高橋大輔「漂流の島:江戸時代の鳥島漂流民達を追う」を読む。

なんだか、心がえぐられるような深い感慨を持った本でした。探検家高橋大輔さんの「 漂流の島:江戸時代の鳥島漂流民達を追う 」。

漂流の島: 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う
高橋 大輔 草思社
売り上げランキング: 68,228

江戸期の鳥島への漂流民の足跡を鳥島に実際に行って検証するというノンフィクション。

これまでも、高橋大輔さんが、浦島太郎、サンタクロース、といった伝説の人物の足跡を、実際に現地に赴いて検証するという探検を読んでいましたが、今回もすごかったです。

鳥島は、活火山の無人島で、特別天然記念物のアホウドリの生息地ということもあり、容易に訪れることはできません。また絶海の孤島にあって、波浪激しい大海に浮かぶ島でもあります。

その鳥島で漂流民達が暮らした洞窟を見つけようというのですが、明治以降の大噴火で、洞窟のあった地帯は水蒸気爆発で吹き飛んだり、溶岩流に飲み込まれたりと、地形が大きく変わっています。さて、鳥島に漂流民の足跡を見つけることができるのでしょうか、という物語。

高橋さん自身の鳥島への上陸、現地での調査、離島する場面が、漂流民の漂着、生活、脱出と重ね合わさるような構成になっていて、漂流民の当時の状況や心情がリアルに感じられます。

現地に赴くまでにも、様々な交渉やお役所との攻防があったり、探検というのは現地に行く前から始まっているということもよくわかります。何をやるにも、面倒なことはたくさんあるものです。

実際に、漂流民達が暮らした洞窟を見つけることができたのか。ここには書きませんが、高橋大輔さんの執念が一つの結論に到達する様は、漂流民の脱出への執念と重ね合わせて感じられました。

それにしても、絶海の孤島に取り残され、脱出のすべもない、という状況を想像して、冒頭に触れたように何か心をえぐられるような気分になりました。その絶望たるやいかほどのものか、と。その絶望の感覚を、漂流民の記録を取り上げたり、あるいは鳥島での体験をもとに描いておられて、凄まじいリアリティでした。

これまでの高橋大輔さんに関する記事はこちらです。こちらもおすすめです。

高橋大輔「12月25日の怪物: 謎に満ちた「サンタクロース」の実像を追いかけて」

高橋大輔「浦島太郎はどこへ行ったのか」

それではみなさま、どうか良い週末を。

ラトルの《惑星》を聴いて。

昨日、ラトルとベルリンフィルのモーツァルトを聴いて感動しましたので、同じ組み合わせの音源を。ホルスト《惑星》。

この音源、10年ほど前に、飛行機の中で聴いた記憶がありますが、あまり良くない機内設備できいたこともあったのか、あまりいい印象を持てませんでした。なにか、力が入っていない演奏のように聞こえていたのです。

ですが、今聞いてみると、なんだかすごいぞ、と。あまりはスピードを上げることなく、解像度の高いくっきりした演奏だなあ、という印象で、重みもあり、じっくりと練られた充実した演奏だと思います。

私の聴く限りでは、この曲はリズムどりが難しい曲だと思います。例えば、有名な「木星」の冒頭、各パートが、四拍の中で3音のパターンをずれて演奏します。これ、本当に大変だなあ、と。私だけですかね。以前、バンドをやっていた時に、この類の楽譜に苦労した記憶があります。

こういう実にところ複雑なことをあえてスピードを上げずに解像度を保つ、ということは、実はすごいことではないか、と想像したりしています。これは、バンド活動の経験なので、オケの場合は違うかもしれず、プロには朝飯前とは思うのですが、この解像度高さが、何よりこの音源のすごさだ、と思います。

もっとも、ラトルの指揮には、時折、そのスピードコントロールについていけない時があります。あれあれ、そこでこうするのか、みたいな感覚で、それは以前にも感じていました。

