やめられないペーター・シュナイダーとリオバ・ブラウンのアルバム

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夕暮れ。冬晴れの関東の美しさは奇跡的です。雪に閉ざされる冬ではないのがありがたいです。

最近やめられなくなってしまった、こちら。リオバ・ブラウンとペーター・シュナイダーのアルバム。

よく知られているように、歌詞は、当時不倫関係にあったとされているマティルデ・ヴェーゼンドンクによるもので、そうした不倫関係が《トリスタンとイゾルデ》につながったといいます。この歌曲集は、《トリスタンとイゾルデ》の作曲時期と重なっていることで、曲想が非常に似ています。

「ヴァーグナー大事典」によれば、「夢」「温室にて」の2曲が《トリスタンとイゾルデ》を先取りしているそうです。

ですが、私は第4曲「悩みSchmerzen」が《トリスタンとイゾルデ》の和声の感覚にマッチしていると思いまして、繰り返し聴いてしまいました。どんどん続いていく転調めいた旋律が、人間なのかあるいは世界なのかわかりませんが、永遠の流転を表しているように思うのです。音楽というのは本当に恐ろしいものです。世界と直接繋がり、人間の心に直接アクセスしてきますから。

それから、《パルジファル》のクンドリのパートも入っていて、先日も触れたように、こればかりはもうたまらない美しさと悲しさと優しさと妖しさなんでしょう。クンドリはパルジファルを誘惑する際に、この歌の中でパルジファルの母親の記憶をパルジファルに喚起させようとしますが、その妖しさ。母親を使い男を誘惑するという恐ろしさ。ワーグナーは文学と音楽の両面における天才だったということがよくわかります。

なんだか昨今いろいろと世界認識が変わっているのですが、そうした気分になったのもこのアルバムを聴いたからだと思いました。

今朝は早起きでやっと書けました。今日いちにち良い日でありますように。

憂愁のワーグナー

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うーむ、なんだか色々ありすぎる毎日で、息をつく暇もありません。毎日書きたいこのブログも、なんだか1種間以上休んでしまいました。でも、今日はこちらを聴いて癒されました。

リオバ・ブラウンの歌うワーグナ。指揮はペーター・シュナイダー。この二人のワーグナーは本当に素晴らしいです。憂愁とタイトルに書きましたが、筆舌に尽くしがたいものがあります。何か、古くて品のある日本家屋が雨にうち濡れているような感じとでもいいましょうか。おそらくはそこには着物の女性がいて、外を見やっているような、そういう感じ。特に、《パルジファル》のクンドリが歌う例の歌は、パルジファルを誘惑する場面でありながらも、そこに品格があるような、そういう世界でした。本当のことがない世界において、ごまかしがきかないこういう世界ばかりだけが真実だなあ、と思いました。

12月に入って冬本番です。みなさまお身体にはお気をつけください。

それではおやすみなさい。

今日の《トリスタン》はクライバー

今日はこちら。カルロス・クライバー盤です。

ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲
コロ(ルネ) ライプツィヒ放送合唱団 プライス(マーガレット) ファスベンダー(ブリギッテ) モル(クルト) フィッシャー=ディースカウ(デートリッヒ) ゲッソ(ベルナー)
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この盤はもう語りつくせないものがあります。何度も書いている気もしますし、と思って調べてみると、あまり書いてないですね。9年ほど前に書いた記事が出てきたぐらい。

バレンボイムの重みのある演奏を聞いた後に、クライバーを聞くと、切れ味のいいナイフで紙を切るような感覚を覚えます。こう言う洒脱さというのは、本当に天才のセンスなんだろうなあ、と思います。聴いている方が、何かトリスタンとイゾルデの、切迫した気分に染まってしまうような気がします。恐ろしいことです。

ちなみに、iCloudミュージックライブリで聞いていたのですが、マッチングがおかしいものを見つけてしまいました。私はこのCDを持っていますが、Apple Musicにも収録されているので、別のMacで聞き時には、マッチしたApple Musicの音源をストリーミングで聞くことになるのですが、驚いたことに2枚目を聴いても1枚目が流れるという不思議さなのです。

iCloudミュージックライブラリの方は、もう少し使い勝手が良くなるといいですね。

人生いろいろだなあ、と思った1日でした。このいろいろな人生の波にうまく乗っていかないと、と思ったり。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

