《沈黙》の思い出

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雨が続く毎日。東京地方はこの数日ずっと雨ですね。というより、私の記憶の中ではこの一年ほどで、こんなに雨が続いたという記憶がありません。

昨今なんだか週末にだけしか書けていないですね。最近、仕事のほうがなかなか忙しいのです。忙しさというのは、波のように周期を持って忙しかったりそうでなかったりするもので、最近は忙しい波にあえて乗っているという感じもあります。

まあ、止まない雨はありません。

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先日の新国立劇場の《沈黙》ですが、本当に考えさせられる内容でした。同じプロダクションで二回目ということもあり、どんな感じで観られるのか不安でしたが、思った以上に学びが多かったのです。

「日本には、日本のやり方がある。西欧の神を持ってくるのはありがた迷惑」

「日本人は、結局は神などは理解できず、神も大日如来も、同じものとしてしまう」

このような、西欧の日本化というテーマは、キリスト教だけではなく、随所にあるのでは、とも思うのです。具体的にここに書くことはしません。私の大学時代の先生は、日本の西欧文化受容の非徹底を嘆いておられたのですが、そうしたこととつながるのだ、と思います。

「グローバル」な昨今にあって、何がいいのか悪いのか、全くわからない世界になりつつある中で、この問題は現代的だなあ、と思いました。

今後の世界に不安が多い中、あまりに重いテーマを感じて、数日間は考えこんでしまって、書くに書けなかった、ということだと思います。

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引き続き《ばらの騎士》雑感

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新国中庭のパノラマ写真を撮ってみました。首都高速の騒音をブロックするための外壁に囲まれた水庭は本当に素敵です。

《ばらの騎士》に政治的意図はあるでしょうか? ヴェルディオペラだと、そこに政治的な意図がたくさん仕込まれていますので、いろいろと面白いのですが、シュトラウス=ホフマンスタールでそうしたことを考えたことがありませんでした。

もちろん、第一次世界大戦前の時代が変わりゆくことへの漠然とした不安のようなものがながれているのはたしかでしょう。爛熟の次に来る破局への予感のようなものでもあります。18世紀のフランス革命に向けたフランスの状況などを想像していたのかもしれません。

あるいは、現代においてもやはり、バブルの次に来る崩壊をなにかそこはかとなく感じていて、例えば、今のアベノミクス相場はもちろんのこと15年前のITバブルも、なにかそうした威勢の良さのあとに来る破局への漠然とした不安を感じるような気がします。

現実と乖離しているような株価の高騰が、日銀や年金機構が政策に基づき株を買い続けているという状況で、創られた株高状況とも言われているようです。

インフレ・ターゲットが設定されてはいますが、それに連動して、給与が上がっている実感がない、という話はよく聞きます。

(ですが、こちらのデータでは、2013年度においては、平均給与は2%とはいえませんが、それでも上がっている、とされていますので、面白いですね)

なにか、こういう爛熟の美と、次に来る破局の感覚、というのは、日本的とも言えるのでしょうかね。というか、辻邦生の「美と滅び」とか、太宰とか、三島の感覚とよく似ているなあ、と思います。それは、実はマンなのかもしれないですね。

ホフマンスタールの《チャンドス卿の手紙》は、なにか大人の諦念のようなものを感じるのですが、それがこのオペラの魅力だとおもいます。

というのは、ある程度人生経験を積んだ人の意見になると思いますが、きっと若い方々にはオクタヴィアンとゾフィーの恋愛成就ハッピーエンド物語になるのでしょうね。第二幕でさっそうと登場するオクタヴィアンは、きっと若い方にとっては、卒倒するほどのかっこよさです。

年代ごとにその魅力が発揮できるようになっているのかも、なんてことを思いながら観ておりました。

それでは取り急ぎ。グーテナハトです。

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夏来る。あるいは《ばらの騎士》雑感。

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いや、すいません。今日も、ちゃんと書けなくて。

でも、《ばらの騎士》については、今回はパフォーマンスも素敵すぎたのですが、それ以上に、劇についていろいろ気づきがありました。

前から思っていたのですが、とあるあのオペラ(あるいはオペレッタ?)と実に似ているのではないか、とか。

あとは元帥夫人のモノローグがことのほか味わい深く、8年前に比べてずいぶんと感じ方が変わっていたり、とか。まあこちらも歳をとっていますので当たり前です。もしかすると、元帥夫人の週末感のようなものはすでに超えてしまったような気がします。

