新国立劇場オペラ2012年2013年シーズンを振り返る その2

IMG_1689 今朝はよく眠りました。起き上がって、溜まっていた仕事をいくつか。予想より時間がかかりましたが、なんとか出来上がりました。もっと速度が上がるといいのですが。
昨日の続きで、新国立劇場の復習を。印象的だった3つのパフォーマンスを。

その1:ピーター・グライムス

まずは、ピーター・グライムスです。私はあまりに感動したので2回行ってしまいました。涙なしには見られないパフォーマンス。今でも脳裏に焼き付いています。
このオペラが生まれてはじめての最前列で、私はもうグシャグシャになるぐらい、心揺り動かされ感動しました。
詳しくは以下のリンクからどうぞ。今読みなおしても、感動が蘇りました。
《ピーターグライムス》レポート集

その2:セヴィリアの理髪師

それから、セヴィリアの理髪師。ほんとうに楽しい舞台でした。ロッシーニの喜劇にどっぷり浸かることが出来ました。レベル高すぎです。
《セヴィリアの理髪師》レポート集

その3:コジ・ファン・トゥッテ

美男美女による青春の甘さと辛さに満ち溢れた楽しい舞台でした。私の記事を読みなおしてみると、少々ふざけてまして、気が引けますが、歌唱も音楽も満足でした。
《コジ・ファン・トゥッテ》レポート集

その4:愛の妙薬

これも徹夜明けで行きました。一番感動的なはずのシラクーザのアリアに心が動かなかったのですが、それは完全に私がつかれていたからです(眠ってはいないのですが)。感動するにも体力がいるのですね。
ともかく、シラクーザの旨さに酔いしれました。ニコル・キャンベルの軽やかな歌いっぷり、レナート・ジローラミの名脇役っぷりとか、本当に楽しい舞台でしたね。
《愛の妙薬》レポート

まとめ

今選んでいて思いましたが、《ピーター・グライムス》意外は全部喜劇。それもイタリア語オペラです。モーツァルトはドイツ音楽と言えるかどうかビミョーですし。
休みぐらいは、喜劇で楽しみたい、という気分だったようです。
次のシーズンはリゴレットから。音楽が聞ける平和が続きますように。
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新国立劇場オペラ2012年2013年シーズンを振り返る その1

7月も終わり、夏真っ盛り。少し遅いですが新国立劇場の2012年2013年シーズンを私的に振り返ってみたいと思います。
8457343533_2045c6fff2_o.jpg ※写真は冬です。

皆勤

今年は皆勤しました! 
昨年はボエームとドン・ジョヴァンニを病欠しましたが、今年は本公演全てを観ることが出来ました。
で、あまりに素晴らしかった《ピーター・グライムス》は、二回行きました。すいません。
あのとき、仕事がトラブっていて、二週間連続週末徹夜で、徹夜明けに初台に行くというかなりヤバイ状況でして、だからこその感動だったのかも。

座席

奮発して、最前列の座席をとってみました。これは、オケのコンサートの最前列の快楽に味をしめたからです。
しかしながら、オケコンとオペラは違います。
オケの音は、遮音壁で直接聴こえてきません。これは意図してそうなっているのです。そうでないと歌手の声は聞こえないでしょうから。それがすこし歯がゆかったです。圧倒的な音のシャワーという意味では、オペラはオーケストラコンサートに負けてしまいます。
ですが、やはり前列だと、視界全てがステージに成ります。舞台への没入感は最高です。2Fから舞台全体を見るという楽しさもありますけれど、《トスカ》でのノルマ・ファンティーニの迫真の演技とか、《セヴィリアの理髪師》のファンタジー、《愛の妙薬》のカラフルでポップな舞台が眼の前に広がるのは想像以上でした。
次は演目ごとにもう少し詳しく。
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主役は目立ってはならない?──新国立劇場《夜叉ケ池》

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昨日紹介した朝日新聞の長木さんの評ですが、やはり波紋を広げている模様。音楽批評は難しいです。

