Piano,Wolfgang Amadeus Mozart

最近、ピアノを聴くことが多くなりました。この夏、内田光子のシューベルトを聴いたのがきっかけ。尊敬する先輩が入院中にシューベルトを聴いていたと言うので、聞いてみたわけですが、そこに倫理を感じた、と言う話はこのブログにも書いた記憶があります。

内田光子のことを知ったのは、小学生の頃でしたか。たしか、モーツァルトのピアノ協奏曲を全曲弾くというニュースが、9時のNHKニュースで取り上げられたはずです。30年とか40年とか、それぐらい前の話です。

天衣無縫、というのはこういうことか、というぐらい自由で、レポーターが「今度の演奏楽しみですね」と、社交辞令的に話すと「そうなんですよー、私も本当に楽しみで!!」、レポーターが本当に楽しみにしていると感じている前提で、テンションを上げて話していたのでした。

ラトル・ベルリンフィルとの演奏でも、ラトルを凌駕するオーラを出していたり、本当になんだか人間的な魅力に溢れた人でもあります。普通の方では対応できないんだろうなあ、と思ったり。

で、最近はモーツァルトのピアノソナタを、何か、粒の揃った貝殻を一つ一つ手に取って愉しむような感覚で聴いている感じです。色も形もそれぞれ違う貝殻を、あるものは桜色だったり、あるものは銀色だったり、そうした違いや、輝きや微細な形を、手に取ったり、匂いをかいだり、あるいはたまにポケットに入れてみたりしながら、愛おしむような感覚。そんな感じのことを思っています。

モーツァルトのソナタは、何か少し頑張ると、自分でも弾けるのでは、という気にさせてくれるのもいいです。

しかし、そこにある展開の妙、驚きは、オペラや交響曲に感じる驚きだったりするので、さすがだなあ、と思います。例えば、「ドン・ジョバンニ」でマゼットとツェルリーナの舞曲が異様な展開をするシーンがあるのですが、ピアノソナタでもそうした展開を感じることがあります。プログレ・ロックの展開にも感じるものがあると思います。

なんて言うことを思いながら、帰宅の電車の中で、聴いている感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Wolfgang Amadeus Mozart

数年前に撮った秋らしい写真。どこだったか…。

秋が深まり、日が短くなりました。日没がもっとも早まるのは11月末です。この前まで19時ごろまで明るかったはずなのに、なんて。

時間が経つのが早い、という感覚を通り過ぎて、時間の前後もなくなり、時間がひとつに重なっているような気がします。量子コンピュータの重ね合わせのような感覚。

こんな迷妄のときに聴くのは、決まってジェフリー・テイトのモーツァルト。

特に、32番と35番が思い出深く、何度となく聴いています。この清澄な感覚は格別。

かつてEMIボックスで買って、iPodに入れて聞いていました。最近はAppleMusicで。

何か辛口の白ワインを飲む感覚のモーツァルト。草原でピクニックをするときに、飲む白ワインのような。太陽の光を浴びながら、飲む白ワインは格別だろうな、と想像します。一度もやったことがありませんが、多分、そういう爽やかな愉楽を感じるモーツァルトだと思います。

安息の日々は安息の先取りから。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Wolfgang Amadeus Mozart

今日も、6時前に起きて、ルーティン通り仕事場へ。

これまで愛用していたBOSE Quiet Comfort15の調子が悪くなり、まあ7年間使っていたのでやむなし、ということで同じくBOSE Quiet Comfort 35に乗り換えました、

コードレスは予想以上に快適でした。

例えばですが、仕事場の入館証ストラップと、ヘッドホン、どちらを先につけるかで、困ったこたはないですか?

