく、脳みそが溢れるぐらいに考えないと、とあらためて思いました。

文脈

もう一つこの本で指摘されていた「文脈」という概念も、オペラ解釈と実に親和性のあるものだと思いました。文章を読むに際して、異なる文脈の適用が、異なる意味を引き出す、ということが指摘されていました。同じ描写でも、そこに文章には書かれない文脈、つまり想定や背景を付加することで、意味が変わるということです。
オペラ解釈も(あるいはあらゆるテクスト解釈も同じですが)、そこに語られない何かを当てはめることで、様々な意味を導出できるということです。たとえば《ローエングリン》にナチズムという文脈を適用することで、いろいろな意味が立ち会われてくるといったようなことです。
文章を「わかったつもり」ということだけにはとどまらず、オペラ、絵画、音楽といったあらゆるテクストを「わかったつもり」にはせず、さらにその先の整合性のある解釈をつくりだすことで、読みを深めていくということが重要なのでしょう。
ちなみに、この本は論旨はもちろん、本の仕立てや構成としても、実にわかりやすいです。文末に、これまでの論旨がわかりやすくまとめられていたのが素晴らしかったです。
それではグーテナハトです。

ヴォツェックは貧困批判ではないのかもしれない。

《ヴォツェック》以来、どうも「倫理が贅沢」という言葉が頭から離れず、という感じです。
《ヴォツェック》を単純に貧困批判と捉えるべきなのか、という考えがずっと頭から離れません。オペラ劇場に足を運ぶ人々が、ヴォツエックと同じ貧困状況なくとも、なぜか共感するからです。
貧困非難ではなく、文明批判であり、人間批判なのでしょう。
ヴォツェックが囚われている貧困は、経済的な支配被支配関係といえるのでしょう。がゆえに、全ての人々は経済的支配非支配関係に従属しているはずで、時にヴォツェックのように抑圧された存在になるのです。我々もまた生きるために自我を殺し振る舞います。
時に大尉のように社会倫理をもって他者を抑圧します。時に医者のように理性で人間を扱うこともかあるでしょう。
貧困に倫理がないのではありません。抑圧に倫理がないのです。だからこそ、私は、ヴォツェックを愛おしく思うだなあ、と思いました。
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こちらのアルバム。メッツマハーのライヴ盤です。全体的に感情が濃厚で、かなり気に入っております。
ではグーテナハト。

舞台と客席の断絶は広く深いのか。

IMG_1075.jpg 桜の季節も終わりまして、若葉がみなぎるけやきが美しかったです。こういう立派な樹がを観ていると幸福な気分になりますね。どこまでも無限に広がる枝葉はあらゆる可能性を想起させます。剪定されているのを見ると悲しくなります。
小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
新潮社
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かつて読んだこの本で忘れられない場面があります。
図書館で借りたので、至急再度取り寄せしますが、たしかこういった場面でした。
小澤征爾の言葉でした。世の中には高価なオーディオを持っている人が多いけれど、彼らは全然音楽をわかっていない。その点、村上春樹はよく聴いていますよね、と小澤征爾が村上春樹を褒めるわけです。
この場面、ずっと心にひっかかっていました。
村上春樹が音楽を聴く能力が高いのは言うまでもありませんし、作家業という仕事の一環として音楽を聴いているわけですから、そういう意味ではプロの音楽評論家と肩を並べているはず。
ですが、いわゆる高価なオーディオを持っている人というのはそうではありません。お金はあっても、コンサートに足を運ぶ時間や機会を持てない人なのでしょう。地方在住であったり、あるいは東京にいたとしても仕事が忙しくて音楽を聞く暇もないのでしょう。ですが、しばしの休息に出来るだけ良い音に触れたいという思いでオーディオを揃えようと考えた人々です。私は高価なオーディオを持っていませんが、正直音楽に触れる時間を平日はほとんど持てませんので、同じ状況なんでしょう。
が、小澤征爾は、そうした人たちをバッサリと切り捨てたように私は思ってしまったわけです。真意は別のところにあるのかもしれず、私の記憶なかでそうなっているだけなのかもしれないので、原典にはもう一度あたります。
これも私の記憶の中ですが、岩城宏之も似たようなことを行っていたような気がします。いわゆる音楽愛好家と話したくない、といったたぐいの言説だったはず。原典は探します。
さらには、絶対音感がなければ、音楽を語りえない、という私の友人の知り合いの音楽学者の言葉も影響しているのかもしれません。
これが、私の中の最近の迷いのようなものなのかもしれないわけです。結局、音楽家はこういう思いを皆持っているのだろうか、ということ。音楽家と聴衆(私かもしれません)に横たわる断絶がこれなんでしょうね。
真の音楽とは何か、ということを例の偽ベートーヴェン事件から考えざるをえない状況なんですが、どうやらこういう芸術認識における断絶の問題なのでしょう。聴くだけで語るべからず、なんでしょうかね。
今聞いているのはこちら。予習です。
Cavalleria Rusticana / Pagliacci

Decca (1988-10-11)
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ではグーテナハトです。