今回のオペラのリブレットは、作曲の香月さんと演出の岩田さんが作り上げたものです。私がある種の衝撃を受けた「もう沢山でございます」といった部分は原作にはないはずで、そうしたオペラ化にあたっての、原テキストの取り上げ方などは、もっと評価してもいいのかなあ、などと思います。

それから、音楽的要素だけで、同時代をえぐれるのでしょうか。音楽社会学の議論ですかね、これは。私の中期的なテーマです。

あとは、オペラにおける音楽の占める位置についても考えさせられます。オペラは紛れもなく音楽の一ジャンルとされていて、音楽が主役なわけです。ですが、私自身がオペラを観ている時にどこに注意を向けているか反省してみると、どうも劇のほうを向いているようです。

それは、音楽を軽視しているのではなく、音楽に支えられているということではないか、とおもいます。音楽は重要だが、音楽が目立ってはいけない、という禅問答のような状況。

このことは、ペーター・シュナイダーが新国立劇場で振った《ばらの騎士》についてあとから考えた時に気づいたことです。

 

香月さん、29日の公演にもいらしていました。休憩中は、サインに気さくに応じておられました。私もいただけばよかったと少し後悔しています。

それから、カーテンコールにも登場され、警官役の加茂下稔さんに敬礼したり、蟹五郎役の大久保さんの前でカニのポーズをされたり、なんだかひょうきんなお人柄を感じました。

 

今日は夜勤ですので、夜更かし&寝坊です。

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同時代性とは?──新国立劇場《夜叉ケ池》

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本日の朝日新聞夕刊に長木誠司さんによる《夜叉ケ池》の批評がでていましたね。

結構いろいろ書いてあって、うーん、という感じ。音楽学者の長木さんですので、かなうわけはないのですが……。

どんなことをおっしゃっているか、というと、

  • ドビュッシーかラベルどまりの120年ほど前の仏オペラ風スタイルを、べったり貼りつけた音楽で彩られる。
  • 同時代への深い読みがそこに提示されていない。

といったところがポイントでしょうか。

「同時代的ではない」、という点が一番気になります。同時代という言葉は、アクチュアルという言葉であり、現代的、現実的、という言葉に置き換えることができるでしょう。もう少し引用してみると。

日本の現代オペラが外へ発信していけないのは、旋律が親しみにくいからというような単純な理由ではない。同時代への深い読みがそこに提示されていないからだ。

とあることから、音楽的に現代への「洞察」が必要とあります。

ここでいう同時代性というものが、音楽に向けられているとしたら、私が感じた「あ、これはドビュッシーだ」と、思ったというところなのでしょう。オリジナリティの問題?

ただ、そもそも音楽的な部分で、現代的な洞察というものができるのでしょうか、という疑問があります。

私が音楽的最先端を知らないから、あるいは音楽的側面で「現代への洞察」というものが何なのかを理解できていないからなのかもしれませんが、音楽面で、ある程度公衆へ開かれたものを作るとなると、こうならざるをえない、と思ってしまいます。

もしかすると、ベルク《ヴォツェック》やツィンマーマン《軍人たち》といった(当時の)先端オペラと同程度あるいはそれ以上を長木さんは想定しておられるということでしょうか。私が文脈を読めていないのでしょうけれど。

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さて、一連の記事の中で、このオペラに、震災に関連した現代の状況を読み取ったとかきましたが、それは、演出の仕事だったのかもしれません。音楽とリブレットだけではこの読みは難しいはずで、最後に破壊された釣鐘がその姿を顕にする場面での直感でしたので、画像を伴ったものであるはずです。

もしかすると、私はこのオペラをこう見ていたのかもしれません。

「このオペラは何十年も前に作曲されたもので、それを改めて今日のような演出で観ている。今回の演出は2011年3月以降の日本にとってアクチュアルなものである」

つまり、演出の作品解釈を味わっているだけに過ぎず、音楽は世界初演というより、すでに発表済みの音楽として聞いていただけではなかったか、と。そう考えることが、長木さんの意図なのかもしれない、と思いました。

