Tsuji Kunio

「黄金の時刻の滴り」を開きました。中条省平さんが、辻邦生の文学表現の白眉として取りあげていた文章を読みたくなったからでした。それにしても単行本は美しい装丁で、タイトルの文字は光が反射して虹色に光ります。

それは、「花々の流れる河」というヴァージニア・ウルフをモティーフにした小説の一節で、花屋の温室に花がその匂いとともに咲き乱れている感覚が絢爛に描かれている部分でした。たしかにその部分は凄いのですが、読み進むに連れて、それ以上に衝撃を受ける部分に行き当たり、どうにも涙が止まらず、以来なにか悲しみに打ちひしがれている気がします。

まず以下の部分。

「本当ね。この夏、私は、あなたと一緒に何度か至福を味わったわ。それは、無意味な人生のなかに懸る虹なのね。すぐ消えるとしても、とにかく美しいことは事実だわ」

「奥さま、私は、虹は消えないと思います」

「消えない?」

「ええ、消えません。それは美しい至福の時として心に生きつづけます」

「無意味のなかに沈み込まないで?」

「沈み込むことはないと思います。この夏奥様と味わったあの歓喜は、いまも胸のなかに生きつづけると思います。どんなに無意味な人生がつづいても、この嬉しさは壊せません。たぶん嬉しさのほうが地球より大きい球になって、地球を包み込むのだと思います。地球が滅びても、喜びの大きな球は滅びないんです」

歓喜が、無意味とされる人生の中にあっても、消えずに残る。それは地球を包み込むものだ、という感覚。これは、実によく分かる感覚で、かつてからどうやら幸福感というものを息継ぎのようにして生きていた感覚もあり、その瞬間瞬間の幸福感があることが重要である、と考えたこともあり、そうだとすると、この「消えない虹」があること自体を頼りに生きている感覚はリアリティのあるものです。

あるいは、この嬉しさが地球を包み込むという感覚も、なにか地球を象徴とする世界全体を、嬉しさという感覚に満たされたと言うものであり、それもあながち間違っていないと信じたいイメージなのだろう、と思います。

さらにこちら。

「ええ、死の淵に引きずりこまれるとき、仕方なく諦めて、中途半端な気持でいるのはいやね。私は、死を前に置き、生きることを完成させて、きっぱり決心して、満足して、そこに飛び込んでゆきたいわ」

「だが、死は不意にくるぜ」

「だから、いつも用意していたいのよ。そのときそのときで死に不意を衝かれないように」

そうでした。あの方は現実という変転する時間の流れのなかで確かなもの、不動のものを求めていました。それが時の変転を超えて現われることは、私たちは、ともにコーンウォールの海岸の朝に深く経験していたのです。あの方はこの不変の美の喜びのなかに生き、それを作品に描こうと努めていたのでした。そしてそれが作品のなかでしか確実にできないことはあの方の悲劇といってよかったかもしれません。生きることは、変転する流れに身を委せることであり、なかなかそれを超えて不変の実在に達することができなかったのです。もし流動する現実の時を、不変堅固な実在とするには、人は、一瞬一瞬死ぬほかないのです。つまり一瞬一瞬、現実を不変の実在へ──喜びに満されたそれ自体で完成した時へ、変容する以外に方法はありません。

 

思い出すのはル・コントの「髪結いの亭主」で、幸福とされる状況で命を絶つ主人公が画かれていて、あの感覚を大学時代にありながらよく分かっていた記憶があり、「先にアイディアをとられた」と、悔しかったのを憶えています。

結局、いかに死ぬかということが重大で、一瞬一瞬を死に、一瞬一瞬において生きるということを求められて折り、生きることは厳然とした義務と権利であり、我々が全うする必要があり、また世界から負ったものであることは間違いのないことで、その中で「嬉しさの虹」を見いだし、息継ぎをするように生きるということに他ならないわけですね。業のように辛いことではありますが。

なんてことを思いながら今日一日過ごしました。

今日の東京地方は曇り。さえない一日でしたが、来週は晴れるようですね。佳き日々になることを願いつつ。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tohmas Mann,Tsuji Kunio

 辻邦生が小説を書くにあたって参考にしていた本はなにか、という問いに対して、奥様の辻佐保子さんはトーマス・マンの「ファウストゥス博士の成立」を挙げておられました。これは、1994年の辻佐保子さんの講演会で直接肉声をもって私が聴いたことでした。早速この「ファウストゥス博士の成立」を購入したのを記憶しています。確か池袋の今はなきリブロにて。定価で買いましたので今確認すると4,500円もしていたようです。

