短編を読んだ記憶。

大昔、高校の前半まで、短編小説というものがあまり好きではなく、長編ばかり読んでいた気がします。分厚ければ分厚いほど、読む気が湧いてくる、みたいな。とにかく、長編ばかり。と言っても、古典文学ではなく、トム・クランシーやレイモンド・フィーストだったりしたのですが。

その認識が変わったのは、辻邦生を知ってからだと思います。短編の持つ繊細なガラス細工のような技芸は、長編ドラマとは違う楽しみあるなあ、と。

もっとも、辻邦生は実際のところは長編を得意とする作家でもあったわけで、辻邦生との出会いが短編だったというのもなにか不思議な気分ではありますし、短編でさえ長編の一部という作品もあるわけです。「ある生涯の七つの場所」もその1つで、文庫化された1992年は、二ヶ月に一度の文庫の発売を楽しみにして過ごし、短編を一つ一つ読んだのは、私の読書体験における幸福な記憶の一つです。


夏の海の色 (中公文庫―ある生涯の七つの場所)



辻 邦生
中央公論社
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ただ、なかなか読み進めることができなかった、という記憶があります。電車の中で一つの短編を読み終わると、ぼーっと車窓を眺めて、放心しているような感じだったと記憶しています。

みなさまもそうだと思うのですが、短編を読める量と、長編を読める量というのは自ずと違うなあ、という気がします。長編は、物語的面白さに引き込まれて、ぐいぐいと先へ先へと読み続けますが、短編は、一つ読んだだけで、何かもう次を読めないという感覚になります。短編はそれ一つで、完結した一つの世界です。その一つの世界を最初から最後まで読みきった時、その世界のあまりにも強い余韻に酔ったような気分になり、しばらくそこから動けないような感覚があります。

今、村上春樹が訳した短編集を読んでいるのですが、一つの短編を読み終わったところで、満腹感のような充実を覚えてしまい、容易には次の短編に進むことができない、という感じでした。余韻に浸る、という言葉がありますが、余韻というよりは、何か浮かされた熱を冷ます、ほとぼりを冷ます、というような感覚の方が正しいと思います。そういう余韻、あるいは熱を伝えることのできる短編というのは、力のある短編ということになるのであって、きっと、辻邦生の短編群もやはり、激しい余韻と熱を伝えるものだったということなのだと思います。

さて、今日でウィークデーは終わり。週末は色々とやることがありそうです。色々頑張らないと。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

本を読むための本を。


ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)



立花 隆・佐藤 優
文藝春秋
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立花隆氏と佐藤優氏の対談。お互いに教養を深めるためのブックリストを作って、それについて語るというもの。何かのタイミングで、引っかかっていて読みたかったのですが、今回入手。2009年の本ということで、少し古いのですが(なんと8年前)、紹介されている本は古典とも言えるものなので、色あせた感覚はありませんでした。

お二人とも、相当な読書家で、月に10万円本代に使うということで、そういう点でも見習わないと、と思います。面白かったのは、外務官僚についての記述。佐藤優氏は外務省に勤めていて、鈴木宗男との関連で退職された方です。官僚は収奪する側とされる側に別れるとか、上役は「うまくやれ」と下役を使い、うまくいけば手柄は上役へ。うまくいかなければ、罪過は下役へ、という構造は、どこも一緒だなあ、と本当に面白かったです。

大学時代は、今から思えば楽器を吹いて飲んでばかりでしたが、もう少し本を読んでおけばよかったなあ、と思ったり。残りの人生時間を見極めて、効率よく読書計画を立てなさい、というくだりがこの本の中にあって、まあそうかもしれない、と思ったり。若ければ若いほど、こうした本は効果的だなあ、と思います。

そういえば、高校時代に読んだ岩波文庫の宣伝文句に「良い読書は、悪い本を読まないこと」という趣旨のことがあり、まあそうかもね、とも。もっとも、効率的な読書って、なんだかお勉強みたいでつまらなさそうだなあ、とも思います。