《短信》新国《ヴォツェック》で面白かったことなど。

消毒を勧められたので、本日も廉価版にて。 今日も遅くに帰宅しアルコールで心を休めました。いい感じです。
ヴォツェックの件。ちょっと面白かったことをいくつか。
カーテンコールのときのこと。
2009年、指揮のハルトムート・ヘンヒェンは長靴を履いて登場しましたが、今回のギュンター・ノイホルトは革靴そのままで登場しました。あの水が張られた舞台にじゃぶじゃぶと。
合唱指揮の三澤さんも同じく長靴なしでじゃぶじゃぶと。その後、子役の方々が元気よく登場して、じゃぶじゃぶ水しぶきを飛ばすので、三澤さんが困ってました。
そういう意味で言うと、バンダの方々も長靴を履いてました。劇中にありながら、現実が混ざっているという状況で、第四の壁問題というか、メタ問題というか、私の好きなフィクションとメタという構図がかいまみえてとても興味深かったです。
ではグーテナハト。

道徳は贅沢──新国立劇場《ヴォツエック》その2

ヴォツェックについては、今日も色々考えて、なかなかおもしろいアイディが出てきましたが、少し時間を置いてから書こうと思います。
今日も遅いので少しだけ。
とにかく、今回のゲオルク・ニグルのヴォツェックは素晴らしかったですね。2009年のトーマス=マイヤーは、かなり低音の質感のある声でしたので、ヴォツェックの凶暴性が際立っていたようにも思いましたが(ビデオで見直しました)、ニグルの場合は、打ちひしがれ絶望の淵に立った苦悩するヴォツェックでした。
それにしても、《三文オペラ》で語られるように、「道徳は贅沢」なんですかね。
もし自分が金持ちで、帽子をかぶり、時計や、鼻眼鏡、それに立派な言葉がありゃ、道徳的にもなれる理くつだ!
第一幕の大尉ともダイアローグで語られるヴォツェックの言葉です。
ここが問題なのです。
では、グーテナハト。

世界を写す真実の水面──新国立劇場《ヴォツェック》

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偉大な民族というものは、自らの歴史を三通りの原稿、つまり行いの本、言葉の本、芸術の本によって書き表す。この三冊中のいずれも、他の二冊を読まなくては理解できない。しかし三冊の中で信頼に値いするのは、最後に上げた本だけである
孫引きですいません。ケネス・クラーク「芸術と文明」のなかに出てくるラスキンの言葉です。
今日の新国立劇場の《ヴォツェック》をみて、文明の真実がまさに凝縮されたパフォーマンスだったと強く思いました。それは文明の歪みを文明が健全に表出したものだったのだ、と思います。文明の歪みをすくい上げるということこそが、文明を文明たらしめているものではないか。そういう意味でも「美が世界を支える」という辻邦生が言うところのテーゼを確信することができたと思います。
ただ、今日のパフォーマンスは、世間一般の《美》ではないのでしょう。ですから、耐え切れなくなった方は途中で席を立ったのだと思います。
ですが、私は、掛け値なしに最高に美しい舞台だったと思います。これは2009年の舞台を観た時よりも一層そう思いました。
冒頭のポスターに描かれた酒場のシーンがまさにそうでしょう。
天井から吊り下げられたボックス、舞台に貼られた水、水の反射面のゆらめきが劇場中に反射している、グロテスクな酒場の客、舞踏のシーン、無表情に演奏するバンダ、バンダを支える黒子あるいは労働者、そして唯一人間らしいヴォツェックとマリー。
このめちゃくちゃな不統一感こそが、世界を映し出す真実です。世界は不統一でグロテスクで不条理なものです。身悶えするヴォツェック、理不尽な要求を哲学的論説に隠してヴォツェックをいたぶる大尉、科学技術信奉のためにならなんでもする医者の姿は、既視感にあふれています。舞台上は現実世界そのものです。
そんな中にあって、水面がゆらめき、ライトアップされた舞台の背面の波打つ文様に心を打たれ、そして忘れることのできないほど美しいエレナ・ツィトコーワーの歌声が響き、ベルクの管弦楽が波打ちうねります。
今回のパフォーマンスの意図はこちらのリンクを御覧ください。演出家本人が2009年に新国立劇場のオペラトークで話された内容をまとめてあります。
ヴォツェック・オペラトーク@新国 (2)
今日はこれで書き終えようと思いましたが、大事なことをもう一つ、明日に伸ばさず今日書きます。
本当にレベルの高いパフォーマンスでした。最も感銘をうけたのはエレナ・ツィトコーワのマリーでした。2003年でしたか、《フィガロの結婚》のケルビーノで新国立劇場に登場で聴いて、2007年《ばらの騎士》のオクタヴィアンを聴いて、本当に凄い方だと思いましたが、今回もそのときの驚きと同じかそれ以上の感動を覚えました。
他の方もすごかったのですが、取り急ぎ次回へ。ではグーテナハトです。

繚乱な八重桜

繚乱です。 仕事場近くで見つけた八重桜。なんだかもう繚乱な感じ。
明日はなんとか《ヴォツェック》に行ける予定。
しかし、究極的には何も解決しておらず。
一体音楽を語るとはなんなのか。音楽を語ることをについて音楽家がどう思っているのか、ということ。
我々には聴くことしか許されていないのか。決定的な断絶を音楽との間に感じてしまう今日このごろです。晩年の辻邦生が音楽について語ることが少なくなったのもこういうことが理由なのかもしれない、などと思ったり。
まあ、迷う暇があれば音楽を聞いて本を読め、ということになるんですが。
取り急ぎグーテナハト。