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今日から2013年も後半です。今年の夏は涼しいですね。猛暑に備えて、安物エアコンを自室に取り付けたのですが、活躍の機会がほとんどありません。せっかく買ったのに。

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「もう沢山でございます!」──新国立劇場《夜叉ケ池》

https://i2.wp.com/farm3.staticflickr.com/2807/9174354996_65ed283c33.jpg?resize=500%2C375 昨日は東風が強くて、新国立劇場玄関横の水庭が波立っていました。波面が輝きなんとも美しい風情です。
昨日に引き続き《夜叉ケ池》のことを。
もう一度原作を読んでみて、オペラ化において強調されていたことはなんだろう、と思いました。
生贄のくだり。原作では命は取らないとされていますが、オペラにおいてはその部分が曖昧にされていたような。私の聞き落としかもしれませんが、もしそうだとすると切迫感はオペラにあり、原作の方が逡巡感があります。ですが、その後の百合の自殺との整合性はオペラのほうがしっくりきます。
あとは、自殺の場面です。オペラでは、髪を振りほどき、「もう沢山でございます!」と言って自死しますが、原作では、「もう沢山」、とは言わず、「みなさん、私が死にます」といって、死に至ります。
この場面は、オペラですとますます、世の馬鹿馬鹿しさとか、男性原理への辟易なんでしょうね。もう勝手にしてくれ、みたいなニュアンスが強まります。
思うに「世の中のことは全て間違っている」わけで、清濁併せ呑むぐらいでないと生きていけないのが現代ですが、追い込まれれば衝動的に百合のように「実力行使」を迫られることになるのでしょう。あるいは、舞台上の百合が我々の代わりに「実力行使」をしてくれたというべきでしょうか。百合の死を我々観客は自分のこととして受け止め、劇場空間で死に至り、劇場をでて生まれ変わるということなのでしょうか。
どうにも、最近オペラ演出の解釈において、男性原理批判的な解釈に思い至ることが多くなりました。おそらくは、先日ペーター・コンヴィチュニー演出の《マクベス》を観たり、森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」を読んだからかも。
この本、とてもおもしろいのです。またあらためて書きますけれど。

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新国立劇場「夜叉ケ池」

新国立劇場にて、香月修「夜叉ケ池」を観て参りました。
https://i0.wp.com/farm8.staticflickr.com/7308/9165319171_b1cf016f77.jpg?resize=500%2C375 あらすじなどは、あえて書きませんがいくつか感想を。

音楽のこと

今回のプロダクションが初演となりますので、音楽的な予習はできず。ですが、予習なしでも当然楽しく感動的な2時間半でした。
オケがなり始めた途端に、フランス的な洗練された響きを感じました。登場人物の一人である百合のライトモティーフとおもわれるオーボエの旋律の美しさ、それから子守唄の美しさは素晴らしいものでした。子守唄は忘れられるものではありません。
今回、どうも中劇場の音響が随分デッドに感じられました。響きがない感じで、和音の響きが劇場内の隅々まで浸透仕切れていないように感じました。中劇場で聴くのは5回目ほどでしたが、こうした気付きを得たのは初めてでした。私が変わってきたのだと思います。あるいは、演奏が影響してそうした気付きにつながったのか。今はまだ整理がつきません。

演出について

今回の演出解釈ですが、気づいた点がいくつかあったので書いておきます。
物語のポイントの一つとなる釣鐘や、晃が来ている上着、舞台の両脇にそびえる木の柱には、荒々しい唐草模様が刻まれています。この模様が、私には縄文土器の模様であったり、アイヌ系の衣装の文様に似ていると思えたのです。
縄文時代から綿々と受け継がれている釣鐘であったり上着であったり、と考えると、竜神との契約は2000年以上前までに遡る事のできる契約であったのか、と思わされました。
それだけ長い間の契約であったにもかかわらず、それを破ってしまった人間は、最後には濁流に飲まれて滅びてしまいます。残されたのは真っ暗の茫漠たる巨大な空間だけでした。
このメタファー、どうにも福島を思い出さずに入られなかったのです。特に、最後の最後で、破壊された釣鐘が闇の中から浮かび上がってくるとき、人間の叡智だったはずの機構が破壊されてしまったという事実を思い出さずにいられません。それがどうにもあの破壊された建屋の映像とオーバーラップしてしまうのです。
地震の原因が何かは知りませんし、自然との契約を破ったこともないはず。あるいは自然との契約などしていないはず。ですが、なにか自然に後ろめたさを感じてしまう。だからこんなことを思いついてしまうんでしょうね。時代が時代ですので、そうした読み方もおそらく許されるでしょう。
本日はこの辺りで。
あ、今日、意外な所で素晴らしい絵を観てしまいました。油断なく目配りしないとなあ。
では。
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新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」その2