あれあれ、そんなに熱くなるんですか?──ラトルの《くるみ割り人形》

ただ、リンク先の《くるみ割人形》ほどではないですが、微妙にそうしたスピードへの違和感を感じるところが一箇所だけありました。

いずれにせよ、解像度の高いじっくりと聴かせる素晴らしい演奏だと思います。傷もあまりなく、繰り返しになりますが、くっきりとした締まった演奏で、音質も素晴らしいです。王道な《惑星》だと思います。

ラトル、やはりすごいんだなあ、と思います。身体的な感覚として、ラトルの表出する「感じ」が一層わかりました。

演奏の違いの件を昨日書きましたが、同じ演奏家で違う楽曲を聴くという軸と、同じ曲を違う演奏家で聞く、という軸もあります。次は、《惑星》をまた別の演奏で聞いてみてみると、あらためての反省になるかも。

今日もなんとか無事に。みなさまもどうかお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

楽曲を語ることと演奏を語ることと。

日曜日、マーラーについて書いてみましたが、なんとなく書くことに抵抗がありませんでした。逆にいうとこの数ヶ月、あまり書くことができませんでした。それは、環境変化などあり、多忙だったということもあるのでしょうけれど、なにか違う理由を見つけた気がするのです。

この一か月、モーツァルトを聴き続けていました。特に、これまで聞いたことのなかった初期交響曲や弦楽四重奏、あるいは、合唱曲やオルガン曲などを。

そこで、もちろんなにがしかの感想は持つのですが、それを言語化することができなかった、ということなのではなかったか、と。

それは、意欲という観点もあれば、技術的知識的な観点もあったはず。音楽の差異を語ることよりも、演奏の違いを語ることの方が、取り組みやすいという状況なのかもしれない、と。聴きなれたマーラーの5番を聴いてなにがしかのことを書くということは抵抗なくできた、ということかと。

今、ラトルが振ったモーツァルトの交響曲39番、40番、41番のライブ録音をAppleMusicで聴いています。

これを聞くと、ラトルらしい、うねるようなダイナミズムが感じられ、ああ、ラトルって、いいなあ、と思うのです。ベルリンフィルを手中にして響かせる手腕の素晴らしさ。輪郭のある演奏は、対位法を浮き上がらせ、モーツァルトの構築美、それは何か、18世紀の優美な絵画を思い起こさせるような。という具合に、何か語ることができるわけです。それは、取りも直さず、この3曲を何度も聞いているわけですし、ラトルの演奏も何度も聴いているからこそです。

一方で、モーツァルトの初期弦楽四重奏を聴いて、その楽曲自体を語ることについては、何か抵抗のようなものがあり、越えられない壁があるように思ったのでした。それは、越えるべき壁なのか、あるいは、楽理のリテラシーがなければ超えられない壁なのかはわかりません。少なくとも、昨日触れた身体的感覚として手に触ることのできるような感覚は、初期弦楽四重奏を聴いていた時には感じませんでした。

初期弦楽四重奏が楽曲として面白くないかというと、そうでもないのです。滋味にあふれた曲だったと思うのですが、そこに何かを語るまでには至らなかったわけです。語るまでには理解していない、というのが、まずもっての答えです。

ですが、あるいはこれは、楽曲の違いを語ることと、演奏の違いを語ることということに繋がるのかも、とも思いました。

私に中では、楽曲の相違と、演奏の相違というのは、なにか対立する概念のように存立しています。それは、ジャズとクラシックの関係に似ているもののように理解していました。ジャズは、コード進行に基づき、セッションによってフレーズが異なります。クラシックはフレーズはいつも同じですが、それ以外の差異で表現をするわけです。

