《四季》と反《四季》

いろいろなことがおわり、先週は多くの山を越えました。今までにないことをいくつも。

思うことは、やり過ぎもまた問題ということかなあ、と。

先だって、とある方と話をするなかで、野心的だと言われたことがありましたが、単に、やりたいことをやりたいと思うだけで、淡々としたものなんですが。

苦労しているのは時間に対してやることが多すぎることで、色々と迷惑をかけているのでしょう、ということだけです。申し訳なくおもうことばかり。

今日はこちら。マックス・リヒターのリコンポーズによるヴィヴァルディの《四季》。


Recomposed By Max Richter: Four Seasons



A. Vivaldi
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日曜日にNHK-FMで流れたのを聴きました。数年前にドイツグラモフォンからリリースされているので、きっと色々と議論されてつくしているのだとおもいますが、一旦は印象を。
春から冬まで、シンセサイザーを交えながら、弦楽合奏と独奏ヴァイオリンでリコンポーズサレタ楽曲は、《四季》のようで《四季》ではありません。似てはいるのですが、違います。リズムや旋律が変えられていたり、あるいは構造も変わっていたり。しかし、やはり、それはヴィヴァルディの《四季》。

でも、冬が終わったあと、5つのShadow というユニットが始まります。それはシンセサイザー中心の楽曲で、《四季》の旋律がかすかに聞こえたり、和声が聞こえたりするのですが、なにか、世界を裏側から眺めているような、《四季》ではない世界になっています。死者が世界を眺めるのこうなるのでは?、と思います。反《四季》のような感じ。

多分、大事なのは、オリジナルにはない、この部分なのかも。

さらにシンセサイザーだけでリミックスされた《四季》6曲。これは本当にエレクトロニカ、あるいはダンスミュージック的な音作り。現代化された《四季》。これもやはり、死者からなのか未来からなのか、裏側から眺めた《四季》。美しさ、あるいは批評なのか諷刺なのか。

さて、あらゆるものには、正と反があり、合となる、というのは、よくある弁証法の話。どうも最近の感覚は、正と反があり、平坦がある、です。上昇することなく、ただそこにある、という感覚。やりすぎると良くも悪くもあるけれど、まあ、そういうものだということで、受容しないといけないのかも。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。