コジ・ファン・トゥッテ。女はみんなそうしたもの。いや、本当にそうですよ、まったく。
というわけで、昨日に引き続き。コジ・ファン・トゥッテ。
IMG 3145 さて、今日は、男性陣と音楽を。昨日は悪乗りしてすいません。

男声の方々

フェルランドを歌ったパオロ・ファナーレも、グリエルモを歌ったドミニク・ケーニンガーも、イケメンなふたりでした。一幕が終わった途端に私の後ろの方から、「メチャカッコイー」という黄色い歓声が湧き上がりましたね。
パオロ・ファナーレは、甘い声。ともかく軽やかに甘い。特に、第一幕17番のアリア Un’ aura amorosa、素晴らしかったですよ。あれがカンタービレなんですね。
ドミニク・ケーニンガーも背の高いイケメンで、安定した歌声を聞かせてくれました。どちらかといえば、ファナーレより声は私の好みでした。
そうそう、第二幕の冒頭の水浴びのシーンですが、前回2011年は、アドリアン・エラートとグレゴリー・ウォーレンが、水に浸かりきってたんですが、今回はそこまでやらなかったです。でもあの場面は笑うしかないです。「オテロ」も「ヴォツェック」も水を使った好演出でしたが、「コジ」もその仲間ですね。
ドン・アルフォンソを歌ったのはマウリツィオ・ムラーロでした。2006年12月のセヴィリアの理髪師のドン・バジリオで聴いたことがありましたが、今回も当然健在ですよ。ヨーロッパのバス・バリトンの方は、本当につややかで倍音を多く含んだ声を聞かせてくれるんですが、ムラーロもそうした方々の一人。2011年のコジでドン・アルフォンソを歌っていたローマン・トレーケルが叡智的で冷たいドン・アルフォンソだったのですが、ムラーロのドン・アルフォンソは温かみがありました。それは声質の違いにもよるのではないかと思います。

音楽のこと

指揮のイヴ・アベルが作り出す音楽は、全体がひとつのまとまりとしてあらわれてくるように思えるものでした。急激にテンポを変えるといった意表をつくようなことをせず、だからこそ舞台上の物語を邪魔しないものでした。
私はこれと逆の経験を、10年ほど前のウィーンで観た小澤征爾の「フィガロの結婚」で感じたことがありました。小澤先生のことを書くのは不遜かもしれませんが、ケルビーニを歌っていたアンジェリカ・キルヒシュラーガーと全くテンポが合わず、モーツァルトの軽快な世界が重苦しさを帯びてしまったように思えたのです(これを書くのは相当勇気がいります)。
同じ経験は、数年前の新国「フィガロの結婚」でも……。
ですが、イヴ・アベルはそんなことはありませんでした。音楽に違和感を感じない、というのは、それだけ舞台演出とマッチした演奏なのだと思うのです。オペラ巧者の指揮者、例えばペーター・シュナイダーの指揮にはそうした職人技のような力を感じますが、それと同じものだったと思います。
もしかしたら、オペラにおけるオケの演奏は空気のようなものでなければならないのかもしれない、などと思います。気配を感じさせず、時に張り詰め、時に柔らかくなり、その場の「空気」Atomosphereを作るのがいい仕事なんですね。
明日は、演出のことを書く予定。

