ティエポロの思い出

今日もブルックナー。9番をやはりティントナーで。昨日は、柔和な、と書きました。なにか優しさを感じます。

Bruckner: Symphony no. 9 / Tintner, Royal Scottish NO
Naxos (1999-10-26) 売り上げランキング: 50,089

思い出したのが、新国立美術館にあるティエポロの絵でした。2017-02-10 23.44.47
昔、ウィーンだったか、外国の美術館で、老人がティエポロの絵の前で「ティエポロ」低い声で呟いたとのが忘れられません。ヨーロッパ人の彼と、日本人の私が感じるティエポロに違いがあるのかないのか。私の感動は、日本人だからなのか。彼はどういう思いで「ティエポロ」と呟いたのか。あるいは、そもそも彼はどこの国から来たのか。オーストリアなのか、ポーランドなのか、スロベニアか、ハンガリーか。

なにか、戦後の日本の発展のなかで、上へ上へと登っていって行きついた先がいまの日本で、それはそれで本当にありがたいことではありますが、そうしたありがたさとは違うありがたみが、ティエポロとかティントナーにはあるなあ、と。とにかく静謐で、落ち着いていて、浮つくこともなく、淡々とデューティをこなし、唯一人間だけが意識的に許されている美しさをつくる営為に寄与している、ということ。実際は、もちろん、報酬はあり、あるいはそうした西欧の落ち着きに植民地経営が寄与していたということも忘れることはできませんけれど。これは、経済と芸術の問題なのかなあ、などと。

今日、山を二つ越えました。今週の山は日曜日で終わり。また来週から新しい山がきます。

それではみなさま、おやすみなさい。

 

Miss you in New York

久々にTーSQUAREの Miss you in New York。
このアルバムでは、スクウェアを吹くマイケル・ブレッカーを堪能できます。何度も書いている気がします。すいません。でも良いアルバムなので。
このアルバムでのマイケル・ブレッカーは、正直本気を出していないはず。完全に歌モノのバッキングぐらいにしか捉えていないと思います。いや、カッコいいのですが、熱さやアウト感が足らないかも。もっと行けるはず、マイケル。
でもスクウェアを吹くマイケルが聴けるということ自体が凄いのですけれど。
とはいえ、アルバム全体のアレンジは、1995年当時の良質なフュージョンスタイルです。スクウェアの楽曲が、当時のニューヨークスタイルにアレンジされていて、結構いい感じ。そういう意味ではかなりおすすめ。
徐々に、いろんな環境が整ってきました。WiMAXが、地下鉄でも通じるらしく、そうであれば、ということで、再導入しました。これで、原稿をどこでも書ける体制が整いました。最近整理整頓大好き。やはり整理にある程度時間をかけないと成果は上がりません。

ローマ紀行2008 その11 ヴァチカン美術館(3)

ヴァチカン美術館の至宝はいくつかあるけれど、その中でも最重要なものに数えられるのが、ラファエロの手による壁画で、特に有名なのが世界史の教科書や資料集の手合いには必ず登場する「アテナイの学堂」。だが、壁画の部屋には観客がすし詰め状態。山手線ぐらい込んでいて、ゆっくり見ることなんてできやしない。部屋は薄暗くて、写真をとってもちゃんとピントが合わない。だが、壁画が思った以上に大きいのには驚いた。

ローマに来てからのラファエロは少し変わってしまったようにいったんは思っていた。ローマ以前に描いた聖母子像のたおやかさは消えてしまい、なんだか実利的なお抱え宗教画家になってしまったような感があったのだ。そういう意味では、壁画の折衷的な雰囲気に少々さびしさを感じた。でもこの壁画を描いたのが1508年から1511年(25歳~28歳にかけて。あのドレスデンの絵画館にある「システィナの聖母」は1512年頃(29歳)。「システィナの聖母」をみたときの強烈な衝撃は忘れられない。まだまだラファエロの力は衰えるどころかまだまだ進化しているというのが本当のところだろう。下の写真が「システィナの聖母」で2006年の旅行で撮影したもの。

「システィナの聖母」の凛々しさは、「キリストの変容」の力強さへと続く。美術館の出口近くの展示室の「キリストの変容」を見て、やはりたおやかさは消えたけれども、そこには雄々しさとか強い意志が感じられる。すさまじい迫力。超自然的な神々しさ。野心的な色遣いや構図。

ラファエロは確かにローマで変わった。ローマで何が変わっていったのか、いつかラファエロの側に寄り添ってみたいと思うのだった。

描写性はそのまま進歩ではない

ルネサンス絵画の描写性について、何度か書いたのだが、その文脈では、ルネサンス的なものとして「描写性」を挙げた。遠近法の導入などである。ローマの彫像や遠近法壁画などを復活させたのである。