 その後、ずっと書棚に収まっていてなかなか読む機会もなく、という状態でしたが、今週から少しずつ読み解きを始めました。

 マンが「ファウストゥス博士」を書き始めたのはアメリカ亡命中の1943年ですが、その当時の日記を引用しながら、「ファウストゥス博士」執筆にいたる状況をドキュメンタリーのように淡々と振り返るルポルタージュと感じます。ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線の状況が、ロンメル、モンゴメリ将軍といった聞き知った人物名や、ソロモン海戦という地名とともに書き記されつつ、アメリカ国内のパーティの様子や、孫との団らんといった、戦時下とは思えない状況も書かれていて、その現実世界における戦争と平時のアンバランスを感じつつ、さらに、「ファウストゥス博士」のなかにおいても、現実と虚構がいり混ざる感じが、臨場感とともに書かれていて、これはこれで一つの文学である、と感じました。

この作品に付きまわっている独特な現実性の特色を示すことなのである。その独特な現実性というのは、一面からみれば技巧なのであって、レーヴァーキューンなる人物の作曲や伝記という虚構を、厳密に、煩瑣にわたるほどに、現実化するための遊戯的な努力のことであるが……

小説の人物と現存の人間とが現実性においても非現実性においてももはや区別がつかないようにしてしまう

それが現実のものらしく思われて、耳に聞え、本当のものと信じられる

引用したこれらの文章は、虚構を現実として見せることがこの作品の特性である、と見ています。

 これは、本当に辻邦生が小説を書く姿勢そのものだな、と思います。辻文学は理想すぎる、ということが言われますが、理想という虚構を厳密に、煩瑣にわたるほどに、現実化していて、逆に、現実を理想のために、虚構のなかで現実化することもあるはずです。昨日書いたフィレンツェのホテルも、看板の出方が異なっていたり、駅から少し離れていたりと、現実のレオナルド・ダ・ビンチホテルとは異なっているのですが、もしかすると、辻邦生の文学的「現実」においては、それが「現実」であったということなのだ、と思います。

 出典は差し控えますが、辻邦生は、小説で描かれた名勝に小説の読者が実際に行ってみる、という行為を否定的に捉えていたことを思い出しました。小説に描かれた名勝は、小説の中における名勝であって、現実の名勝とは全く断絶しているわけです。

 おそらく、一般的には現実と小説の中の「現実」(文学的「現実」)は同じであるべきで、そうでなければ、批判される向きがあるのかもしれませんが、それは区別して考えるべきでしょう。

 それにしても、この「ファウストゥス博士の成立」に登場する人物達は、有名人ばかりです。アドルノ、ブルノ・ワルター、アルトゥール・ルビンシュタイン、ストラヴィンスキー、ホルクハイマー、フランツ・ヴェルフェル・リトヴィノフ、パウル・ベッカー……。

 華麗な社交ととるか、亡命者たちのグループとみるか……。いずれにせよ、多くの才能がアメリカに集まっていたと言うことなんでしょうね。ちなみに、リトヴィノフは、ソ連大使ですので少し違いますが。

 読んでいるうちに、辻邦生が書いた文章ではないか、と思ってきたりしてしまいますが、この「ファウストゥス博士の成立」を読んで、辻文学の秘密をもう少し読み解いてみようと思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

ぐずついた天気が続きます。一ヶ月前、あんなに晴天に恵まれていたというのに、なんだか別の星に来てしまったようです。
休憩中にTwitterをのぞいてみると、辻邦生のホテル評をまとめたページに行き当たりました。

https://yangsen65-highstreet.com/%e4%bd%9c%e5%ae%b6%e3%81%a8%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab/?fbclid=IwAR1N4_0XsN2zN0wj-_QiPPr1YEq17fFHaVDW3fofM2RI39tzEF0Kb22eR2E#%E8%BE%BB%20%E9%82%A6%E7%94%9F

辻邦生とホテルというとこんな思い出があります。

 

辻先生がイタリアを旅する旅行記である「美しい夏の行方」で、フィレンツェのホテルの話が出てきます。「レオナルド・ダ・ヴィンチホテル」に泊まろうとした辻先生は、その風情に大変失望したようでした。

