コンスタンティン・トリンクスのモーツァルト。ひいては指揮についてのつれづれ。

これも夏の花?

今日の東京は曇り空で蒸し暑い一日でした。仕事場の近くに咲いていた花。なんの花なのか。

Symphonies Arias
Symphonies Arias
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W.A. Mozart Trinks Staatsorchester Darmstadt
Ars Produktion (2012-01-01)
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NMLはこちら。

コンスタンティン・トリンクスのモーツァルト。この方、ダルムシュタット州立歌劇場でタクトをとっているかたで、2010年に《ばらの騎士》をダルムシュタットで振っています。この時の音源を持っておりましたので、今日聴いていたんですが、旋律を歌わせるスケールの大きい演奏で楽しかったのです。

ということで、モーツァルトのCDのをNMLで聴いています。交響曲第39番。たしかに、旋律を拡大させて聴かせてくれるあたりなどは、わかりやすさというか押しの強さのようなものを感じます。(最近は新国立劇場で聴いていたにすぎませんが)、どうも若い世代の指揮者は、旋律を歌わせたり、リズムを拡大したりということが多いような気がします。カラヤンのような無機質で機械的な(これも異論はあると思いますが)ではなく、機械的でありながらもそこになにかエンブレムをつけたりするような飾りをしていて、しかもその飾りがきちんと全体の中で生きている、そういう指揮のタイプが多いような気がします。たとえば、ダン・エッティンガーなんかにはそういうものを感じます。ただ、確かにそれがやり過ぎとして感じられてしまうこともあるのです。おそらくはオールドファンはそういう指揮になにか違和感のようなものを感じるでしょう。

ただ、そうしたやり方にはたしてどこまでのオリジナリティがあるのか。私にはそれが分かるまでの音楽経験をさらにつける必要があるでしょう。そして、それが、同曲異演を聴いて認識できるものと、ただそれだけで認識できるものにわけて考える必要があるのではないかと思っています。つまり、カラヤンのブラ4はあーだったから、クライバーのブラ4はこうである、という評なのか。あるいは、ショルティのブラ4はこうである、という評なのか、ということです。

と語っている言葉自体も音楽を語っている時点でなにかうつろいゆくものであるかのように感じます。そこには何らの普遍的妥当性はなく、この瞬間の《私》の感情の発露であるに過ぎません。そうした感想がはたしてどこまで意味を持つのか。そして分かり合えるのか。私にはまだ良くわかりませんが、さしあたり書いてみるしかないので書いています。これがなにかしらの共感を呼べばいいのですが。。

今日の午前中の喚問は無事に終わりましたが、夜は数字パズルに苦しみました。数字が頭に入ってこないことがよくわかりました。小学生の頃から算数は本当に苦手です。数字にも美しさがあるようですが、どうもそうした美しさには嫌われているようです。祖父は数学の先生なので、数字は得意なはずなんですけれど。。。

ではグーテナハトです。

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