しかし、改めて考えると、中世絵画には中世絵画なりの意味があって、あえてローマ以来の描写性を放棄したのである。ローマ時代には既に遠近法を用いた絵画があった(※1)のであるにもかかわらず、である。

宗教画として、イエスを大きく、そのほかの人を小さく描いたり、人間離れした表情で描いたり、といった描写や、最後の審判の厳しいイエスの表情など、現実描写ではない部分に宗教的意味を与えていたのだ、と言うことだ。そう言う文脈を念頭に置いてルネサンス芸術を考える必要がある。今年はイタリアでルネサンスの洗礼をを受けたわけだが、そこに至るまでの美術史についても勉強を進めなければならない。

※1 皇帝ネロのドムス・アウレアである。

塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮社、2001年、55頁

国立西洋美術館のシンクロニシティ

dore
 昨週の土曜日、「ダフネ」を上野の東京文化会館で見たわけですが、東京都区内で午前中の用事を済ませたあと、「ダフネ」の開演まで時間がたっぷりありました。半分は喫茶店で本を読んでいたのですが、残りの半分は、僕の大好きな国立西洋美術館に行ってきたのです。
 僕は、あまり該博な知識を持ち合わせてはいないにもかかわらず絵画を見るのが大好きです。二年に一度ぐらい行く欧州旅行での愉しみというものが、当地の美術館に行って、ルネサンス以降の西洋絵画をみることである、といっても過言ではありません。
 とはいっても、海外に行かなければ西洋絵画の一品を見られないというわけではありません。上野の国立西洋美術館には、驚くべきことに西洋絵画の名品がいくつか収められているのです。そのことを知ったのは五年ほど前でしょうか。それ以来、僕のお気に入りの東京スポットの一つとなっています。一年に一度ぐらい訪れて、馴染みの絵を見ながら心を癒しています。
 特に大好きなのが、クロード・ジュレや、リべーラ、ティエポロなど。エル・グレコやジョシュア・レイノルズもありますし、ゴッホ、ゴーギャン、モネ、ピサロもあります。
 というわけで、土曜日に行った国立西洋美術館では刺激的な出来事がありました。二〇〇五年に新た収蔵された作品がいくつか展示されていたのですが、心に残ったの作品が二枚ありました。ヤコブ・ヨールダンス「聖家族」と、ギュスターヴ・ドレの「ラ・シェスタ、スペインの思い出」の二枚です。
 ヨールダンスの「聖家族」は、ヨセフとマリア、幼子イエスの三人が画かれた作品。暗い背景は、一瞥すると黒一色に思えるのですが、実はバラ色の払暁の光が見えています。マリアの物憂げな表情。マリアの表情は、確かに物憂げなのですが、どこか諦念を感じさせるような素っ気なさも持っています。まるでこれから起こることを予感しているようにも思えるのです。イエスは幸福そうに笑い、何かを指さしています。マリアとイエスの表情のコントラストと言ったら! そして、マリアの素朴な美しさと言ったら! 絵の前をしばらく動くことが出来なかったぐらいです。
 同じく、虜になったのが、ギュスターヴ・ドレの「ラ・シェスタ、スペインの思い出」です。スペインのある街の貧民街。夏の暑い盛り。シェスタの時間ばかりは、この高い建物に囲まれて日当たりの悪い界隈ににも天頂から太陽の光が降り注いでいます。太陽の光は万人に平等に降り注ぐのです。日なたでは世間の汚れを知らない子供達が光のなかに佇んでいます。その周りの佇む大人達も、確かに世間の不条理に苦しんでいるのでしょうが、このときばかりは太陽の神々しい輝きの喜びに預かっているのでした。立ってこちらを見つめる若い女は、黒髪で優しいまなざしのなかにも意志の強さが見てとれます。子供を抱く女は、抱くこと自体を幸福に感じている様子。奥にはターバンを巻いた異国風の男が彼方を向いて立っています。手前に座る女の子は、どうやら、少女から女へと踏み出しはじめた頃のようです。
Dore_1868  ギュスターヴ・ドレは、アルザス人で、ストラスブールの生まれだそうです。挿絵画家として有名とのこと。なるほどなるほど、と思っていたのですが、このあと、運命の力に畏怖を覚えるのでした。
 僕が楽しみにしている、GoogleパーソラナイズドホームページのArt of the Dayというコンテンツがあります。毎日、日替わりで西洋絵画を見せてくれるコンテンツなのですが、なんと今日はギュスターヴ・ドレではありませんか! なんというシンクロニシティ。おそらくは神は存在するでしょう!、と思わずには居られません。また近々国立西洋美術館に行って、感動の追体験をしたいと思わずには居られないのでした。