細長い切り抜き文字の看板が縦に「LEONARDO DA VINCI HOTEL」と出ていた。しかし隣の建物の正面がそれよりもすこし前に迫り出しているため、車がそばに近づくまでは見えなかった。(中略)ぼくはこの正面の印象だけで、いやな予感がした。金属パイプの手すりのついたコンクリートの階段にしても、なんだかあまり実用一点張りで、場末の水族館の入口とか、さいはての空港建物の屋上への登り口とかを連想させる。(中略)夜食事まで部屋に休んでいると、時々スピーカーでアナウンスの声がする。そして汽車が通ってゆくらしく、建物がぐらぐら揺れる。僕は思わず椅子から飛び上がって、二重窓を開けて覗いてみると、そこは駅なのであった。

私は、かなり前にフィレンツェに行ったことがあります。夕方、遅い時間にフィレンツェ空港に到着し、中央駅へとバスで向かいました。駅に着こうとするときに、窓からHOTEL LEONARDO DA VINCIが見えたのでした。私は、この「美しい夏の行方」の挿話を覚えていましたので、とっさにバスから写真を撮ったのです。

Google Mapで確認すると、確かに、このホテルは駅のそばです。

https://g.page/hotel-leonardo-da-vinci-firenze?share

 

私の記憶通りでした。

辻先生の記述と、看板では、HOTELの位置が違いますが、ここが辻先生が泊まったHOTEL LEONARDO DA VINCI なのでしょうか。おそらくは立て替えられたりして印象は違うのかもしれませんが、確かに、駅から遠くはなく、レオナルド・ダ・ビンチの名前を関したホテルということですので、関連がある可能性がたかいのだろうな、と思いました。

ただ地図をみると、線路からは少しだけ離れていて、「二重窓を開けてのぞいてみるとそこは駅なのであった」という表現はあてはまるのかどうかはわかりません。

まあ、ここは、もしかすると、イマージュのなかで、辻先生が作り上げた「現実」なのかもしれない、などと思いました。必ずしも、文学作品は、我々が普通に見聞きする現実に忠実である必要はなく、文学作品の中に立ち現れる「現実」においてリアリティがあればよいわけです。「美しい夏の行方」と、私が実際に見て写真をとったHOTEL LEONARDO DA VINCIは一致する必要せいもなく、あるいは辻先生が実際に泊まったLEONARDO DA VINCI HOTELと、「美しい夏の行方」に描かれるLEONARDO DA VINCI HOTELは同じものである必要もないわけです。

文学における「現実」というのは我々が思う現実とは違うものなのだ、ということを考えさせられる、私のフィレンツェの思い出、でした。

というわけで、久々に辻先生のことを書くことができてほっとした感があります。

どうも「現実」ということを考えないといけない時期に来たようです。

ということで、みなさまどうかよい夜を。時季外れというべきか、梅雨前線による大雨が心配されています。どうかお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Miscellaneous,Tsuji Kunio

数日前から、咲き乱れるコブシが目につくようになりました。散り始めてはいますが、美しさはこの上ないものがあります。

月日が経つのは早く、そろそろ春分にさしかかろうとしています。個人的には、夏が待ち遠しく、春分過ぎると、あと3ヶ月で夏です。本当に待ち遠しいです。季節の巡りは無限のようでいて実は有限であることにも気づかされます。

さて、それにしても、書くことの難しさを感じるこのごろ。

日記やら何やらは書いていますが、在宅勤務になり通勤の時間がなくなった分、ものを考えたり、何か書いたりする時間が少なくなってしまった、ということなんだと思います。

ピアニストがピアノを弾くように書く、というのが辻邦生の言葉ですが、守るのはなかなかに難しいですね。

また、ウェブログというメディア自体がもはや時代遅れという感覚もあります。ウェブログが始まったのはもう20年も昔のことです。ウェブログがブログに変わり、誰もがニュース発信者になれるという強烈なメッセージを感じたのは遠い昔のことです。

今では、TwitterやfacebookあるいはnoteやYoutubeが情報発信のプラットフォームになり、最近ではClubhouseなども登場してはいますが、なにか、どれも囲い込まれたメディアと思えて違和感を感じていまして、おそらくウェブログはずっとキープしていきたいと思っています。私も考えが20世紀的なのではないか、と自己反省をしなくもありません。最近の表現は文章ではなく映像なのでしょうし。文章を書くと言うことへの懐疑を持っているのも事実です。書く、と言う行為にどういう意味があるのか。今や、写真や動画と言ったビジュアルに表現のメインストリームを名実ともに奪われ、書くという行為はレガシーとなっているのではないか。表現の手法として適切なのか。ボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったということを捉えたときに、文章の意義が何か、と言うことを本当に考えてしまします。おそらくは大きな転換点の時代にあり、あるいはそのスピードが想像を超えて加速している時代にあって、古びた形式に固執しているのではないか、という疑いをも持つ訳です。