なにか、これまでは、ジャズ的な楽曲相違の方が自分にはわかりやすい、と思っていたのですが、実は演奏相違の方が語りやすい、ということに気付いて意外だったのです。

それを前向きな変容とみるか、後ろ向きな変容とみるか。少し、議論が先走るかもしれませんが、それは、もしかすると、年齢を重ねたからということなのかもしれないとも。同じものの微細な変化で十分楽しめて、環境の大きな変化を許容できなくなっているという事に繋がるのかも、と思うと、「機微がわかるようになったなあ」といった前向きな変容とお気楽に捉えるわけにもいかないのかも、と思ったりします。

楽曲の違いも乗り越えて書いてみないと、と思います。

そうこうしているうちに、ラトルの41番は最終楽章。この颯爽としたスピード感で聞くフーガはとんでもないです。カルロス・クライバーの《運命》を彷彿とさせるパラダイムシフトかも。みなさま、これは必聴です!

それではみなさま、お休みなさい。

マゼールのマーラー交響曲第5番を聴きながら

6月も気がつけば半ばに迫っています。東京地方は6月7日に梅雨に入ったそうですが、雨が降っているという印象はあまりありません。

昨日も30度を超える真夏日で、熱中症気味でしたし、今日もどんより曇るだけで、雨が降ることはありません。これから梅雨前線が北上し、梅雨らしい天気になるのだと思います。

もっとも、この季節の晴天は宝のようなものです。爽やかな晴天の下で、散歩をしたり、自転車で走ったりするのは、幸せです。
さて、今日はこちら。マゼールのマーラー交響曲第5番。マゼールのマーラー交響曲全集のボックス盤から取り出して聞いてみました。

Mahler:Symphonies 1-10
Mahler:Symphonies 1-10
posted with amazlet at 17.06.11
Imports (2002-10-07) 売り上げランキング: 12,079

この音源、25年ほど前に初めて聞いた時にはまったく受け付けませんでした。以下のジャケットでした。

マーラー:交響曲第5番
マーラー:交響曲第5番
posted with amazlet at 17.06.11
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ソニー・ミュージックレコーズ (1996-10-21)
売り上げランキング: 30,316

私にとっては、このジャケットは、何か苦手な音源を聞いた、という気分を想起させるのです。そもそもこの曲の理解が定まっていないとか、マゼールの音楽というものを体感として理解していなかった、ということもあるのだと思います。

この濃厚な音楽の作りは、おそらくは普通の小学生や中学生に理解せよ、と言っても難しいのかも。幼い頃は何か「かっこいい」というプリミティブなキーワードを元に音楽を聞いていた記憶があります。

その文脈でマーラーを捉えることはできませんでした。

マーラーの音楽に含まれる様々な要素、ある時はスタイリッシュな音楽であり、ある時は土着の民謡であり、ある時はユダヤ音楽であり、ある時はワーグナーであり、と言った複雑に織り混ざったものを、一言で捉えたり、一言で語ったりする、一言で理解することはできないということなのだと思います。

長い間音楽を聴いて、あるいはこの曲をCDやライブで何度か聴いたことで、あるいは、実際にウイーンの空気を吸ったり、世界史をかじったり、現代の政治をみたり、そう言った経験があって、体感として理解が深められた、ということではないか、と思うわけです。

昨年も同じようなことを書いてました。

演奏差異が身体的感覚でわかるか?

音楽嗜好の変容

今日聞いたマゼールのマーラーも何か得心しながら聞けたのは、おそらくは、マーラーというものをかつてよりはよく聞いていたし、交響曲第5番もかつてよりはよく聞いていたし、マゼールもかつてよりはよく聞いていたから、ということなんだと思います。

主体の成長とともに認識も徐々に変容するということ。主体だけでもなく、客体だけでもなく双方によって整理するものであるということなのだと思います。おそらくは、音楽だけではなく、文学や絵画だけでもなく、あらゆるものがそういうことなんだとも思います。

さて、最近、もうなんだか放心したような毎日が続いていたんですが、なんとかここから脱却しないと、と思う今日この頃です。本も全然読んでいないし…。

それでは、みなさま残りの週末を楽しくお過ごしください。