ホフマンスタールが《ばらの騎士》を書いたのは30歳台後半です。確かに《ばらの騎士》を初めて観た時は、元帥夫人と同じぐらいの年齢でした。

ですが、私はすでにそこを超えましたので、ホフマンスタールの感じる終末感を超えていてもおかしくありません。この感覚、昔、少し上の世代のかたと《ばらの騎士》について語った時に、その方がおっしゃっていたことなのかあ、などと思いました。

ということは《ばらの騎士》については、別の見方ができるようになってきてもいいんだろうなあ、と思います。それが今回の課題かもなあ、などと。

で、夏が来てしまいます。今年の立夏は5月6日ですが、小学生の時にならった目安でいうと、5月までは春で、6月からは夏、ということに成りますので、とうとう夏がきました、ということになりますね。

冒頭の写真は、近所の桜の木とかえでのコラボ。

近所の桜。江戸彼岸で、染井吉野よりも早く満開を迎えています。

4月に撮影したあの桜の木、つまりエドヒガンは、冒頭の写真のように青々と生い茂っているわけです。

時のうつりゆくのはやはり早いものですね。もちろん、歳をとればとるほど早くなるわけですが、その早くなる加速度は歳をとればとるほど小さくなります。

それではまた明日。グーテナハトです。

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《短信》なぜ腹が立つの? これが世の中だというのに。──新国立劇場《ばらの騎士》

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なんとか行ってまいりました。新国立劇場《ばらの騎士》。

このプロダクションは、2007年、2011年につづいて3回目でしたが、3回見ても飽きない、本当に上品で洗練された演出です。

今日は時間がないのであまり書けませんが、取り急ぎ、標題に書いたこちら。

なぜ腹が立つの? これが世の中だというのに。

第一幕でおしかけてきたオックス男爵を追い払った後に嘆息するように呟く言葉です。

この言葉を日々眺めてみるといいかも、などと。

元帥府人は、これ以降ずっと機嫌が悪いですね。第三幕の登場時点でもやはり機嫌がわるいですね。観ているこちらも怒られている気分になります。元帥夫人は男性全員を怒っているのですから…。

今日は取り急ぎです。また明日。おやすみなさい。

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新国立劇場《椿姫》その2

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先日の新国立劇場《椿姫》について。書きたいことがタスク台帳に残っていましたので、忘れないうちに書かないと。。

ヴェルディらしい楽しさがありましたが、やはり、台本はかなり無理をして刈り込んでいるのですね。第二幕の最初のところ、ヴィオレッタが宝飾品を売り払っている、ということに気づいたアルフレードは、張り裂けるように自分の未熟さを恥じ入り、パリへと向かいます。

この部分の劇の長さがバランスがおかしいほどに短いのです。

特に今回の新国立劇場の演出だと、あれあれあれ、という間にアルフレードが激昂して去っていき、そのあと、ヴィオレッタがすかさず登場、という感じで、なんだか紙芝居のような展開の早さでした。

オペラ化するにあたっては、台本を大きく省略することは多いですので、まあ、当たり前といえば当たり前なのです。

あとは、今回の演出ですと、ジェルモンの登場もかなりスピード感がありました。

それにしても、最近の新国立劇場の歌手の皆さんは安定しています。昔は、なんだかこのあとはずさないか、と心配になってしまうようなこともあったのですが、この数年は、そうした不安のようなものもなく、自然体で集中して見ることができるように思います。本当にすばらしい劇場になってきたんだなあ、と思います。

開場して17年。私が初めて観に行ったのが2002年ですので、あれから13年がたちますが、どんどん成熟しているような気がしてなりません。

今週末の《ばらの騎士》も期待ばかり、です。

では、とりいそぎおやすみなさい。グーテナハトです。

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新国立劇場《椿姫》その1


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久々の新国立劇場でした。今回の《椿姫》は新しい演出でした。これまでのオーソッドックスな演出から、時代を意識しながらも新しい要素を取り入れた演出でした。