料理研究家の辻静雄と辻邦生・佐保子夫妻が行った対談に、以下のような一節があることを思い出しました。

辻佐保子
あなたはいつも、食べ物産業とお話産業はどんなに不景気になってもなくならない、ってよく言ってましたでしょう。両辻先生に通じますね。

辻静雄
あ、それはいい話だ。

辻邦生
人間を喜ばす仕事は、人間が存在する以上は絶対に滅びない。

辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』

「人を喜ばす仕事」のうち、食べ物産業がコロナ大きな打撃をうけて業態の変化を求められているように、お話産業も業態の変化を迫られているのでしょうか。

あるいは、そのヒントは引用した一節の少し前に辻邦生が語る言葉に表れているのでしょうか。

本当に生きる歓びというものが、精神の隅々、肉体の隅々に滲みわたり、そして書く一行一行がそういうものに溢れていたら。人間はそれを手離すはずがない、というのが僕の信念なんですけれどね。

辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』

書くと言うことが、生きる歓びに満たされていて、人間を喜ばすということ。それは書く人にとっても、読む人にとっても。そうでありさえすれば、メディアの相違は本質的な問題ではないのでしょうか。

この辻静雄著作集ですが、亡くなった大学の後輩にいただいたものであることも、今日こうしてこの文章を書いたことにも関係あるのでしょうか。

媒体にかかわらず、溢れる生きる歓びを表現するということのほうが重要なのかもしれず、写真であろうが動画であろうが文章であろうが、伝えるべきものを伝えると言うことなのでしょう。そこにはアクセス数といった定量化される指標は似合わない気がします。マーケティングは重要ですが、本質があったのちのマーケティングであり、どうも世界をおかしくしているのは、見栄え見てくれ見せ方でいかようにもなってしまい、本質や真実が二の次になっていることではないか、と思います。見栄え見てくれ見せ方で工夫したとして、その先続くかどうか。

高野山のふすま絵を描いた千住博さんがこんなことを言っていました。

「他人はだませても、自分はだませない。当然お大師さまをだますことは出来ない」

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/L3N589QPLL/

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

ずいぶん長い間書けなかったな、と思いました。1月19日に書いて、それから二週間あまり。

ふと手に取った辻邦生の「地中海幻想の旅から」に納められたロシアへの旅の文章に引き込まれてしまいました。

私がこの長い長い汽車旅を選んでよかったと思ったのは、翌日の早朝、私が目を覚まし、何気なく枕もとのカーテンをあけたときであった。窓の向うには、初秋のロシアの白樺の森が果てしなく続いているのであった。私は思わず息をのみ、冷たい朝霧のなかに、輝くような白い幹を連ねる美しい森に見入ったのだった。

目に浮かびますね。白樺の森がどこまでもどこまでも続いている感じ。それは、我々日本人にとって、白樺の森という非日常がそこにまずあり、その非日常がどこまでもどこまでも無限に続いているという信じられない感覚で、それは自らの現世での経験の矮小さと、世界の認識しきれぬ無限にも近い広大さをまざまざと感じさせるもの、と思います。

それでもなお、白樺の森は有限にある、という事実。

 

世界はどこまでも美しく広漠です。

 

立春がすぎて、春が待ち遠しい今日この頃。東京地方は春一番がもう吹いてしまったとか。とはいえ、まだ寒い日はしばらく続きそうです。どうかみなさまご自愛ください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tsuji Kunio

そうそう、初日の出、で思い出しました。日の出のひかりを曙光とも言います。この言葉を先日「日本国語大辞典」で調べました。すると、例文に辻邦生の「北の岬」が登場していたのでした。

この引用は、修道女マリー・テレーズがが最終場面で語る言葉です。

それはいま、何かある光のような者を感じているからなんです。それは光というより、光の予感のようなもの、夜明け前の曙光の先ぶれのようなもの、と言った方がいいかもしれません。そうなんです。それはさっき、あなたが私にふれて下さったとき、私のなかに訪れてきたものでした。私はあの瞬間生まれてはじめて味わうような、精神の高みへ──目のくらむような高みへ、運び去られたのを感じました。その瞬間に、私は、あたなへの愛をこえた愛を、その光をもたらす至高な存在への愛を、はっきりと感じることが出来たのです。(中略)その光の下では、私たちの生の永遠が信じられる、そうした至純の頂きでした。そうなんです、私は、真に永生の光を感じたように思います

