辻邦生ミニ展示をもう一度。

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昨日、何とか予定を立てて、もう一度辻邦生ミニ展示を観に、目白の学習院大学史料館へ。前回は23日の講演会のなかだったのでずいぶん混み合っていたのですが、昨日はゆっくり見ることができました。

今回も「春の戴冠」のメモをずいぶんと眺めいりました。メモを取るのも忘れてしまった感じ。ただ、自己を棄てるということに美がある、といったことが書いてあったような気がします。誤解される表現かもしれませんが、生死を超越したその先にある価値のようなのかも、と思います。

今日も「春の戴冠」の最後の部分を読んでみたのですが、謎は深まるばかりです。

もっともそういう感覚が、最近よくわかるようななってきたので、少しずつ辻文学が理解できるようになりつつあるのかも、と思ったりしています。

文学は人生論ではありませんが、辻文学は語られる哲学であるはずで、おそらくは哲学の主題は人生である以上、辻文学を読んで自らの人生を考えるということも許されるのではないか、と思いました。

今日は取り急ぎ。おやすみなさい。グーテナハトです。

辻邦生の日本的な側面によせて


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昨日、「浮舟」について書きましたので、それに関連したことを。

私は、某大学の国文科を受けました。一次試験は通りまして、面接を受けたのですが、まあそこで落とされましてた。面接に際して、試験官に「大学に入ったら、辻邦生の研究をしたい」といったところ、試験官に「最近は、日本のものを書いているようですね」言われたのです。確かに、当時、ちょうど「西行花伝」が連載中でした。ですが、わたしはまだ「西行花伝」に到達しておらず、「そうですね、『嵯峨野明月記』とか、『江戸切絵図貼交屏風』とかですね」と答えたはずで、それが理由かどうかはしりませんが、二次試験で落とされたというわけでした。

まあ、辻邦生の研究室をしたいのなら、フランス文学か哲学をとったほうが良いと思いますし、実際通った哲学科で触れた西欧的な教養や西田哲学のほうが辻文学の理解の助けになっていると思います。

そういうわけで、国文学には縁がなかった?ので、おそらくは「西行花伝」は難しい部分があるのです。あの幽玄な和歌の世界は、さすがに私のリテラシにはないもので、ほんとうに理解できているのか、と思うことがあります。「西行花伝」に現れる西田哲学的な要素は理解ができるのですが。まあ、確かに、古文は苦手科目でした(文法の暗記ばかりだったのと、先生と馬が合わなかったから?)。だから国文科の試験に落ちたとも言えます。

辻文学のすごいところは、西欧的な要素に加えて、日本的要素が多分にあるところだと思います。「嵯峨野明月記」に現れる豊かな語彙は、おそらくは、「背教者ユリアヌス」や「春の戴冠」とは異なる古文的な語彙群で形成されています。また「風越峠にて」のなかに現れる万葉集の解釈は本当に素晴らしく、古文の教科書を超えた小説家の想像力が花開いたものだ、と高校生ながらに感動したものです。

数ヶ月前から「西行花伝」を、もう一度読もうとしながら、なかなか進むことができないのは、時間が取れないということもありつつ、わたしのリテラシの問題も、あるのかもと思うのですが、私も齢を重ねましたので、そろそろ国文学の機微がわかるようになり始めているかもしれず、あきらめずに読まないと、と思います。

そういえば、辻邦生のエッセイの中に、日本の古文書を読むのに苦労する、といったこととが書いてあった記憶がよみがえりました。活字化されているのは問題ないが、草書の古文書は難しい、といった内容だったでしょうか。

今日もいろいろと書きましたが、やはり、読む方も頑張らないと、と思いを新たにいたしました。

今日は辻邦生のご命日「園生忌」でした。

辻邦生のご命日である7月29日が今年も参りました。

あれから17年ですか。毎年どんどん遠くへ来ているような気がします。

17年前の新聞の切り抜きも、随分と古くなりました。

写真 1 - 2016-07-29

今日は学習院では「遠い園生」の朗読会があったようです。平日ですので、さすがに今日は参れませんでした。

今年の学習院大学史料館の展示で、嵯峨本の「うきふね」が展示されていました。嵯峨本は、もちろん「嵯峨野明月記」に登場しますし、「浮舟(うきふね)」は、もちろん「西行花伝」の次に描かれる予定だった小説で、源実朝が主人公の小説です。