演出について印象にのこっていることをいくつかかいてみます。

舞台

舞台には、左側の袖から舞台中央に向かって巨大な鏡面の壁となっており、右側の袖から中央に向けて、舞台背景が描かれた壁面が設えられていました。ですので、舞台はV字型になっているような状況です。

鏡がありますので、奥行きがあるようにおもえます。合唱が入ってくる場面だと、実際の人数よりも多く見えますし、照明の反射光がさまざまな模様を壁に投げかけていて、たとえば合唱が歌っているシーンでは、壁に合唱の方々の影がうつりこんで、幻想的な雰囲気を醸し出していたように思います。

第二幕の背景

特に、第二幕では、パラソルが虚空に浮かんでいて、壁の模様は鳥が列になって飛んでいるシーンが描かれていたところは幻想的でした。列に鳴って飛ぶ鳥は、まるで乱視でみたかのように、ダブって見えるような描かれ方がされていて、それがなにか立体感を持つように見えたのもなかなか興味深いものでした。

グランドピアノ、衣装

全ての幕において、茶色い古いグランドピアノが使われていて、あるときはテーブルであり、あるときはヴィオレッタが横たわるベッドだったり、と活躍していました。

衣装はオーソドクスな19世紀風なものでした。女性の衣装はずいぶんと美しく、特に第二幕第二場のフローラの衣装は、レース編みのような細かい花の飾りが美しく、ないかアール・ヌーヴォー風でもあり、アートアンドクラフト的でもあり、という風に思いました。

幕?膜?

それからもっとも効果的だったのは、膜というか幕というか、薄地のカーテンが第一幕の冒頭と、ヴィオレッタ病床の場面で使われていたことです。

特に病床の場面では、ヴィオレッタの横たわるピアノと、アルフレードやジェルモンの間に、天井から垂れ下がる薄地のカーテンがあって、手を触れたり、手を握ろうとしても、その薄地のカーテン越しになってしまうわけです。

すでに、ヴィオレッタとアルフレード達の間にはなにかしらの壁がある、ということを示しているもので、その壁というのが、たとえば、ヴィオレッタの朦朧とした意識が創り出すもの、ということも言えるでしょうし、ヴィオレッタが臨死体験に際して現実と乖離している、ともとれますし、あるいは死を前にしたヴィオレッタの人間性と、世間一般の人間性の壁、というようにもとれるわけで、なかなか興味深い仕掛けだったと思います。

自由の女神

第三幕の最後のシーン、舞台と客席の間には、巨大な円形の穴があいた壁があって、上部だけ劇場の赤いカーテンのような絵が描かれています。第三幕の演技は円形の穴ごしに見えるようになっています。

ヴィオレッタの最期のシーンで、一瞬、病気が回復したかのような錯覚を覚えてから、息を引き取るシーンで、ヴィオレッタは円形の枠を乗り越えて客席側に来て、赤い布地を右手に掲げて立ったまま幕切れ、となります。

このポーズが、私には自由の女神のようにみえて、ああ、ヴィオレッタは死んでやっと自由になったのか、などと思いました。

枠を乗り越えて客席側に来るというのも、なにか死に際して三途の川のような境界をこえた、とも思えますし、あるいは当時の抑圧された状況から、比較的自由になった現代へヴィオレッタが到達した、というふうにもとれ、いわゆる「第四の壁」のようなものを意識させる演出だったように思います。

おわりに

写真なく書くのはなかなか難しいです。ご覧になった方にはわかっていただけるのかもしれませんのであえて書いてみます。

オペラの楽しみのひとつは、現代においては演出家の意図をあれやこれやと想像することにあると思います。これまでもいろいろと妄想しましたが、今回もずいぶんと頭の体操になりました。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

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新国立劇場《マノン・レスコー》その2──「女の子は女だよ!」