ブックリストは、有識者の経験が詰まっているので本当に面白いです。

さて、今日もティントナー。7番を聴いています。


Bruckner: Symphony no 7 / Tintner, Royal Scottish National Orchestra



Naxos (1999-05-11)
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先日も紹介したばかり。思うに、ブルックナーでいちばん好きな曲はこの7番だなあ。優美で典雅。先日も触れたように、初めて聴いたブルックナーは7番。あれ、実演を聴いたことはないかもしれない。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

小説で語るということ


春の戴冠


春の戴冠
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辻 邦生
新潮社
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最近「春の戴冠」を読んで改めて思ったのですが、辻文学は語り手が、物語を語るという構造がよくあるなあ、ということ。「春の戴冠」はフィレンツェの盛りを回想する老人。「安土往還期」は織田信長を間近に見るイタリアの船乗り。「西行花伝」は師匠の西行を慕う弟子、「夏の砦」は冬子と知り合った男。他に何があったか。まだあるはず。

この「語り手が語る」、という構造は、物語世界へのリアリティを増すものです。物語を真実と信じる語り手が語ることで、物語に真実性が付加された形で、読み手に物語が伝わってきます。自分が見たものより、人がそうだと言ったことの方が信用されやすいです。語り手が真剣に語ることを読み手はどんどん信じていく、という構造です。

高校生の頃、この構造は夢幻能に似ている、と思ったことがありました。夢幻能は、シテが語る物語を、ワキが聞くわけで、ワキはシテの物語を真実と信じて聞いているわけで、ワキが信じる様子を観客が見てリアリティを感じる、という構造だったはずです。うろ覚えだったので、少し調べましたが、多分あっているかと。

小説は、おそらくは識覚に訴えることのない概念的な表現方法ですので、読み手を没入させるためのテクニックが必要なはずで、その一つが語り手の介在なんだろうなあ、と、高校生の頃に思ったのでした。

いろいろなパースペクティブのタイプが小説にはありますが、この語り手の存在は、いわゆる原初の口伝で物語が伝えられた、太古の物語の形式なんだろうなあ、と思います。そういえば、「小説への序章」で、そう言った口伝物語の話が出てきたなあ、ということも思い出しました。

そんなことを思いつつ、いよいよ1月も終わりますね。1月は先日も少し触れましたが、新しいことをいろいろやりました。2月は2月で、これまた思った以上にいろいろありそうです。まあ、新しい事は楽しい事。今まで通りの事は(個人的には)新鮮味がありませんので、新しい事にどんどん踏み出そうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。

宇宙へ


「正しく思考する」技術を磨く 立花隆の「宇宙教室」



立花 隆 岩田 陽子
日本実業出版社
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先日読んだ「幼年期の終わり」。あの最後の場面、地球のとある未来が本当に強烈で、あれ以来、地球の未来のイメージを科学的に知りたくて、少しばかり調べているのですが、そんななか図書館で見つけた本がこちらでした。

かなり短い本なのでざっと読めました。なかなか刺激的で、やはり立花隆も同じ問題意識、つまり地球の未来において人類が地球に住めなくなるという可能性を視野に入れた思考、というものを持っているということがわかりました。温暖化とか、破局噴火とか、そういう議論もありますが、太陽や地球の寿命という観点でもやはり永遠に地球に住めるわけでもなさそうです。そこで、我とわれらの子孫のために、少しずつでも宇宙へ向かうベクトルを育てなければならないのです、というのが趣旨。これを小学生への授業の中で学んでもらう、というのが趣旨でした。宇宙それ自体の話も興味深いのですが、小学生が少しずつ理解していく様子や、いろいろな柔軟な発想を提示してくるのも面白くて、自分が小学生だった頃の、ゆらゆら揺れる思いつきでどんどん話し合いや授業が進んでいく感覚を思い出し、なかなか懐かしかったです。

もっとも宇宙事情に関して言うと、前半の立花隆と研究者の対談が面白く、系外惑星や、はやぶさのミッションの話が実に興味深かったです。

いずれにせよ、人類はまだまだ「幼年期」なのかも。これからどんどん進んでいくのでしょうが、傍観者としてぼーっとしていると、取り残されて機会喪失に陥りそうです。いろいろ吸収して世界と一緒に走らないと、と思う今日この頃。どうすれば良いのか。迷う日々。

それではみなさま、おやすみなさい。

自由な演奏とは?