この辺り、詳しくは辻佐保子さんの「辻邦生のために」に経緯が書かれていますし、「微光の道」冒頭の「地の霊 土地の霊」にも記載があります。特に「辻邦生のために」に書かれたドキュメンタリーのような内容は、手に汗を握るものです。先ほど改めて読み直してみて、何か気が遠くなる思いでした。

もし「浮舟」が書かれたら、ということを、先日の展示を見ながら思っていました。

17年も経ちましたが、きっと永遠になっているのだと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。

原型は永遠に繰り返す。

「春の戴冠」のひとつのモチーフが「永遠の桜草」でした。桜草という美の「原型」をどうやって永遠に保持するのかという問題と理解しています。あるいは、それは、イデアールな美のようなもの、美そのもののようなもの、絶対的な美のような超越的な観念があって、それが、例えば桜草において分有されていて、という文脈で捉えています。私のいささか単純な理解なのかもしれません。
そうした、イデアールな何かを目指すことが神的なものへと繋がる道で、「暗い窖」という言葉で示されるような虚無への墜落に対抗するものだ、ということだと思っています。

先日、この「春の戴冠」の終局の場面を読んでいた時に、この「原型」という言葉が、逆の意味で使われている、ということに気づき、背筋が凍る思いでした、それは、やはりサヴォナローラの騒ぎが起こったのちに、サンドロが語る言葉の中にあります。

原型の繰返しじゃないだろうか。いかにも次々と出来事が起り、その都度 、びっくりするようなことばかりだけれど、もっとよく考えると、ただ同じ原型が、別の意匠をまとって現われるにすぎないんだ。ぼくらはそうした幾つかの出来事の原型を持っていて、それがぐるぐる廻転して現われるのを見ているんだ。

まるで、桜草が、イデアールな美を分有しているように、サヴォナローラをめぐる騒ぎも、やはり「原型」の繰り返しの一つに過ぎないということ。つまり、結局は、同じことが繰り返されるということ。逆に言えば、何も変わらないということ。先日も書いたように、「嵯峨野明月記」で、本阿弥光悦が加賀に赴いて、冬の日本海の波濤を見て、世の中の動きというものはこの波のように繰り返し繰り返し打ち付けるものだ、と悟るシーンがあったと記憶しています。あの諦念と同じものを感じます。

また何か薄暗い諦念のようなものになってしまいますが、様々な歴史は繰り返さざるをえないのだ、ということなのでしょうか。良いものも悪いものも。

歴史は終わったということを感じることがあります。ここでいう「歴史」というのは、ヘーゲル的な、進歩する歴史なわけですが、そうした進歩する歴史が終わるということは、過去への回帰が生じるということなのでしょうか。願わくば螺旋系に上昇する歴史であってほしい、と思います。
今週に入って風邪をひいてしまいました。東京は、この一週間急に寒くなりましたので。ですが、今日、梅雨があけ、夏が戻ってきました。やっと東京も夏ですが、うまく乗り切りたいです。
それではみなさま、おやすみなさい。

辻邦生「春の戴冠」での諦念のようなもの

昨日の続きです。

フィレンツェでサヴォナローラが影響力を持ったあとのこと。焚書坑儒のような<虚飾の焼き棄て>で多くの文物が焼かれるような出来事があったのですが、それは、まるで文化大革命の紅衛兵のように若者達主導で行われる設定になっています。少年巡邏隊という組織が、<虚飾の焼き棄て>で焼き棄てるものを集めて回るわけです。

フェデリゴの娘アンナも少年巡邏隊の一員でしたし、最後まで、サヴォナローラのもとに身を寄せて、行動を共にするのですが、サヴォナローラ失脚後、反サヴォナローラ派のサヴォナローラ派弾圧に際して、アンナを弁護しようと、フェデリゴが考えている言葉が以下の言葉です。