深く重い酩酊──バレンボイムの《トリスタンとイゾルデ》

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なんか、急に重い《トリスタンとイゾルデ》を聴きたくなりました。重くて甘いのはバーンスタイン盤ですが、あいにくApple music で聴くことができないので、別の思い演奏を、と思い、バレンボイム盤を。

そういえば、私、バレンボイムの来日公演で《トリスタン》を聴いているんですが、あまり記憶がないわけでして、覚えているのは、ルネ・パぺの素晴らしいマルケ王のことばかりでした。ひたすらに、NHKホールのSprawl な会場のシートに身を沈め、聴いたのですが、それはそれは体調が悪かったなあ、と…。

ワーグナーは聴く人の体調を要求するなあ、と。誰しもが思うことですが、あれは修行に他ならないです。

でこの演奏もやはり、重い。フルボトルの重く濃密なワイン。酒石の結晶を含んだ濃厚なワインのような。この演奏、多分、聴きすぎると二日酔いするほどのもの。その場は甘美だか、少しずつ少しずつ、高揚と引き換えに理性を奪われ身体を明け渡していく。そんな感じ。危険。それが、人間の本性だとしたら、極めて危険。だが、そうだからこそ、この曲は、後世を二日酔いにして、まだ、そこから醒さない。酔った男は数多。

そんな演奏に思います。

ただ、こうした音楽に対する感想というものは、どうしても主観的で、必ずしもわかりあうことができないものなのではないか、という疑いを感じずに入られません。定量化のできない、まさに個々人に取っても主観的な判断であり、その時々の体調によっても左右されるような、そんなゆらぎはかない判断を書くことに何の意味があるのでか。確かに、反省的に考えると、バレンボイムが重い、というのはもしかすると私の臆見かもしれません。バレンボイムの弟子であるエティンガーの降った《こうもり》の重さの記憶があるからです。

ですが、それにしても、さらに演奏に耳をすますと、このテンポの緩め方は本当に重厚なものです。ひどく重い感覚を呼び起こすのです。まるで、足かせをはめて歩くような。ですがこの重みこそ、何か重いものを持ち上げたり、あるいは重いものの上に横たわったりするときに感じる安心感のようなものをさえ感じるわけです。それは恍惚としたもののような高揚で、繰り返すのも憚られるものの、それでも繰り返すとすれば、それは、明らかに静かで深く重い酩酊でしょう。深く重い酩酊。そのまま眠りにつけば、そこで命を奪われるような。

なんか変な感じになってしまいましたが、つまるところすごい演奏でした、ということです。しばらく《トリスタン》を色々聴き比べてみたいなあ、と思いました。

酔って書いているわけではありませんが、長々とすいません。おやすみなさい。グーテナハトです。

夏休み6日目──IKEAへ

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いや、ほんとうにすいません。夏休みシリーズということで、普段行けないところに行っているのですが、今日は関東某所のIKEAに行ってきました。

2年ほど前にも行ったことがありますので、今日が2回目。

で、建物の中に入ったとたんに妙な感動が。

えーっと、ドイツの空港の匂いがするのですね。これ、なんですかね。ドイツっぽい匂い。むんむんくる、ドイツの匂い。

この匂い、べつにビールの匂いでもなく、ザワークラフトの匂いでもなく、塗料とか接着剤とか、そういう化学的な匂いなのです。

それだけで、もうテンションが最高潮に沸騰してしまいました。

レストランでもハイテンション。なんだか、ドイツの美術館とか、大学のメンザの雰囲気がさく裂していて、無駄にたくさん注文してしまいました。でも2年前に行ったときに比べて、食事の値段は上がったような気が。円安ですから仕方ないのかなあ、と思っています。

売っている品も、なかなかおもしろくて、美術館を見ているようでした。ちなみに、いつものように、家族はどんどん先に行ってしまい、私だけじっくり見る、というパターン。これも、美術館に行った時と同じパターン。