今日は実に良い天気。明日から下り坂とのことですが、今日の晴天を味わうことができました。

先日から読んでいる森有正の「生きることと考えること」について。

森有正はオルガンを弾く方で、バッハ演奏のことも書いてあるのですが、曰く、自由に演奏するようなことはなく、自分を殺し、あくまでバッハを弾く、ということが書かれていました。確かに人は自由に弾きたくなるものですが、そうではなく、バッハの意図のとおりに弾く、という立場でした。バッハ、あるいはクラシック音楽の難しさ、だとも思いました。演奏者に許されるものは何か、ということで、なんだか冷や水を浴びせられたような気分でした。自分が演奏するときに、どこまで何を考えているのか、と。確かに、私はアマチュアであり、演奏するのはジャズのサックスであり、という違いもあり、バッハの演奏と単純に比較できないにせよ、何か思うところはありました。それは、作曲と演奏が分裂している音楽ならではの問題なのかもしれません。

今日は早めに就寝。明日も充実した1日になりますように。おやすみなさい。

本二冊

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仕事始め二日目。ずっと画面を見つめていたら、ひどい肩こりに。

そうは言いつつ、帰宅しながらこちらを引き続き。


生きることと考えること (講談社現代新書)



森 有正
講談社
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今日の感想は以下のようなものでした。

言葉の定義というものを、標準的な哲学的な定義にとらわれることなく考えているのだなあ、と思いました。哲学の議論において、話をするためにはタームとしての言葉の相互理解が必要ですが、そうした枠組みにはまらない言葉の使い方を、それをそうと意識して、という前提ですが、しているのだなあ、と思います。経験、とか、体験、という言葉を使いますが、私が使いイメージする経験や体験とは少し違う意味で、語っていて、それを自覚的に説明しながら語っているというのが、きちんと聞き手の地平に降りてきている感じで、興味深いものでした。この、経験、体験という言葉も、体験は凝固した変化のない過去のものであるが、経験とは未来に向けた発展する経験である、ということを言っていて、まだ理解が深まらない感じではありますが、例えば、戦争を仕掛けたドイツ皇帝やヒトラーは体験的だが、逆に仕掛けられたその戦争で勝ったアングロ・サクソンは経験的だ、という書き方、あるいは第二次大戦中の日本の軍というものは体験的だという書き方から、帰納法的に考えてみると、どうやら、それは経験を活用して発展していくような、動きのある枠組み、というふうに捉えました。ビジネスでいうとPDCAサイクルをまわす、というようなことをよく言いますが、そういうことでしょうか。

それから、印象的だったのは、「日本には自然がない」ということでした。というのも、すべての「自然」はすべて名付けられている、というわけです。富士山もすでに「富士の高嶺に雪は降りつつ」といったような文化的な表現によって名付けられている。二見浦もやはり、それだけではなく、しめ縄が飾られ日がそこから昇る、というように語られている前提であるから、それはもうすでに自然ではない、といいうようなことが書いてありました。

やはり、フランスに出かけていることもあり、日本社会に対する問題意識を強く感じるものでした。この場でそういった問題を書いたり考えたりするのは難しく、どちらが良いとか悪いとか言えないのですが、それでもやはり、社会問題となっている様々な事案のことを思い浮かべた時に、やはりそうした森有正のいう問題意識(個が確立されていない、など)に翻ることもまた必要と思いました。

あわせて今日読んだのが「春の戴冠」。


春の戴冠〈3〉 (中公文庫)