この世に人間がいるかぎり、決して実現できないとわかっている正義や愛や単純さを、この子はただただ純粋に受けとり、地上に実現できると信じたのです。この子の気持には一点の疚しいところもありません。この子は忍耐したり、やり過したり、一時的に他のもので代用したりする世間の知恵を知りませんでした。この子は理想に遠まわりをさせることに我慢できず、遮二無二それを地上に実現しようと無理をしたのです。皆さん、この子がそうなったのはまだ子供だったからです。名目だけが通って、実体がしばしば姿を消している人間の世界のことを、あの子はまだ十分知らなかったのです。この子は心の素直な子です。こんな素直な、親思いの、生真面目な子も稀です。この子が悪いのなら、皆さん、人類全体が悪いことになりはしませんか。

辻邦生「春の戴冠」
まあ、若い人というのは、こうした理想に燃えるのが普通です。私もやはりそうした思いを感じていた時期もなくはないので、気持ちはよくわかります。最近世界で起きている様々な出来事も、きっとこうした若さのなせることと関係がなくはないのだと思います。もちろん、世界の歴史、日本の歴史で起こった様々なことも同じです。

私が、こうした若さゆえの理想の諦念を悟ったのは、やはり辻文学からの示唆で、何度か書いているかもしれませんが、「嵯峨野明月記」のなかにあった、俵屋宗達の哄笑のくだりと、本阿弥光悦が権力のうねりを北陸の海岸の波濤に思いを寄せているシーン、の二つから体得したように思います。

そうした大人の知恵は、物事をうまく回すためには必要なことです。ですが、そうした大人の知恵は、無罪とされたサヴォナローラを権力の算術で死に追いやったのではないか。

私は、この暗い諦念のようなものを思うと、辻佐保子さんが書かれた以下の文章思い出してしまうのです。「辻邦生のために」にかかれた、軽井沢の山荘での辻邦生の様子です。

夕方は、すっかり日が暮れるまで、黙ったまま食堂の椅子に西の窓に面して座り、深い瞑想にふけっているようだった。私はその様子を見ていて、どうしても声をかける気持になれなかった。

辻佐保子「辻邦生のために」

生きるための世間の知恵は偉大です。ですが、それだけでは何も変わらず、変わりえない。それでいいのですが、それは寂しくあるいは辛いものだ、ということ。

これは、私の勝手な解釈で、あるいはこれはもはや小説的なフィクションになってしまっているのかもしれませんが、辻邦生の最晩年、山荘の窓から浅間山を眺めながら思っていたことはこういう諦念ではなかったか、と考えてしまうのです。実際のことは私にはわかりませんが、私の中の現時点での辻文学はそうなってしまっています。

この先は明日。

「暗い春」という題名候補

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先日の展示会では、「春の戴冠」のタイトル案が書かれたメモが目にとまりました。ここには、幾つかのタイトル案がかかれていました。私の記憶違いでなければ「暗い春」という題名候補が書いてあったように思います。

「偽ボッティチェルリ伝」が題名候補だったということは記憶にありましたが、「暗い春」という題名が候補だったということは記憶にありませんでした。もしかするとどこかに記載があるのかもしれません。
確かに、春の戴冠は、最後にはサボナラーラの、暗い事件で幕を閉じます。焚書坑儒のように、文物が焼かれるシーンも出てきます。どこかで読んだのですが、こうした記述には文化大革命の影響もあったのではないか、とされているはずです。現在も世界が苦しむ原理主義とポピュリズムの問題を考えずにはいられません。
その後のフィレンツェについては、塩野七生の「わが友マキアヴェッリ」を読んでしまうとそのままなのですが、徐々に成熟した街へと変貌していくイメージです。トスカナ大公国として、都市国家から大陸国家へと変貌するのも、なにかヴェネツィアと似ています。
やはり、「ヴィーナスの統治」と「ヴィーナスの誕生」のシーンが、絶頂です。ですが、その後の暗さというものは、まさに「美と滅びの感覚」の「滅び」の部分を強く感じます。だから「暗い春」となるのでしょうか。ただ、そうすると、おそらくはタイトル的に暗すぎるわけで、絶頂の部分を指す「春の戴冠」という、タイトルになったというわけなのか、と思いを巡らせました。
この「春」という言葉は、ボッティチェリ作品を指すと同時に、 フィレンツェの街自体を示しているのでしょう。23日講演会「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」で小佐野重利先生がおっしゃっていたように、フィレンツェという街の名前の語源の中には、花=フローラという意味が含まれていますので。
ただ、春の次には、夏が来て、秋が来て、冬が来ます。それは、全てにおいて。そうした諦念が、滲み出ているのだ、という思いでした。

