真実在を書く──辻邦生「春の戴冠」と「言葉の箱」から

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それは単なる、おぼろげな、誤謬に満ちた一老学徒の記憶を紡ぎ出していった世界に過ぎない。しかしそれが書きとめられ、絶えず描かれた形で呼び戻されるということは、未来永劫に闇の中に沈む存在に較べると、なんと確かな存在感を持つのだろう。私が夜更け何にもかかわらず、思わず回想の中にのめり込んで行き、筆を執らずにいられなかったのは、この回想録こそが、虚無の闇に浮かぶ光の島のように思われたからである。この世の空無感が強くなればなるほど、回想録は、伝説に出てくる花咲く浮島のように、虚無の闇の中にくっきりと漂い始めるのである…。

辻邦生「春の戴冠」新潮社、1996年、761ページ

今日は本当に良い天気でした。1ヶ月ぶりぐらいに感じます。ですが、家で黙々と掃除などをしていました。ふとした拍子に本棚から1996年に出た「春の戴冠」を取り出し、おそらくは10年ほど前に読んだ時につけた付箋に手をかけたら、こちらの文章が出てきました。


春の戴冠


春の戴冠

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これを読んで思い出したのが、私が芸術というものを私なりに初めて理解したと思えたときのことでした。理解したと思えたときのことでした。いつかも書いたかもしれませんが、書いてみます。

Paolo Veronese, The Wedding at Cana

こちらは、イタリアルネサンス後期の画家ヴェロネーゼの「カナの結婚」という作品です。この作品をいつぞやか、ルーヴル美術館で見る機会がありました。この巨大な絵画を眼前にして、真実在という言葉が出てきたのでした。おそらく、西田幾多郎の文脈における真実在という言葉だったと思います。

もちろん、それは正しく西田哲学のタームとしての真実在という言葉に当てはまるものであったかどうかはわかりません。ただ、その時の真実在という言葉には、何か肉感的な生々しい、手に触れることのできるような温かみさえ持つような感覚だったと思います。

この「カナの結婚」の中に描かれている数多の人の姿は、当然のことながらヴェロネーゼの手による創作であるわけです。ですが、それは創作という人間の頭の中でなされたものを超えて、本当にこういう風景があった、という真実味を帯びていたと思うのです。本当に、こういう宴が、こういう場所で開かれていて、楽器を弾く人もいれば、ワインを注ぐ人もいれば、品定めをする人もいれば、ということが、ありありとした真実味を帯びて感じられたのです。それまでは、おそらくは、絵画というものは、何か作られたもの、と、いう感覚を持っていたのですが、この時からそれが変わりました。芸術作品にある真実味というものは、現実世界とは全く関係なく、真実としてそこにある、ということが直感的にわかった、ということなのだと思います。

これは、もう、語れば語るほど、書けば書くほど、そうした意味合いから離れていくのだと思います。ですが、書くとしたらそういうことです。

それで、この辻邦生「春の戴冠」に書かれていることも、やはりそういうことなのだ、と思うのです。回想録、つまりこの「春の戴冠」に描かれていることに他ならないのですが、それが現実という虚無の世界からはなれて、「確かな存在感」を持ち「闇に浮かぶ光の島」となるほどの存在になるということです。現実を超え現実と離れて、描かれたことが「真実在」となる、ということ。これは美術作品もそうですが、文学作品もやはり真実在として、そこにありありとした真実味を帯びて現前している、ということなのだと思うわけです。

そこで思い出したのが同じく辻邦生「言葉の箱」。


言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)



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言葉によって世界を作り、その箱の中にあらゆる世界を積み込めるんだという信念

82ページ

フィクションの架空の出来事、場所、人物は、実際に小説の中以外にありえない、つまり、現実のどうかに探しに行ってもありえない。

77ページ

実は、私は辻邦生の授業に出たことがあります。とあるツテをたどって、2回ほど出たことがあるのです。その時に、辻邦生が言っていたことは、小説の舞台に読者が行ったが、そこは小説の世界とは違っていて、読者は驚いていた、という趣旨のことだったと記憶してます。それをさも笑い話であるかのように話しておられたのでした。

つまり、小説世界と現実世界の断絶について話をされていたわけです。断絶というよりも、小説世界が現実世界をさらに超えたものとして浮島のように光り輝き現存している、というかなんか区なのかもしれません。確かに、作品のイメージとして、小説の舞台に行くのはおもしろいことなのかもしれませんが、それは作品とは断絶している、ということを言っていたのだと理解しています。

「春の戴冠」の語り手であるフェデリゴは、ある意味辻邦生の分身であり、フェデリゴが書く回想録というものは「春の戴冠」のテクストそのものであると言ってもいいわけですが、その「春の戴冠」は、実際のフィレンツェやボッティチェルリとも離れた、一つの真実在として、それそのものが大きな価値として光り輝く浮島のようにこの世界の上に存在している、ということで、それがゆえに、フェデリゴ=辻邦生は、メディチ別邸での宴をこと細かく描写し、それはもちろん実際にあったものではないのですが、それでもフェデリゴ=辻邦生が真実在として言葉によって世界を作り出し、それを読者は真実在としてありありと生々しく感じている、ということなのでしょう。

辻邦生「言葉の箱」では、小説に大切なものは、「詩」、「根本概念」、「言葉」である、と書かれています。

小説を書く場合、(中略)世界を超えてしまうか、世界を拒否しているかで、何もない無の世界にいる。そして、言葉によって新しい世界を、新しい人物を作っていくわけです。この感覚がないと、強い作品は生まれません。

162ページ

まさに、先に言葉があって、そこから新しい世界が作るという、素朴な意味での、認識の対象と主体の逆転のような事態が起きています。西田幾多郎の哲学で純粋経験という概念があって、最初に主体も客体もない、経験そのものがあって、そこから世界が立ち現れる、というような趣旨なのですが、それに近いものを感じるという意味では、最初に出てきた西田哲学用語の「真実在」というもあながち間違ったものでもないのでは、と思います。

今日は長々としたものになってしまいました。最近、なかなか書く時間が取れませんでした。ですが、やっと9月末でひとつ山を越えました。次の山も半月後にあって、山ばかりなんですが、どうしたものでしょうか。もう少しタスクは選んだようが良いかも、と思ったりもしております。

それではみなさま、おやすみなさい。

 

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