しかしなあ、IKEAは商売がうまいですよ。順路が固定されていて、その順に歩いていくと、購買意欲がどんどんそそられていくのですから。最初に、部屋のコーディネート例をいくつも見せられるのですが、これが本当におしゃれで、狭い空間を本当にうまく使って、しゃれたコーディネートができますよ、というプレゼンテーションになっているわけです。その後、そこに使われていた製品順路上に何度も何度も登場します。フロアもまさに美術館のように順路で構成されていて、IKEAの意図通りの順番で商品を見て回るということになるわけです。

(ちなみに、抜け道がいくつかあるので、それがわかるとなお面白いのですが。)

先ほども言ったように、順路に従って歩いていくと、いろいろな商品が繰り返し登場するのですが、子供向けのぬいぐるみなどは、アクセントのように随所に現れ、子連れ客はその都度その都度対処が大変そうでした。全然関係のない売り場に突然ぬいぐるみが売っているコーナーが出てきますので、サブリミナルのように、何度も何度も子供に刷り込まれるという感じ。食器売り場のぬいぐるみにご執心になってしまった子供に困ったお母さんの独り言がみみにはいってきたのですが、「ここで売っているわけじゃないのかな、あ、でもバーコードついてるから、買っても大丈夫そうだね」なんてことを言ってました。

極めつけは、展示フロアの2階から、倉庫のある1階へ降りたとき。そこにも、なぜか子供向けのおままごと道具がディスプレイされていて、「あれ、買い忘れてません?」というIKEAのメッセージを感じたりしました。

この繰り返し繰り返し現れるというのは、まるでワーグナーのライトモティーフのよう、なんて。いやいや、欧州人はそういう構築美には長けていますから、共通するものがあったりして。

でも、ホスピタリティは十二分だと思います。素晴らしいなあ、とおもいました。やはり、二度来てもらうためには、お客を楽しまさなければなりませんし、失礼があってもよくないわけで、そういう意図はいろいろと感じて、さすが!、と思いました。

というわけで、北欧にちなんだ楽曲を。といっても、ワーグナー。

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スウェーデンの生んだ名歌手、ビルギット・ニルソンによる≪トリスタンとイゾルデ≫。まったく化け物のような楽曲なんですが。今日は、そこから最後の愛の死を聞いています。やっぱり、巧いのですが、なにか醒めた冷静さのようなものも感じたり。ベームもベームらしい雄大なもの。古き良き欧州って感じです。

それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

CD発売前にApple Musicでラトルの《ラインの黄金》を。

リヒャルト・ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」[2CDs]
ミヒャエル・ヴォッレ クリスティアン・ファン・ホーン ベンジャミン・ブルンス ブルクハルト・ウルリッヒ エリザベート・クルマン バイエルン放送交響楽団 サイモン・ラトル
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現在、新国立劇場では《ラインの黄金》が上演中ですが、理由あり、行けるかどうかわからない状況です。

ですが、そう言っても予習はしておかないと、と思い、Apple Musicで調べたら、あれあれ、こんな音源が。

というか、これって、CDの発売は10月28日ですが、もうApple Musicでは聴けているという。

こちらがハイティンク盤。私の持っている盤とはジャケットが違いますけれど。

Das Rheingold
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バイエルン放送交響楽団のリングといえば、私の大好きなハイティンク盤があります。本当はこれを聞きたくてApple Musicで探したんですが、ラトル盤が出てきてしまったのです。

こちらです。 → https://itun.es/jp/PhJi-

2015年4月24日から25日に録音。録音場所はヘラクレスザールです。ハイティンク盤と同じ。当然。で、やっぱり音はハイティンク盤ととても似ています。本当にクリアでくっきりとした音響です。これは良い音源です! 明日も聴かないと。

フライアを歌うアンネッテ・ダッシュとか、ファーゾルトのペーター・ローズとか、新国立劇場に登場された方も参加されていて、なんだか新国も世界とつながっているなあ、と思ったり。

でも、ああ、やっぱりワーグナー聴くと落ち着くなあ、と思いました。5年前の東京リングであんなに聴き倒した指環ですので、ほとんど身に染み渡っているような感覚を覚えました。

