音楽をについて書くこと

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夏休み期間中、以下のコンサートに参りました。

  • 下野竜也指揮 読売日響 ブルックナー交響曲第五番
  • 大植英次指揮 東京二期会 こうもり
  • 尾高忠明指揮 東京フィル グレの歌

時間もあったと言うことで、他の方々の感想などを見て回る余裕がありましたが、凄く勉強になりました。

ここのところ、高名な音楽評論家の方のブログを読んでみると、なんとなく自分の聴き方が当てずっぽうでもないなあ、ということがわかった気がします。

音楽評論まで行かなくとも、楽曲を語ると言うことの難しさは痛いほど知っていますし、そこに正しいとか誤っているということも無いと言うこともわかっているのですが、それでもなお、一つの芸術事象を共有した者同士が、まったく別のことを思うというのも違うわけで、まるでベン図に重なる部分があるように、個々人の認識に重なる部分が出てくるわけです。

それを間主観性というのか意識一般というのか言語ゲームというのか、それぞれとは思いますが、そうした頼りない、それでいて現存するなにかを前提として人々は語り合い、何かを書くわけですね。

佐渡裕さんがベルリンフィルを指揮する際に言った「なにかいいものを作ろうとする共通の目的があるのが頼りだ」と言っていたのを思い出します。

強者くせ者揃いのベルリンフィルであっても、指揮者とともに美しいものを作ろうとする方向は必ず一致しているのだ、というような。

演奏者と聴取者も同じ。

お互いなにか美的な者をお互い求め合っている。確かにそこには言語ゲームのような「クラシック語」や「ジャズ語」というものがあって、それを前提としているわけですが、その中でお互いに同じ方向を向いている。その同じ方向を向いている聞き手それぞれが語ると言うことは、やはり同じ方向を向いて語っているということなのでしょう。

その方向がずれていないと言うことは、いわゆる「クラシック語」を私も少しは理解出来ているという証左になりましょうか、などと安堵感を得たのでした。

 

意識一般:Bewußtsein überhaupt でしたっけ? 懐かしい。

 

今日の仕事は辛い。辛すぎて、毒舌。明日からはおとなしく生きていきます。

それではまた。

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