先に入館証ストラップをつけて、次にヘッドホンをつけてしまうと、ストラップを外すときに、ヘッドホンをまずは外さなくてはならなくなるはずです。

コードレスだと、そんな面倒もありません。これが一番嬉しいかも。

深いノイズキャンセルの世界に身を沈めて、音楽を聴く喜びは、世界の背理のなかで心を休めることができる数少ないひとときです。

で、聴いているのはこちら。アバドのふるモーツァルトのレクイエム。

モーツァルト:レクイエム
posted with amazlet at 18.02.21
マッティラ(カリータ) スウェーデン放送合唱団 ハルニッシュ(ラヘル) ミンガルド(サラ) ターフェル(ブリン) シャーデ(ミヒャエル)
ポリドール (1999-09-22)
売り上げランキング: 44,759

わたし、この演奏の映像を当時BSで見た記憶があります。途中で教会の鐘がなって、アバドが鐘が鳴り止むのを待って演奏を再開した記憶があります。

音楽の中に身を沈め、響に包まれ、しばらく現世を忘れる。思念だけがそこにあって、世界も自分も、主観も客観も、彼岸も此岸もない。ようやく、現世に思念が戻ると、世界と自分が分かれ、主客が分離し、此岸の雑味と苦味が口の中に戻る。

というわけで、また明日も頑張ります。

みなさま、どうか良い夜を

おやすみなさい。グーテナハトです。

Wolfgang Amadeus Mozart

いやあ、モーツァルトはいいです。

テイトの交響曲全集を聴いていますが、32番、35番が素晴らしいなあ、とあらためて。

交響曲第32番は、単一楽章の交響曲で、1792年に作曲されました。

交響曲第35番は、モーツァルトの幼なじみだったジークムント・ハフナー二世に由来。ザルツブルク市長の息子だそうです。ハフナー家が貴族に昇格したことを祝うためのセレナードを交響曲に改編したもの。

テイト盤でばかり聴いていることもあって、デフォルト盤になりつつあり、そうなると違いや特徴を考えるのが難しくなります。そんな中で感じたのは、緩みのない緊密な演奏でありながら、澄んだ水の中を泳いでいるような感覚です。

連続して聴き続けると物足りなく感じるかもしれませが、その品のある味わいは、長い間共にするとすれば、飽きを感じさせず、慈しむにたるものです。

昨日、東京は一日中冷たい雨降りしきりました。今日もまた同じ。

みなさまもどうかお身体にお気をつけください。

Wolfgang Amadeus Mozart

厳しい日々が続いています。物事が思うように進みません。

先日は、このブログを更新しようとしたところ、Wordpressが500エラーで応答しなくなるという事象にも見舞われたり。結局、Wordpressのプラグインが壊れたようで、プラグインフォルダを隔離したところ復旧しました。いや、本当に冷や汗が出ました。バックアップは大切です。

そんななか、なんとなくモーツァルトの交響曲全集を聞いたらなにか、気分が晴れました。こればかりは理屈ではない感じで驚きました。
わたしがきくのはこちら。かつてはEMIから発売されていたボックス盤。最初に買ったのは2000年頃かなあ。

そのうち、ジャケットにはワーナーのマークがつけられ、デザインも変わりました。

思い起こせば、これまで難局にあったときに、このアルバム聴いて心を癒やしていたなあ、なんて。第32番、第35番の美しさをしったのはこのボックス版だったと思います。

今日は旧ランバッハを聴いてますが、いいっすね。

現在、夏休み中。季節外れですが、法定休日のようなものでして、どこにも出かけずたまった所持雑事を黙々と行う毎日。仕事場でも家でも仕事が大好きです。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

Idomeneo

Idomeneo

posted with amazlet at 17.08.17
Dg Imports (1990-06-01)
売り上げランキング: 103,362

イドメネオ。

攻略中のオペラです。こればかり聴いているわけではありませんが、連日AppleMusicで攻略の楽しみを味わっています。もしかすると、名曲の宝庫なのではないか、と思います。色々な版があったり、録音も色々あるようで、もう少しきちんと聞かないと、語れないのですが、徒然と題して書きます。いや、これはもう、ハマってしまったかもしれないので。

特に、今聞いているベーム盤が素晴らしいからかも。ペーター・シュライアーも素晴らしいですし、何より、ベームの洗練されたダイナミズムとか、あるいはドレスデン・シュターツカペレの絹のような弦の音とか。先日聞いていたガーディナー盤よりも、ベーム盤の方が、華やかで少し聞き応えがあるような気がします。

