イギリス的に聴こえてしまうヴォーン・ウィリアムズ。当たり前ですが本当?

今朝の冷え込みは厳しかったですが、日中は随分と暖かくなりました。ですが、季節の変わり目ですので、体調には本当に気を使います。

さて、今日はこちらから交響曲第5番を。

Vaughan Williams: THE COMPLETE SYMPHONIES

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先日も書いたんですが、これ聴いただけで、イギリスのテレビドラマや映画に出てくる、地方の丘陵地帯の風景が目に浮かんでしまうんですが、それって、やはり先入観なんでしょうか。

第一楽章の冒頭なんて、朝の霧が丘陵地帯を這うように立ち込めていて、そのうちに琥珀色の太陽の光に霧が染まりはじめ、そのうちに霧が晴れると、丘陵に敷き詰められた青々とした草原が光で輝きはじめる、みたいな風景そのままに聴こえてしまうわけです。

これは、もう本当にヴォーン・ウィリアムズがイギリスの作曲家である、ということからくる勝手な連想です。

ですが、まあ、それはそれで良いのだ、ということです。音楽が伝えられることは、限られていますが、そこから何を汲み取るかまではコントロールできません。作曲家の意志に反して指揮者が曲を作ることがあるのなら、聴き手がその音楽にどういう意味を持つかまではコントロールできません。

聴き手が思う意味というものに、正誤もありません。ただ、そこにあるのは、引き出された解釈がどこまで豊かか、ということだけなんだと思います。

ですので聴くという行為は、やはり創造的であるべきなのでしょう。そこに創造がない聴き方も許されると思いますが、豊かさに欠けるのでしょう。最も、創造的という言葉は、おそらくはゼロから何かを創り出すということではなく、知識と知識を、偶然とでもいうほど論理的に組み合わないところを組み合わせる、ということなのだとも思います。

数ある物語のパターンは旧約聖書で出し付くされていて、その後の物語というものはその焼き直しに過ぎないということだそうですが、創造するということは、すなわち解釈にすぎないということなのでしょう。その状況においてもっとも効果的なパターンを旧約聖書的なパターンバンクから引き出して適切に配置する、ということ。創造=クリエイトというのはそういうことなのだと思います。

音楽が想起させるものも、やはり聴き手の解釈であり、がゆえに、そこでどういう意味を拾ってくるか、とか、その意味同士の結合の面白さのようなものが、音楽を聴くという楽しみなんだろうなあ、と思います。音楽の生成者は、そうした聴き手の解釈という創造性といかに交換できるかということが音楽の課題なのだと思います。

さて、このヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番をなんとかイギリス以外の情景と結びつけようと試みましたが、なかなかうまく行きません。ただ、なんだかよくあるイギリスのテレビドラマのような情景はどんどん湧いてくるのが面白いです

というわけで、今日はこの辺りで。文章ばかりですいませんです。おやすみなさい。グーテナハトです。

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