塩野七生の「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」

久々の天気に恵まれた木曜日。後二日でウィークデーは終わります。週末は週末でやらねばならないことがありまして、いまから予定を見直しています。

さて、先日から読んでいるこの本。読了しました。

題名からして面白くて、優雅という言葉と冷酷という言葉のコントラストが効果的です。

内容もやはり面白いのですが、はたと気づいたのは、塩野七生さんが女性であるということ。つまり、チェーザレにたいする共感が、偉大なるタレント(才能)をもつ男性への普遍的な感情に昇華しているのではないかということ。

身近な例で大変申し訳ないのですが、たとえば「のだめ」における千秋真一とか、あさのあつこさんの「バッテリー」におけるピッチャーの原田君とか、その他少女マンガなどで見られるような(といっても僕は少ししか読んだことありませんが)、女性の描く男性像は、ほとんど神業に近い技量を持った天才であることが多いです。

チェーザレ・ボルジアの場合もそうです。武芸に優れ、卓越した政治能力があり、部下を魅了する十二分なカリスマ性に恵まれている。父親がローマ法王であることを十二分に利用できる「血統」を持っている。などなど。 「解説」にも書かれていたことなのですが、加えて、ほとんど恋愛感情的にちかい共感が文章から沸き立ってくるのを感じました。

物語は、チェーザレの父親であるアレッサンドロ六世の即位から物語は始まり、一時は枢機卿の衣をまとうのですが、弟を「殺して」まで(文章では示唆されるだけです)、教会軍の司令官の地位をつかむ。フランス王との駆け引きを繰り広げながら、北部イタリアのロマーニャ地方の法王領内の僭主たちを次々と追い落とし勢力を広げてゆく。その手腕たるややはり神業的で、読んでいて溜飲が下がる思いすら感じます。気分いいですね。

後半部はその輝かしい生き方が暗転するわけですね。そのあたりの転落の筆致もすばらしい。「運命の女神に嫌われた」とチェーザレに語らせるわけですが、前半の「つき」を後半ではまったく失ってしまっている。それを、ユリウス・カエサルがルビコン川を渡ったときのような決断力が、大事なときになかったのだ、という言葉で残念がる塩野さんの文章には寂しささえ感じます。もちろん、チェーザレ自身その時点でマラリヤに侵されていたわけで、正常な判断ができなかったということもあるのですが。だからこそ運命に見放されたということなのでしょうけれど。

終幕部、チェーザレが死に至る場面の淡々とした筆致も見事ですね。雄弁でありながらもあっさりとした語り方でチェーザレの人生の終わりを描いていて、あっけなささえも感じる。どんなに偉大なペルソナも絶対に死には打ち勝てない。死んだら負けなのだ、という思い。惜別の思い。 そんなことを思いながら、一気に読み終えてしまいました。

余談ですが、マキアヴェッリの「君主論」はチェーザレに大きく拠っているのですが、そうした「古典」をほとんど読んでいないことに悔恨の念を覚えました。二次文献、三次文献だけじゃだめですね。一次文献を読まないと……。

今日聞いた曲はフランクのオルガン曲。本の色調によくマッチしています。詳しくは後日。