辻 邦生
中央公論新社
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先日から「暗い窖」という春の戴冠に登場する言葉がどうにも気になって、読み進めているところです。今日読んだシーンでは、プラトン・アカデミアでの読書会をリアリストのトマソが「まるで目に迫る危機を見ないふりをしているようだ」というようなことを述べるシーン。確かに、生きるということ、あるいは厳しい国際情勢などを見ぬふりしていいのか、現実の問題を直視ししなければならないのではないか、という問題意識のようにも思いまいたが、「春の戴冠」は物語ですので、一部分だけを切り取っても何も意味はありません。ただ、すぐそこにある危機やリスクを見ないというのは、一般的な問題としてはあるものですから、自分はそうではないと思いつつも、やはり何か胸に手を当てたくなるような気分でした。

明日で金曜日。正月明けの連休は本当にありがたいです。ただ、今年はかなりの祝日が土曜日に当たり、休日は少ない一年だったりしますけれど。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

商品券の列で森有正を読む。


生きることと考えること (講談社現代新書)



森 有正
講談社
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今日で年末年始休暇は終わり。朝、開店前の近所のスーパーに並んで、割引商品券をゲット。

並んでいる時に、森有正の新書を読んだのですが、これがなかなか面白いです。まだ最初の方なんですが、パリが感覚の街だ、というようなことが書かれてあって、東京にはセクシャルな情報があふれているが実体はないが、パリのセクシャルは実体がある、というようなことが書かれていて、なかなか面白いなあ、と思ったり、実家の樫の木への憧憬のようなことが書かれていて、毎回歌詞の木を見るのを楽しみにしている、ということに共感したり。まだ思想を語る部分の前ですが、明日もこちらを読む予定。速読でざっと読んでみようと思ったのですが、速読というわけにはいきませんでした。まあ、なんというか、文学的には、そういうエピソードのようなものの方が興味深く、牧師の父親は病弱だったが、非常に厳しく、話をしたことがない、というような話の方が何かいろいろなことを考えたりしました。

夜はETVのニューイヤー・オペラコンサートを。新しい実力派の方に驚いたり、常連の方の歌が素晴らしかったり。

今日はそんな1日でした。明日からお仕事。来年のお正月が待ち遠しいです。

それではみなさま、おやすみなさい。

 

BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」を観て。

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今朝の東京地方は曇り空で、あれ、天気予報と違う、と思いましたが、その後お昼に向けて雲が切れて行きました。写真は、ちょうど雲が切れ始めて快晴へと向かう時間帯のもの。
昨夜は、少しばかり飲みすぎまして、まったく懲りないものです。気を使う場だとついつい飲みすぎてしまいまし。正月休みということでお許しを。
この年末年始休暇は自分の時間をとることはなかなかできませんでしたが、家事をしながら、「紅白歌合戦」を含めて、テレビを見ていろいろ情報を得ました。

で、こちら。

BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」

オペラ「沈黙」を新国立劇場で2回見ていて、映画化の情報も聞いておりました。この春にロードショーだそうです。録画を仕掛けていたのですが、家事のあいまで最後まで見てしまいました。

「沈黙」について語ることそうそう簡単なことではありません。ですが、自らの信仰、自らの価値感、自らの美意識を捨てる、と言うことは、キリスト教禁制下におけるキリシタンだけが直面する問題ではない、ということにあらためて思い至りました。

また、遠藤周作は、「沈黙」に登場するような弱き者たちを沈黙の灰から救い出すことこそが文学の仕事だ、ということを言っていた、とされていました。常々思っていることは、文学の仕事というのは、学問的な客観的必然性や普遍的妥当性がなかったとしても、そこに何かしらの真実を求める営為です。それは、ともすればPostTruthの文脈で語られるような安易な感情的な振りかざしになりがち、ありはそう思われることもあるのでしょうが、作家はそこに客観的必然性と普遍的妥当性を当為としてあるように書くことで、政治や歴史にはできない仕事をしているのだと考えています。遠藤周作の言っていたことは文学の使命として、ある種の作家に向けた一つの指針のようにも感じました。

さて、明日で正月休みは終わり。明後日からまた五時起きの毎日が始まります。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

喜劇か悲劇か。アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」


幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)