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はじめに

幕がひけた後の新宿です。もうちょっと引くと面白かったのですが、iPhoneの単焦点レンズですと、こんなかんじにしかなりません。まあ、限定されたものの面白みというものがあるのだと思います。

マノン・レスコー、引き続き

歌手勢では、マノンを歌ったスヴェトラ・ヴァッシレヴァがとりわけ印象的です。舞台がキリッとしまりました。

特に、二幕のマノンの悪魔っぷりがいい感じです。あそこは、マノン役の見せ場だと思いますが、本当に濃密で集中したパフォーマンスでした。時を忘れた感じです。

さすがにそれらしい演技です。でも本当の悪魔はそうではないのかも、とも。とにかく、男はアホですな、というのが結論か。経済学は女性のほうが得意なのでしょう。

ヴァッシレッバは低音域も豊かで、重みのあるソプラノです。プッチーニ役が得意とのことですが、ヴェルディの主役級はいけそうです。ヴィオレッタは当然ですが、この方のデズデーモナとか聴いてみたいです。なんか、《ばらの騎士》の元帥夫人とか《カプリッチョ》の伯爵夫人もいけるのでは、とか思ったり。あるいはジークリンデ、とか。本当に綺麗な方です。

第二幕の途中登場のダンサー。男性ダンサーが女性的バレエを踊るという、フランスの頽廃を皮肉ったもの。男性が白粉で顔を真っ白にしているというのもなにか示唆的です。中性化が革命につながる? そういうものなのでしょうか。

終わりに

今日、一緒に飲んだ高校時代の友人。幼稚園に通う娘さんがいるのですが、一言こうおっしゃっていました。

「女の子は女だよ!」

ありがとうございました。今日一番の名言をいただきました。

ではグーテナハトです。

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役人は●●です──《こうもり》その4

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先日の公演がおわり、オペラシティに入っている書店に行こうとおもったのですが、なんとオペラシティは全館休館日でした。まったく、どういうことなのでしょうか。

で、巨大なオペラシティのアーケードをポチポチ写真にとっていまして、その一枚がこちら。ここ、私が東京でもっとも好きな場所の一つです。

それにしても、《こうもり》第三幕は厳しい役人批判でした。それは看守のフロッシュのことです。

どうも実際の台本にでは見つけられなかったのですが、第三幕に以下の様なセリフがあったように思います。

「酔っぱらいのバカ役人!」とアルフレートがフロッシュを揶揄するのですが、それに対してフロッシュは「酔っぱらいは余計だ!」といいます。つまり、バカ役人ということは認めているわけです。
(バカと言う言葉は、別の言葉だったかもしれません。)

また、フロッシュは確かになにか間抜けな看守という役柄ですので、「バカ」といった類の言葉で笑い飛ばすのは一向に問題ないのです。ですが、シュトラウス二世が革命にとらわれていたということを思うと、なにかしらの意味があるように思えてならなかったりします。

ちなみに、フロッシュのことを「ラクダ!」といって揶揄する場面があります。字幕ではラクダの横に「馬鹿者」といったたぐいの言葉が添えられていて、同義だということが示されていたと思います。これももとの台本にはないもののようです。

この駱駝、という言葉。ニーチェなんでしょうね、きっと。

それにしても、徐々に年度末が近づき慌ただしくなってきました。寒さも少し和らぎつつあるのでしょうか。今日の昼間は、コートなしで過ごせました。

みなさまの明日も良い一日でありますように。グーテナハトです。

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世界市民?──《こうもり》その3

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閉幕後の風景。日が長くなってきましたね。閉幕後も明るいとなにか嬉しさを覚えます。

先日に続き《こうもり》の中に垣間見える政治的要素について、です。


第二幕の最終部分で、ファルケ博士が唐突にこういうことを言います。

見たところ ここにはたくさんのカップルがいて
たくさんの心が愛の中で結ばれています そこで
私たち皆でひとつの大きな絆を作ってはいかがでしょうか
姉妹や 兄弟となって!

(中略)

親しげな「君(ドゥー)」という呼び名を贈りましょう
いつまでもずっと 今日の日のように
明日もまたそう思い続けましょう!
まずキスを 続いて君(ドゥー)を 君 君 君といつまでも!