北の岬 辻邦生全短編1 346ページ

それから続くマリー・テレーズの独白は、この光に触れる至福を語り、この光とはすべての人々に分け与えられている、と言います。そして、だからこそ、誰かが持ちこたえて、「誰かが貧窮や悲惨のなかにいって、人間の魂の豊かさが、眼に見えるものや、物質だけで支えられているのではないことを証ししなければならないんです」とマリー・テレーズは語るわけです。(同 347ページ)

決して、魂の豊かさは、経済的、物質的な要素だけで成立するわけではありません。あるいは、この無私の愛ともいえる境地、誰にも理解されず、時に狂気とも思われるような無私の奉仕が人間の証のためには必要なのであり、が故に人間が救われるのだ、という境地……。

辻邦生がパルテノン神殿を見て考えたこともやはりそうだったのではないでしょうか。不毛な岩山に、燦然と築かれたパルテノン神殿は、人間のを支える魂の豊かさを象徴するものであり、不毛な土地であったとしても、魂の豊かさ、精神の高貴さが最初にあれば、パルテノンの美が成立し、それが人間を支えるものとなる、と辻邦生は考えたと思うのです。

まず最初にあるべき姿を求めると自然とそれが成立するという、昨日も書いた因果の共時性のようなものをここにも感じるのでした。

というわけで今日も遅くなりました。今日から仕事始めの方も多いと思います。コロナの新規感染者数の急増で緊急事態宣言が、という状況もあり、気が抜けない毎日が続きますが、収束を信じ願いたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous,Tsuji Kunio

あけましておめでとうございます。

昨日、ゆくとしくるとしを書いたかと思ったら、それから半日もたたないうちに、謹賀新年となりまして、面はゆさもありますが、一つの区切りとして年が明けました。
年頭にあたり、尊敬する辻邦生の一節より。

人間にとって言葉は生命であること、その事実は、言葉が単なる伝達の手段だと思い込み、言葉の不正確さに悩んでいた私に大きな衝撃を与えた。眼から鱗が落ちるような気持ちだった。在るものを言葉で言うのではなく、言葉によって存在をつくるのだということが、ある震撼をともなって、自覚できたのである。

「海峡の霧」304ページ

昨年の年末に駆け込みで読んだ辻邦生作品の一節。昨年は言葉というものの力を学びました。
なかなか書く時間もありませんでしたが、書くことも読むことも大切なことですので、長期戦で取り組もうと思います。どうやらまだまだ人生は続くようです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

Tsuji Kunio

辻邦生の「嵯峨野明月記」、これまで何度読んだかわかりませんが、また読み始めています。とはいえ、なかなか時間がとれないということもあり、今回はKindleの読み上げで聴いています。これまでにない読書体験ですが、洗濯や掃除をしながら聴けるというのはありがたいことです。

それで今日気がついたことがあります。

一の声、つまり光悦の独白の部分において、戦乱の京都に織田信長が上洛を果たした後の場面。長い戦乱で焼け野原となった京都に信長軍が駐屯しますが、それはそれで意外に京都に秩序と平穏をもたらしたわけです。信長の軍勢が守護していた二条第を拝む老婆や女たちもいたというわけで、尾張の領主によって救われたと信じる者も居たのだ、という描写。信長の声望は日に日に高まります。一ヶ月前までは信長の残忍無道な戦い方を避難していたというのに、京都の民の、その心の移り変わりの早さ。そこには何らの一貫性もなく、ただただその場その場の心情で民意という者が作られる……。

これを読みながら(聴きながら)、ああ、これは、おそらくは辻先生が見た、昭和二十年の光景なんだろうなあ、と思いました。空襲で焦土と化した東京。一夜にして民主主義信奉へと変貌を遂げたマスコミ。それまでは鬼畜であったGHQは秩序をもたらしたとされ、マッカーサーは神格化されていき、最後にはマッカーサー大統領を待望する声が日本国内で湧き上がるという状況。

「こうした浮動する不実な世間に対する不信と、時の権勢に距離を置く態度とが根をおろし、容易なことでは拭いさることができなくなっていた」と一の声に語らせますが、それはそのまま、おそらくは戦後に感じた辻先生の思いと重なる部分があったのでしょう。その世間に対する不信をもって、おそらくは光悦や与一のように、現実と芸術をつなぐ道へ進むようになった、ということなんだろうなあ、と。そういうことを改めて思うわけです。