終わりに

ちなみに、昨日の夕食。落合シェフの豚肉のバルサミコソース。美味。久方ぶりの外食でした。この御店はメニューを限定することでコストをリーズナブルにしています。さすが!
IMG 1855 では、また明日。
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新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」その1

IMG 3146 今日は新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」最終日でした。NHKの映像収録があったおかげで、私はA席からS席へ格上げとなり、良い席で楽しむことができました。
今回のキャスト、美男美女ぞろいと聞いていましたが、本当にその通り。
冒頭、ステージにスタッフのかたが立たれて、フィオルディリージのミア・パーションが体調不良だが、頑張ります、というアナウンスが。
私は(古い話で恐縮ですが)、2002年秋の「セビリアの理髪師」のことを思い出しました。あの時は2幕の冒頭でスタッフのかたが壇上でキャスト変更をアナウンスされましたが、今回ももしや?と覚悟しましたが、なんとか出演してくださるということで、一安心です。
今日はNHKの録画も入っていましたし、最終日だったということもあるので、多少の体調不良をおして出演ということになったのだと想像しました。良かったです、本当に。
確かに、第一幕のミア・パーションは、声に張りがありません。ですが、緩急強弱の豊かさと、演技、(そして美貌)を持って、フォローしていましたので、聴いていて大きな違和感を感じる場面は殆ど無かったと記憶しています。さすがに、一番最初の歌い出しや、ロングトーンで苦労しているのはわかりましたけれど。
ですが、第二幕になると、声量も安定してきて、一層素晴らしくなりました。私は、途中からキャメロン・ディアスに見えてきて仕方がなかったです。
ドラベッラのジェニファー・ホロウェイは、背の高い美人。潤いのあるメッゾで、パワーはダントツ。第一幕での怒りの表現と、次第にほだされていく感じを上手く表現していたと思います。
怒りをぶちまける演技を見ていて、あ、これ、フリッカだ、と思いました(このあたりのオーバーアクションの演出が少し違和感あったかもしれないです)。
ショートカットにしていたので、これはズボン役も当然行けるわけで、オクタヴィアンを歌うとカッコイイはず。調べてみるとやっぱりオクタヴィアンを歌っています。
で、かなりこじつけで、ドリュー・バリモアに似ているということで。
デスピーナを歌った天羽さんもかっこよかったです。声量やピッチも外国勢負けないぐらい。最近の新国立劇場は日本勢もどんどん素晴らしくなっています。
天羽さんは、もちろんルーシー・リュー。
肖像権があるので、写真を載せられないですが、イメージは掴んでもらえるかと。
明日は男性陣を。

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新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」の予習復習を。

新国立劇場では、今シーズンの「コジ・ファン・トゥッテ」が上演中ですが、2011年の今回のプロダクションのプレミエの時の過去記事をまとめました。

オペラトーク

演出のミキエレットの話を聞けたオペラトークです。

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その1

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その2

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その3

 

コジ・ファン・トゥッテの舞台芸術

舞台芸術の作られ方がよくわかった非常に素晴らしい企画でした。

【短信】「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術に行ってきました!

新国立劇場のリハーサル室に潜入!── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その1──

登壇された方々── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その2──

もう一度、コジの演出と舞台について── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その3──

コジの制作の舞台裏── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その4──

大道具小道具そしてQA── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その5──

 

公演の報告

こちらが、2011年本公演の報告です。

新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その1

演出いろいろ妄想中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その2

さらにいろいろ考え中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その3

 

楽しい公演の模様がわかるいいなあ、とおもいます。

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今日は色んな意味で充電中。明日からまた戦い。こちらも色んな意味で。