オペラは実演で聴くのが一番。でも、一度実演を観ておくと、いろいろな音源を聴いても、なんとなく場面が想像できて、音源だけでもかなり楽しめます。

さてさて、今年度も折り返していますが、なんだかやらないといけないこと、やりたいことができずじまいな毎日です。少し前にも書いた気がしますが、何かを変えるためには「時間配分を変える、家を変える、付き合う人を変える」しかないそうです。

で、できることといえば、「時間配分を変える」しかないなあ、と思ったり。ふむふむ。前と同じことを書いている。それで一応実践中ですけれど、どうなることやら。もっと変えたりして。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

《さまよえるオランダ人》と《アラベラ》が似ている。。

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1月の新国立劇場は《さまよえるオランダ人」でしたね。

飯守泰次郎さんの指揮が素晴らしかったです、緊密というか、Solidという言葉を思いだしながら聴いていました。前回のパルジファルと同じく、微細なテンポコントロールが見事で、ダイナミズムや重厚さを表現していたと思います。

で、なんだか変なことに気づいてしまいました。

《オランダ人》は《アラベラ》と似てますね。オランダ人もマンドリーカも父親が連れてきた花婿で、あまり世間なれしていない男。で、ふたりとも妻となるべき女性の素振りを誤解して、すねてしまうという。《オランダ人》にも《アラベラ》にもそれぞれ、エリック、あるいはマッテオという、ヒロインに片思いを寄せる男が出てきますし。

2010年新国立劇場《アラベラ》のマンドリーカも、今回のオランダ人もどちらも、トーマス・ヨハネス・マイヤーで、私は強い既視感を覚えまして、こんなことを思いついてしまいました。もちろん、トーマス・ヨハネス。マイヤーの歌唱はやはり素晴らしかったのです。この方の《ヴォツェック》は忘れられないですね。

でも、この考え、意外と図星かも。同じことを考えている方がいらっしゃいました。「頭がいい人、悪い人の話し方」を書かれた樋口裕一さんです。

http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-283f.html

リンク先は、その2010年の《アラベッラ》についての感想を書いておられます。もう4年も前の話ですね。

それにしても、いろいろ興味深いです。もう少し考えてみないと。

なんだか今日も世界の波にのまれるような一日でした。いろいろありますが、良いことばかりではありません。

ではグーテナハトです。

劇空間を統一する演奏──新国立劇場《パルジファル》その4

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はじめに

世の中というのは十二分に非論理的で、自らの努力でその妥当性を変えることはできません。こうなったら、アウト、という状況にならないよう、常日頃細心の注意を払いますが、外的要因でそうした配慮がおじゃんになることなんていうことはままあるものです。だからこそ、常日頃の細心の注意が生きてくるのでしょう。

飯守さんの音楽

さて、今日は先日の新国立劇場《パルジファル》の演奏面について。といっても、後述しますが、オペラにおける演奏面というのは、なにか言葉にするのが難しい物があると思います。

飯守さんの指揮は、じつにゆったりとしていました。それは演奏時間にも現れていて、予定を20分オーバーしたぐらいです。それが、演奏時間のみに起因するかはともかくとして。

ただ、聴いている中では、まったくそのスローテンポに違和感を覚えることはありませんでした。それは奇をてらうようなことはない本当に湧き立つような自然なものでした。そのおかげで、劇空間に没頭できたのです。

以前から思いますが、いいオペラの指揮は、おそらく、それが印象に残らないぐらいがいいのではないでしょうか。音楽についてオペラ公演でかたる、というのは、いい場合もあれば悪い場合もあるのだと思うのです。音楽になにか不自然さがあれば、間違いなく劇空間に入っていけなくなる気がします。今回は、前述のとおり、劇空間に没入できましたので、素晴らしい指揮だったのだと思います。

これと似た経験は、2007年のペーター・シュナイダーの指揮でも感じました。あれが、私の中の最高のオペラ体験ですが、演奏中より、そのあとからその絶妙さを、反省的に認識しました。