イドメネオを聞いていたら、なぜかリヒャルト・シュトラウスを思い出してしまいました。「ばらの騎士」か「ナクソス島のアリアドネ」か。モーツァルトなのに、あれ、シュトラウスでは、と思う瞬間がありました。ギリシアを舞台にしていると言う点で似ているだけなのかもしれませんが、何か、典雅と切迫の混ざり合う空気感が似ているような気がします。

それにしても、モーツァルトの素晴らしさというのは破格だなあ、と改めて思いました。18世紀後半、まだ世界に理想があった頃、あるいは、理想を目指していた頃の音楽だなあ、と。そういう、何かオプティミズムを感じます。

これは、モーツァルトだけではなく、19世紀ロマン派に到るまでのクラシック音楽の根底にある一つの理念ではないか、と最近思います。そういう意味では、クラシック音楽とは実に時代遅れな音楽でもあり、懐古的な音楽でもあるわけですが、それが時代遅れであったり、懐古であったりという時代は、西欧の終わりとでも名付けられる時代なのではないか、とも思いました。あるいは、西欧の中にも西欧はないのではないか、そういうことを思ったりします。

このことはまた別の機会に。

いずれにせよ、また音楽を聞くのが楽しくなって来ました。本当にありがたいことです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Wolfgang Amadeus Mozart

台風が去り、東京地方は夏真っ盛りです。今日は35度を超える暑熱でした。お昼に少しだけ外に出ましたが、それはもう、大変な感じで、すぐに引き返してしまいました。

結局のところ、空調の効いた仕事場にずっといるわけで、あの、扇風機がうだるような熱気をかき回すような感覚を味わうことは少なくなりました。今の子供達もやはりそうなのでしょうか。熱中症を防止するためということではありますが、さすがに夏の暑さを全く知らないまま、というのも少し心配です。

昔、日頃、空調の中で過ごしているお金持ちのA君と、いつも空調なしに過ごしているB君がいたのですが、ある日、B君がA君のうちで夏休みの宿題をしたところ、B君は空調に慣れずに、風邪をひいてしまいましたとさ、という話を効いたことがあります。30年以上前の話でした。

その話を覚えているので、空調は体に良いということはわかっているものの、何か、罪悪感を感じながら、空調の中で過ごしています。

そんな中で聴いているのはこちら。オトマール・スゥイトナーのモーツァルト。いや、もう、モーツァルトばかり聴いている毎日です。たった今聴いているのは、ジュピター。少し早めのテンポ。流れるようなジュピター。第四楽章も実に流麗。少し速度が早いフーガ最高。これ聴きながら、自動車を飛ばすといいかも、などと。

最近、何があっても驚かず、どんなに酷いことがあっても、まあ、別にいいか、という諦念感が半端ありません。なんでも許容できてしまうみたいな、仙人のような感覚。自分が怒っても、ま、いいか。失敗しても、ま、いいか。人に、嫌なことされても、ま、いいか。

そんなこんなも、多分モーツァルトを聴いて、泳げる時は、200メートルほどクロールで泳いだりしているからかも。癒しというような感覚ではなく、単に、何か、そういう瑣末なことがどうでもいいか、と思うようになったからなんだと思いました。

変えられないことは変えられない。変わらないことは変わらない。過剰にコミットするのはやめて、変えられるものをきちんと変えよう、と思います。

Symphony 39-41

Symphony 39-41

posted with amazlet at 17.08.09
W.A. Mozart
Berlin Classics (2005-10-01)
売り上げランキング: 113,276

つれづれでした。みなさま、おやすみなさい。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

モーツァルトのオペラ、《魔笛》、《フィガロの結婚》、《ドン・ジョヴァンニ》、《コジ・ファン・トゥッテ》あたりは、実演含めて聴いたことがあって、なんとなく馴染みがありますが、それ以外はあまり聴いたことがないかなあ、と思い、なんか聴いて見ないと、と思って、思い出したのが《イドメネオ》。