訳はオペラ対訳プロジェクトから引用いただきました。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/287.html

他愛もないようなシャンパンの歌で世界市民主義を表明するかのような部分で、劇の本筋とは関係のない唐突感を感じます。シャンパンによって浮かれている参加者の感傷に訴えているような感もあります。ですが、なにか永遠に得ることのできない革命の理想が差し込まれているような部分だと感じたのです。

これは、友愛の理念なのではないか、と思うのです。これは、18世紀啓蒙思想の結果で、フランス革命における三つの理念の一つですが、もともとはフリーメイソンの思想から繋がるものでもあります。

(友愛とは→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E6%84%9B

今回の演出では、オルロフスキーが従者の肩に頭をあずけるシーンが象徴的でした。階級を超えた友愛が示されていたように思えました。

(つづく)


今日の午後は家族で近所をぶらぶらと散歩しました。

太陽の光も随分と明るくなってきました。昼の長さは晩秋のそれと同じぐらいになっているはずです。おそらくは10月から11月と同じほどでしょう。

太陽の光が少しずつ赤みを失い、白く透き通ってきているように思います。同じ場所、同じ時間であっても季節によっては全く別の場所にいるようです。

いや、それは「別の場所にいるようです」ではなく、実際に「別の場所」なのです。

同じ日本にいると思っても、地球は公転していますので実際には太陽との位置関係においては別の場所にいるわけです。視点を変えるとあらゆるものの意味が変わってきます。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

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階級の壁を壊す──《こうもり》その2

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新国立劇場の隣にそびえるオペラシティ。もう竣工から18年ですか。

今日も《こうもり》について。

オペラ《こうもり》は、ウィーンのどんちゃん騒ぎを描いたくったくのない娯楽オペラだと思っていました。際にはヨハン・シュトラウス二世の政治的主張が色濃く織り込まれているオペラなのではないか、といまさらながら気づいてしまいました。

それは、今回の公演パンフレットの中で、西原稔さんが書いておられた「ヨハン・シュトラウス──ワルツの父とワルツ王との親子の確執」のなかで、ヨハン・シュトラウス二世が三月革命を支持していたことが書かれていて、確かに当時のシュトラウス二世ぐらいの世代だとそうだろうなあ、と思ったのです。シュトラウス二世は1825年生まれ。1848年の三月革命当時は、23歳です。若いシュトラウス二世がそうした新しい思想に感化されることに不思議はありません。

そうしてみると、いろいろなことがわかります。

たとえば、小間使いアデーレのおかれている境遇が描かれています。それが嘘だとしても、病気の叔母を見舞うのも雇い主の許可無くしてはなりません。また、アイゼンシュタインが、女優としてパーティに出ていたアデーレを「うちの小間使い」というと、「そんな侮辱をよくも!」とパーティの参加者に糾弾されます。つまり、小間使いというのは実に低い地位に置かれていた存在というわけです。こうした使用人の地位の低さは、たとえばカズオ・イシグロの「日の名残り」や、ロバート・アルトマン監督の「ゴスフォード・パーク」などに見られるものです。その小間使いが、女優に化けて、階級を超えていこうとする姿が描かれている、ということになります。

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特に、第三幕は圧巻です。女優の才能を見せる場面で、女王を演じるまでになります。これは小間使いが女王にもなりうる、という階級の崩壊をも描いているものと捉えられるのではないでしょうか。このオペラ、全てはシャンパンがもたらす幻であるというものです。つまりは、こうした階級ですら、幻である、ということになります。これは、実に革命的であり、当時においては反体制思想です。

そういう意味において、まるで《フィガロの結婚》のような政治的オペラといえるわけです。

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今日も寒い一日。毎日お昼に散歩することにしています。いつものようにコートを着ないで外に出ましたが、さすがに寒いですね。寒さが鋭く突き刺さってきました。周りにはコートを着ないで歩いている方々がいましたが、みなポケットに手を入れて前かがみになって足早に歩いていたようです。

鉛色の空は無慈悲に太陽の暖かさを阻んでいました。

ではグーテナハトです。

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