逆のパターンも有ります。劇の流れを、自分の方向に矯正しようとする指揮です。まれに聴きますが、個人的には、劇に入ろうとした時に音楽が気になって、あれあれ?、と思うこともあるのです。このあれあれ?、というのは、もちろん良い面も含んでいます。私の考えでは、音楽における「驚き」こそが、音楽の「意味」なのですから。ここでこんなことやりますか? ということをやられてしまった時の驚きが、音楽の愉しみの一つなのです。

ですが、オペラの場合はどうなのか。緊密な一つの劇空間にあっては音楽だけが突出することはできません。もしそれがそうだとすれば、それはバランスを欠いているはずです。

そういう意味でも、今回の演奏は、劇空間を統一に導く、素晴らしい演奏だったわけです。音楽がだめなら、劇に没頭できません。私が、パルジファルの愚者ぶりに感動したり、クンドリの横顔に深い感銘を受けられたのも、音楽に支えられての事だったといえます。

終わりに

指揮者もやはり組織を束ねる長です。《パルジファル》という6時間に及ぶパフォーマンスを発揮させるためには並大抵の努力では足らないでしょう。

オケのメンバーも必死です。ピットをのぞき込むと、フリスクが譜面台に置いてあるのをみて、なにかオケの大変さを思い知った気がします。

芸術だろうが会社であろうが、組織の牽引は同じ。組織の長というものは、組織のために常に闘うものであるべきです。

飯守さんは十全に戦っておられて、オケを引っ張っていたのだ、そう思いました。

本日皆既月食。欠けた月を仕事場の洗面所の窓のブラインドの隙間からのぞきました。太陽に吠えろの石原裕次郎のように(笑)

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

救われた女クンドリ──新国立劇場《パルジファル》その3

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はじめに

今週の日曜日に行った新国立劇場《パルジファル》。多分18時ごろの写真。第二幕と第三幕の休憩の時に撮りました。

今日はクンドリ

今日はクンドリについて。このキャラクターはヒロインとは言えないでしょう。そこまで単純な性格付けができるキャラクターではありません。

《パルジファル》における謎めいた女性。善悪、それはもちろん、相対的な価値観に過ぎず、「とある言語ゲーム」において対極の側面をあわせ持つ人物、という方が正確な言い方とおもいます。

そのクンドリを歌い演じたのはエヴェリン・ヘルリツィウス。ドイツのメゾ・ソプラノです。バイロイト、ケルン、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーンでもクンドリを歌っています。また、ブリュンヒルデもバイロイトで歌っていますし、イゾルデもレパートリです。

歌唱はもちろん安定していて、静謐と狂気を自在に使い分けていました。あのLacht と絶叫し、十字架を背負うイエスを嘲笑ったことへの究極の悔恨の表現は怖ろしさすら感じました。おそらく、あそこの一点において、アンサンブルの中で突出したものを体現したのだとおもいます。

一方で、第三幕の場面。あそこは絶品です。歌詞はほとんどありません。クンドリは黙劇を演じるかのようです。が、ここがほんとうに素晴らしかったのです。人間の人間らしさとはこういうものなのか、と思います。

苦しみを乗り越え、パルジファルの脚を洗い、香油を塗るクンドリに、もはや迷いはりません。パルジファルとエロスを超えた愛情で結ばれている至上の幸福感を感じました。

ヘルリツィウスの表情は第二幕の欲情に燃えさかるそれではなく、老成し落ち着いた老夫婦の愛情なんだろうなあ、と思います。髪の毛を包むベールをとると白髪になっていたところに私は本当に本当に心をうたれました。長い時間がなせる奇跡を見たのだと思います。

もちろん、時間と空間が混合した世界であることはリブレットにある通りです。それでも、第二幕のクリングゾルの城の崩壊から長い時間が経っていることの示唆、つまり、クンドリの白髪もそうですし、パルジファルが水を受け取り上着を差し出す青年が、前奏曲でアムフォルタスに水を与えた少年で、成長しながらも、そこになにかしらの貧困のなせる不幸という文脈を、感じ取ることができるとか、そうしたところで、劇空間の時間的拡がりを認識できたのだと思います。