《イドメネオ》という言葉は、私の中では、亡きサヴァリッシュが、インタビューの中で「イドメネオ」と言葉を発した記憶があるだけ、だということに気づきました。

最後に新国立劇場に行ったのは、2015年7月だったか。その後、《ダナエの愛》を見て、それ以来オペラの実演には触れられておらず、まあ、もう少し経てば、また行く機会もあるだろう、と思いながら今日に至っていて、そんな中で新しいオペラを開拓することもままならないわけですので、いきおい、新しいオペラを音源として聴くということもなかったわけです。

でも、先日来、とある本を読んだおかげで、モーツァルトばかり聴いている状況で、あれ、そういえば、モーツァルトのオペラで聴いていないのはなんだっけ、という自問に対して、自答の結果が、サヴァリッシュが「イドメネオ」と、我々には表現しきれない絶妙なイントネーションで声を発する記憶だったのです。

初めて聴くオペラというのは、全くの未踏峰のようなものですから、どこから取り付けばいいのかわかりません。指揮者なら、譜面を眺めるところでしょうけれど、リスナーに取ってみると、ただただ、音源を聞くところから始めるのですが、一度聞いてわかるようなものではありません。一度聞き終えたということは、山頂へ登る一つの道を、登ることだけが精一杯な状況で疲労困憊し、ようやく山頂へたどり着いた、ということにすぎません。余裕も何もないので、周りの景色も見えていないはずです。ですので、何度も聴くこと、つまり、一つの道をなんどもたどることでもあるし、別の登山道で山頂に登るということでもあるのですが、繰り返し聴くことで、山の全容、つまりはオペラ全体の様相がやっとわかり始める、ということなのです。

ただし、聞いただけでは、オペラの理解にはたどり着かないというのも、これまた難しいところで、実演を見て、テキストの内容を理解し、さらに、様々な演出で、あるいは同じ演出を違うキャストや指揮者で、と行った具合に、さまざなな切り口でオペラを受容していかなければならず、印欧語族ではない我々に取っては、言語の壁というものもありますので、よくもまあ、こんな高峰に挑むなんて、無謀な! とでも言われるようなことをやっているのかもしれません。

それでもなお、そこにオペラがあるから聴くしかないわけでして、十全に理解できずとも、曲を聴くだけでも、あまりに美しいアリアに出会ったり、荘重なシンフォニアに巡り合ったり、とそれはそれなりの楽しみ方があるものです。

この3時間に及ぶ《イドメネオ》について言えば、まだまだ4合目ぐらいにたどり着いただけなのですが、あれあれ、こんなにいい曲なんだっけ、という驚きがたくさんありました。これ、24歳で作ったのか、というのもまた一つの驚きでもあります。

聴いているのはこちら。Apple Musicで聴いています。本当にいい時代になりました。この時代がいつまでも続くことを願っても止みません。

Idomeneo

Idomeneo

posted with amazlet at 17.08.01
Archiv Produktion (1991-09-12)
売り上げランキング: 53,941

さて、色々ある昨今。乗り切るためには体力をつけないと、ということで、クロールで200メートル相当泳いでみました。明日も泳げるだろうか…。頑張ってみます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

BelinerPhilharmoniker,Classical,Wolfgang Amadeus Mozart

日曜日、マーラーについて書いてみましたが、なんとなく書くことに抵抗がありませんでした。逆にいうとこの数ヶ月、あまり書くことができませんでした。それは、環境変化などあり、多忙だったということもあるのでしょうけれど、なにか違う理由を見つけた気がするのです。

この一か月、モーツァルトを聴き続けていました。特に、これまで聞いたことのなかった初期交響曲や弦楽四重奏、あるいは、合唱曲やオルガン曲などを。

そこで、もちろんなにがしかの感想は持つのですが、それを言語化することができなかった、ということなのではなかったか、と。

それは、意欲という観点もあれば、技術的知識的な観点もあったはず。音楽の差異を語ることよりも、演奏の違いを語ることの方が、取り組みやすいという状況なのかもしれない、と。聴きなれたマーラーの5番を聴いてなにがしかのことを書くということは抵抗なくできた、ということかと。

