縦糸と横糸

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最近、近所を自転車で走っている話は何度か書きました。

今年の冬から、春となり、夏来る、という感じで、同じ場所でも、風景は本当に変わります。

冬枯れの草原が、春になって花が咲き乱れ(本当に咲き乱れるのです)、桜が舞い散り、若葉に満ちるわけですが、最近は、その若葉も色濃くなり、青年の雄々しさを持つようになりました。

それどころか、早咲きのひまわりが、先週はその顔を空へ向けていたのが、今週になると、まるで老年のようにこうべを垂れて、勢いをうしない、人生の晩秋を感じさせたりもします。

あるいは、草原にも立ち枯れた草がすでに目立ち始めました。一方で蝉の鳴き声を聞いたりすると、また新たなサイクルが始まったということも思います。

ともあれ、同じ風景の中に、こうした違いを見出すということは、まるで、同曲異演を楽しむかのような感覚があります。

昨日も書いたように、シュトラウスの最後の四つの歌を、かつては、アンネ・トモワ=シントウで聴いて感激していたのが、昨日はジェシー・ノーマンの声で違う感動を感じる、といったような、そういう楽しみです。

それは、まるで縦糸と横糸を組み合わせるようなものでしょう。

機織りで長く張られた縦糸に横糸を通すと、絢爛な布地が出来上がるかのような。曲をたくさん聴くのが縦糸なら、様々な演奏を楽しむのが横糸。あるいは色々な場所に旅するのが縦糸だとすれば、同じところにとどまって季節の移り変わりを楽しむのが横糸です。

仕事も同じらしく、本来業務と言われる、収益を上げる仕事ばかりやっていてもうまくいかず、周辺事項や視点を変えた仕事も織り込まないといけないようです。

縦糸だけ伸ばしても本質は掴めなさそうです。質料と形相の関係に似ているような気もします。

ただですね、それでもやはり縦糸を伸ばすことに憧れます。理論上は無限に伸びる縦糸ですので。新しい楽曲を聴きたいし、新しい土地にも行きたいですね。それがなくなった時、初めて大人になるということなのかも、と思いました。

今日はこちら。やはりジェシー・ノーマンの(ナクソス島のアリアドネ》。

クルト・マズアの指揮はゆったりとしたもので、ジェシー・ノーマンの深みを十分に引き出しているように思えます。80年代の演奏ですが、冷戦のさなかにアメリカ人のノーマンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演するというのは興味深いです。しかし、こう言う演奏の違いがわかるようになって少し嬉しい反面、寂しさも感じることもあります。もっと新しい音楽、つまり縦糸を伸ばすことをやってみたいなあ、と思います。


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