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新国立劇場:ヴェルディ「ナブッコ」その3

「辻邦生ゆかりの地」の写真を撮ってみました。といっても、辻先生が直接いらしたことがあるはずはないですし、本当にゆかりがあるかどうかはわかりませんが、状況証拠から間違いないはず、と思っています。結構こじつけですので、今度報告する際に怒られてしまうかも。。
IMG_9924.jpg さて、新国立劇場は「コジ」で湧いているようで、私も来週末に行くのですが、まだ終わっていない「ナブッコ」の件。だから、上司に「スピード感がない」と怒られるのですね、私。。
今回は、もう少し内容を書いてみます・
序曲では、デパートのお客たちが、カバンや上着を使いながらダンスを始めます。カバンを頭に被るので、まるで巫女がかぶる帽子に見えたりします。その後、ザッカーリアが「世界の終末は近い」というプラカードを体に下げて登場します。よく宗教団体が街頭でやっているあれです。
バビロニア勢は、資本主義のアンチテーゼとして武装ヒッピーとして登場します。マシンガンをもって天井からロープを伝って降りてきました。めちゃカッコイイ登場。ナブッコももちろんヒッピーたちの親玉として登場するわけです。バットでショーウィンドウを本当に叩き割るシーンがあって、なかなか面白かったです。マジでショーウィンドウ割ってました。あれは、新国「オテロ」でイアーゴが壁にベッタリ落書きするのと同じくらいかそれ以上に衝撃。
フェネーナは、帽子を深くかぶってトレンチコートを着込んでいますが、ザッカリアにコートを取られてしまうと、ヒッピーの服装をしていて、バビロニアに帰属する人物であることがわかります。ズボンに派手な花がらの意匠で、長い髪の毛の一部が黄色に染められていて、とても支配階級に属する者とは思えず、ヒッピーに属しているのがわかります。
ですが、ザッカーリアの服装も汚れていて、支配階級に属していると思えないのです。
私は、ユダヤ人は支配階級たる「人びと」と捉えています。
むしろ、ヒッピーに近いものを感じました。この峻別の微妙さが難しいのでしょう。ところが、フェネーナはユダヤ教に改宗しますので、白いドレスに着替えます。支配階級の軍門に下ってしまうのですね。
第二幕の最後で、ナブッコが自分は神だ、と宣言すると、雷鳴が光り、ナブッコは床に倒れてしまいます。神の怒りとして雷撃を取り入れるのは、旧約聖書と同じ。
第三幕では、デパートの内装はめちゃめちゃに壊されていて、偶像崇拝の対象として、デパートの中に飾られていたキューピー人形の巨大な頭に廃材を使って作られた十字架型の人形が登場します。高価な服やMacの箱がぶら下げられています。捕虜は両手を前で縛られているのですが、マウスのコードで縛られていて、細部までリアルに作られています。
本来は第二幕まではエルサレムでの出来事で、第三幕以降はバビロン捕囚後のバビロニアという設定なのですが、今回の演出においては、場所の変化は見られず、場所の意味合いが変わったというところにとどまっていました。ここがすこしわかりにくさを感じたところだったと思っています。
助演の方が演じる武装ヒッピーの感じがすごく良かったです。彼らはみなマスクをかぶっていて素顔を見せません。それがまたリアルです。アノニムの暴力、人間性が剥がされた状況なのでしょう。
「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」は、もちろん捕虜となった人々がの嘆きの歌として歌われています。ここは、コンヴィチュニーだったら、先日観た「マクベス」と同じく、客席の電気をつけるかも、と思いました。
ナブッコは、フェネーナを救うために、カウンタクーデターを成功させ、その過程で神への帰依を表明します。ここで、ナブッコは苗木を持ってきて、デパートの床板の下にある地面に植樹し祈りを捧げることになります。
こうして、ナブッコはエコロジストとなり、最終的には、支配階級もヒッピーも自然へ回帰する、ということになりましょうか。
ただ、そうした自然への回帰の見せ方が今ひとつよくわからず、ヒッピーが社会復帰するという、「ビルドゥングスロマンのような見え方、あるいは、「人びと」=支配階級の勝利のようにも見えてしまい、毒素が減じられた感じです。
いや、現実はまさに演出が描いたとおりですし、われわれはそうした支配階級に恩義があるのですから、演出の作り方としてはまったく理にかなっていますが、劇薬が薄められてしまったという感はありました。
とにかく、ここまで読み替えられちゃうのね、という感嘆でした。天才の考えることはスゴイです。
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明日からまた戦闘。しかも早朝より。

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