クラーク
光文社
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アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」を読みました。光文社から出ている新訳をKindleで。これは、高校か大学の時に読みたかった本。当時はアシモフは読んでいましたが、クラークは今ひとつ読んでなかったかも。いまさら感ありますが、なにか読んだあとにじわりとくるものが。

ネタバレあるかもしれないですが、これは、喜劇なのか悲劇なのか、という問題。「砂の女」を読んだ時も、やはりそう思いました。オーバーマインドと合一した人類は、果たして滅亡したのか、進化したのか。その割り切れなさ。そして、子供が変やつし去って行くと言う設定。死別でもなく、離別でもなく、変容によると分かれ。この哀しみこそが文学なのだ、と強く思います。

そして、これは未来史小説。歴史と物語が同じものであるということを感じさせます。連綿とした未来史のなかで、運命あるいは必然に抗い決然と生きる人間たちの姿は、例えば、辻邦生「春の戴冠」のフィオレンツァの人々や、「天草の雅歌」の長崎の人々のように思いました。必然の歴史の中で、自我と自由を守ろうとし、あるいは取り戻そうとする人たちを書くこともまた文学だとも思います。

それにしても、この名状しがたい読後感。丁度、日経サイエンスで人類の未来についての記事を読んでいただけに、この先1000年、2000年後の人類を思うと、目がくらみます。こうしたことを考えるのも矢張り文学なんだろうなあと思いました。

一週間終わり。来春はまた別の種類の仕事を一週間。不安は多い。今、帰宅中ですが、家でとりあえずワインを飲みたい気分。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

世界は物語からできている。

確かに本をたくさん読んでいる気はします。そうは言っても、仕事に関する本がいきおい増えてしまいます。ただ、時折、辻邦生やSFなどを読むのですが、そうした時に、仕事に関する本とは違う決定的なものを感じることが多いです。

仕事に関する本は、理詰めで書かれていますので、理解する、というのがゴールになるのでしょう。確かに、整然とした論理を辿れば、何かしらの有用な知識を理解することができて、それを生活に活用することができます。おかげで、たくさんの恩恵を得ることができ、読書のありがたみを感じます。

ところが、辻邦生などの文学や、あるいはSF小説などを読むと、仕事に関する本とは違う理解の感覚を得ることができます。仕事に関する本は頭で理解する、というのであれば、文学は腹で理解する、ということなんだと思います。

私はどうやらこれを20年前の学生時代に飲み会で同級生にそうした話をした記憶があります。哲学的文章で絶対的真理を論証することはできない。だが、同じ体験をさせることを文学はできるのではないか、ということです。その体験ということは、もちろん主観的なものです。ですが、文書において表現された体験を読み手が味わう、ということは、とりもなおさず、そこに何かしらのことを読み手に伝えることができて、それは頭で考えるということに加えて、(仮想的とも言えるかもしれませんが)体験として伝えることができる可能性がある、ということ。体験を伝えられる、というのが文学の強みで、論説のような文章とは違う点だ、ということを、何か感じるのです。

そもそも、古代から、口述される神話のようなもおが世界観を作っていたという事実があります。これは辻邦生の「小説への序章」の冒頭部分で書かれていることです。もしかすると、今でもやはり物語が世界を動かしていると言える場面があるのかも、と思います。あるいは、物語は、世界、歴史を変えることのできる力さえ持っていると言えます。真実と異なる物語が作られ、それが歴史的事実となってしまうことさえある、恐ろしいものです。「ペンは剣よりも強し」という使い慣れた言葉がありますが、そうした怖さを思い知らされることすらあります。

世界は物語からできている。

この命題は、おそらくは、文学や小説を形作る一つの根本的な物語あるいは詩への信頼なんだと思います。
先日、少し触れた「言葉の箱」に書かれていたのも、この信頼だったと思います。

ちなみにこちらが私が持っている「小説への序章」。この本ばかりは難儀でしたが、繰り返し読んで少しは分かり始めたのかも、と思います。
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最近、なかなか書く時間がないのは仕事お時間もさることながら、少しばかりの大仕事があったため。そろそろまた元のペースに戻していこうと思っています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。