今、ラトルが振ったモーツァルトの交響曲39番、40番、41番のライブ録音をAppleMusicで聴いています。

これを聞くと、ラトルらしい、うねるようなダイナミズムが感じられ、ああ、ラトルって、いいなあ、と思うのです。ベルリンフィルを手中にして響かせる手腕の素晴らしさ。輪郭のある演奏は、対位法を浮き上がらせ、モーツァルトの構築美、それは何か、18世紀の優美な絵画を思い起こさせるような。という具合に、何か語ることができるわけです。それは、取りも直さず、この3曲を何度も聞いているわけですし、ラトルの演奏も何度も聴いているからこそです。

一方で、モーツァルトの初期弦楽四重奏を聴いて、その楽曲自体を語ることについては、何か抵抗のようなものがあり、越えられない壁があるように思ったのでした。それは、越えるべき壁なのか、あるいは、楽理のリテラシーがなければ超えられない壁なのかはわかりません。少なくとも、昨日触れた身体的感覚として手に触ることのできるような感覚は、初期弦楽四重奏を聴いていた時には感じませんでした。

初期弦楽四重奏が楽曲として面白くないかというと、そうでもないのです。滋味にあふれた曲だったと思うのですが、そこに何かを語るまでには至らなかったわけです。語るまでには理解していない、というのが、まずもっての答えです。

ですが、あるいはこれは、楽曲の違いを語ることと、演奏の違いを語ることということに繋がるのかも、とも思いました。

私に中では、楽曲の相違と、演奏の相違というのは、なにか対立する概念のように存立しています。それは、ジャズとクラシックの関係に似ているもののように理解していました。ジャズは、コード進行に基づき、セッションによってフレーズが異なります。クラシックはフレーズはいつも同じですが、それ以外の差異で表現をするわけです。

なにか、これまでは、ジャズ的な楽曲相違の方が自分にはわかりやすい、と思っていたのですが、実は演奏相違の方が語りやすい、ということに気付いて意外だったのです。

それを前向きな変容とみるか、後ろ向きな変容とみるか。少し、議論が先走るかもしれませんが、それは、もしかすると、年齢を重ねたからということなのかもしれないとも。同じものの微細な変化で十分楽しめて、環境の大きな変化を許容できなくなっているという事に繋がるのかも、と思うと、「機微がわかるようになったなあ」といった前向きな変容とお気楽に捉えるわけにもいかないのかも、と思ったりします。

楽曲の違いも乗り越えて書いてみないと、と思います。

そうこうしているうちに、ラトルの41番は最終楽章。この颯爽としたスピード感で聞くフーガはとんでもないです。カルロス・クライバーの《運命》を彷彿とさせるパラダイムシフトかも。みなさま、これは必聴です!

それではみなさま、お休みなさい。

Wolfgang Amadeus Mozart

Photo

新緑の季節のようですが、なんだか天気は今ひとつ。週末はぐずつくようです。写真は、先だっていった近くの河原から。Instagramのフィルタで浮き世離れした色になってしまいました。

さて、ありがたい機会を頂き、モーツァルトの本が読めるかもしれません。ということで、こちら。ジェフリー・テイトが指揮するモーツァルトの交響曲全集。第1番から全部聞いてみようかな、ということに。

Mozart Complete Symphonies

Mozart Complete Symphonies

posted with amazlet at 17.05.12
Warner Classics (2013-09-02)
売り上げランキング: 35,588

CDでも持っているのですが、CDを入れ替えながら第番から聴くことはしてませんでした。iTunes に取り込んだのは32番以降だった記憶も。

でも、AppleMusic に収録されていたので、1番からシームレスに聴けます。なんだが初めて聴いた7番が思いのほかよかったです。ジャズでいうII V 進行が素敵でした。いまさらですが、モーツァルトはいいです。初期交響曲はあまり聴く機会がありませんでしたので、本当に新鮮です。Apple Musicのおかげです。ありがたい世の中です。

最近、音楽を聴けない感じでしたが、また聴かないと、と思いました。

というわけで、みなさまもよい週末をお過ごしください。