そうした、時間の中を苦しい旅を続けたパルジファルもクンドリの境地は、どのような宗教においても普遍的な巡礼や回行といった行をおさめた者の境地なのでしょう。そう意味では時間という、人間が決して操作できない最大の自然力こそが、人間を鍛えるのでしょう。

私はあの第三幕のクンドリの横顔を一生忘れることはないと思います。辛苦を乗り越えた横顔であり、そこで得た安らぎを味わう横顔だったと思います。

終わりに

明日も公演が14時からありますね。いらっしゃる方、どうぞ楽しんでいらしてください。って、ネタバレのことばかり書いてすいません。

6時間の公演を聞き終えたあと、おそらくその業績を名刺に書くことがゆるされるんじゃないか、と思うほど。大袈裟ですかね。たしか《失われた時を求めて》をすべて読んだ人は、その業績を名刺に書ける、という話が会ったと思いますが。。

それではみなさまおやすみなさい。

愚者パルジファル──新国立劇場《パルジファル》その2

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はじめに

みなさま、今日の台風はいかがでしたか。私は台風が来る前にということで、早々に仕事場に向かいました。いつもより一時間半早く到着しましたが、悠々と通勤できました。早起きは三文の得。

こちらの写真が台風前夜の新国立劇場。

あらためてみてみると、凄い色の写真になってます。広角でパースがめちゃめちゃですがこも崩壊感がいいのかも。なんだかよくある舞台装置みたいです。

昔、バイエルン州立歌劇場で《マノン・レスコー》觀ましたが、舞台上に、バイエルン州立歌劇場が現れて驚きました。アンドレアス・ホモキの演出だったはず。新国でも、新国を舞台にした演出ができるかもしれない、などと。もちろん、《ヴォツェック》のようにじゃぶじゃぶと水を張ると面白い。この水庭が舞台なんですよ。なーんて。

愚者パルジファル

新国立劇場《パルジファル》の感想。その2です。

とにかく、パルジファルは愚者としての描かれ方。フォークトやドミンゴだとこうはいかないのかも、などと。
ただ、これも真実。この方が真実。パルジファルとイエスがかさなるようにおもえたし、作務衣のような服からは、お寺の小坊主みたいな雰囲気を感じました。

すこし驚いたのが、第二幕での「アムフォルタス!」と絶叫するシーン。あそこは、決定的認識で、英雄に変貌するシーンと思っていましたが、そうではありませんでした。パルジファルは、アムフォルタス、と叫びながら、最後のほうは、泣き崩れるようだったのです。まさに、共苦。苦しみに同化し、泣き崩れた感じ。華々しい認識の勝利とか、エラン・ビタールのような価値の転倒、コペルニクス的展開のような爆発力はありません。
これ、遠藤周作「死海のほとり」に出てくる人間的イエスなんだなあ、と。カラヤン、ショルティ、ティーレマンとその他の盤でも聴いてみましたが、こういう歌い方はないです。それらはやはり英雄的パルジファルなのでしょう。

ですが、今回のパルジファルは違いますから。これが本当の英雄。本当の聖者。私はそう思いました。

クリスティアン・フランツ、少し調子悪い?と思えるなにか元気のなさなようなものを感じましたが、そういう設定だから妥当なのでしょう。声の美しさは抜群。透き通る高音は、パルジファルの心の純粋さがよく現れていました。演技も本当に巧いです。アムフォルタスの嘆きのモノローグの最中にも、なにかたじろいだり、驚いたりするシーンがありました。愚者パルジファルを十全に演じきっていたと思います。

最後、仏教へと消えしていくシーンの、あの断固とした表情は忘れられないです。悟りの境地にある達磨大師のような達観した表情。私もいつかはあのような表情を浮かべて全てを見やってみたい、そう思います。

終わりに

このあとクンドリ関連も書いたのですが、それはまた明日。これは少し続きそうなネタです。

それにしても、音楽的なことはあまりかけず、いつもの様についつい演出や演技などについて印象に残ったことを書いてしまいます。私はオペラにおいてなにを観ているのか。。

次の公演は10月8日です。でもお昼の2時からですのでお勤めの方は難しそうですが、ぜひぜひ。

ではグーテナハトです。