本日の一枚。それもやはり、過ぎ行く春の美しさに満ちた曲。元帥夫人の諦念は、まさに、美と滅びの感覚です。老いを自覚し恋人を諦めるというもの。バーンスタインの演奏は濃密。初めて聴きましたが、あまりに濃密。


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辻邦生ミニ展示「春の戴冠・嵯峨野明月記」展と講演会「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」に行ってまいりました。

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辻邦生ミニ展示「春の戴冠・嵯峨野明月記」展と、講演会「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」に行ってまいりました。

またいろいろと考えることが出てきてしまいました。

14時からの講演会の前に展示を見ようと思いましたが、予想通りたくさんの方が来場しておられましたので、昨年のようにじっくりとみることができませんでしたが、それでも、いくつもの発見がありました。

辻邦生のきめ細かい字の日記やノート、自筆原稿をみると、神々しさのようなものもかんじますが、それと同時に、もし辻邦生が今の時代を生きていたら、ITを使いこなして小説を書いていたのでは、などと想像しました。自動車で軽井沢までどれぐらい早く行けるか競争したり、新しいタイプライターにとても興味を示していたり、カメラで丹念に教会建築を撮影したり、というエピソードを読んだことがあり、多分、パソコンやスマホなどを使いこなしていたのでは、となどと想像してしまいました。

講演会も、「春の戴冠」についての解説や、ボッティチェリの日本における受容状況、メディチ家に関する史的事実の解説など、「春の戴冠」を読む方にとっては貴重な内容だったと思います。

今日は、このあたりで。明日ももう少し書こうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。

《短信》毎日新聞に春の戴冠・嵯峨野明月記展の記事が。

Googleアラートに仕掛けておいた辻邦生ニュース検索が発動し、今日、以下の記事を察知しました。というか、3日遅れです。

Topics:春の戴冠・嵯峨野明月記展 辻邦生、美的感性を解明 – 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160716/ddm/014/040/026000c

やはり、根強い愛好家層がいるということなのでしょうか。こうして記事になるというのも素晴らしいことだと思います。記事内には、11月にはパリ日本文化会館で初の海外展覧会が開催、との情報もありました。これはさすがに行けないか。。

今週末の講演会前後の展示会場は混み合いそうです。昨年のようにゆっくり見られないかも。

今日は取り急ぎ。おやすみなさい。

 

学習院大学史料館よりお知らせのお葉書をいただきました。

昨日、学習院大学史料館より、こちらをいただきました。写真 1 - 2016-07-05

美しいお葉書です。

それにしても、辻邦生の世界は夢のようです。夢すぎて覚めるのが辛いです。そんな世界です。また夢を見たくなります。

日伊国交樹立150周年記念 園生忌 辻邦生ミニ展示「春の戴冠・嵯峨野明月記」展

春の戴冠と嵯峨野明月記のミニ展示と、7月23日に「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」という講演があります。また、7月29日には「遠い園生」の朗読会があるそうです。

7月15日(金)~8月12日(金)までの開催で、月~土 10:00~17:00が開室時間とのことです。7月31日は日曜日ですが特別開室とのことです。

詳しくはリンク先をご覧ください。

とりいそぎ、おやすみなさい。

辻邦生 新潮文庫2冊がKindle化


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6月17日発売のようですが、辻邦生作品が収められた新潮文庫2冊がKindleで発売されるようです。いずれももちろん絶版でしたので、よかったなあ、と思います。

「天草の雅歌」は、おそらく3回ほど読んだはずです。鮮やかな展開や、鎖国寸前の日本のグローバリズムのようなものを感じたりしました。それから「北の岬」も名作で、かつて稚内に出かけてなんとなく風情を感じたりしたのを思い出しました。

辻邦生関連でいうと、ニュースがいくつかあります。少し気分が盛り上がります。

今日は取り急ぎ。おやすみなさい。