これは、「嵯峨野明月記」において通奏するテーマでしょう。揺れ動く時代を超えたなにかを求める道程が、生きる、と言うことにおいて必然なのではないか。そんなことを思います。

Tsuji Kunio

日本の貧しさがそのまま精神の貧しさに直結しているような思い──それは私を何度か焦燥と不安にかりたてたのも事実だった。それで最初に取り除かれたのは、十年前はじめてギリシアでパルテノンの神殿を観たときである(中略)それまでの私は、現実の貧しさが精神の貧しさに直結していると、ほとんど無意識に考えていた。それは逆に言えば、豊かな精神、豊かな芸術は、豊かな生活の結果にうまれると信じることに他ならなかった。なるほど古代ギリシア文化が地中海公益と植民地支配による富の一結果であることは事実であろう。にもかかwらずこの精神の豊かさに匹敵しうる生活の豊かさなど、ほとんど存在するとは思えなかった。そこには、なにか言いしれぬ隔絶があった。ギリシアの不毛の自然が象徴するごとき貧しい現実と、神殿が象徴するごとき豊かな精神との、きわめて明白な対立があった。つまり人間の精神は、貧しい現実をこえて、かくも豊かな内容をつくりあげたという、啓示的な事実が、そこに示されていた。

辻邦生「文学のなかの現実」辻邦生全集17巻、2005年、293ページ

最近、パルテノン体験に関する文章がどんどん目に入ってきているのですが、この文章が収められた「文学の中の現実」という文章を本日見つけました。これは1969年10月8日、9日の両日にわたって読売新聞に掲載された文章のようで、「海辺の墓地から」ならびに「辻邦生全集第17巻」に収められています。前回の「時の終わりへの旅」を遡りますが取り上げます。

ギリシアの貧しい過酷な状況にあっても、精神的高みにあれば、パルテノンを打ち立てることができるのである、という直感です。物質的な豊かさが精神的豊かさを生み出すのではなく、精神的豊かさが物質的豊かさを作り上げるのである、ということです。

確かに、物質的豊かさ=現実があってから初めて、精神的豊かさ=芸術がある、というのが一般的な考え方です。まずは、営利事業があって、その余裕でもって文化事業をなす、というのが社会の常識でしょう。だから、文学であっても音楽であっても、それらは社会を支える本質的なものではあり得ないとされているわけです。

しかし、どうもそれは逆ではないか、と問うているように思うのです。精神的豊かさと物質的豊かさは論理的な相関関係はありますが、そこには前後関係はなく、同時的論理関係があるということなのではないか、と思うわけです。

物質的豊かさと切り離して、なお精神的豊かさを持てるのが人間の強靱な魂であるということでしょうか。あまりにも厳しい状況にあっても、希望を捨ててはならない、ということで、これは「言葉の箱」においてフランクル「夜の霧」を念頭に語った内容が思い出されます。

言葉が現実の事実と同じように生命を支えていた。あるいは、現実のそういう力委譲に言葉が生命を支えていた。だから、言葉はまったく無力ではない。むしろ言葉があって初めて現実そのものを変えることができるという認識が、しだいに自分のなかに生まれてきたということも、ひとつ大きくつけ加えなければいけません。

辻邦生「言葉の箱」メタローグ、2000年、30ページ

言葉=精神的豊かさが現実を変えることができるという信念は、パルテノン体験によって得られた直感だっと思います。がゆえに、精神的豊かさもやはり物質的豊かさと同じように大切なのでしょう。フランスやドイツなどが文化を大切にする理由がわかるような気がします。文化を大切にすると後から経済的豊かさがついてくる、ということをわかっているのでしょう。(私はあまり好きではありませんが)ゴールを設定して仕事を進める流行の仕事方法と同じではないか、とも思うのです。

Tsuji Kunio

今回も発見ネタで恐縮です。

数ヶ月前に、書棚を整理していたところ、茶封筒を発見。中を見てみると、こんなものが。「北の岬」のパンフレットでした。

入手の経緯は、おそらくはヤフオクで落とした記憶が微かに。貴重なものなのでしょうか。どうすべきか困っています。学習院に寄贈した方がいいのでしょうか…。しばらくお預かりしておきます。

今日も短く。みなさま、良い週末をお迎えください。おやすみなさい。グーテナハトです。