独仏間のかつての深淵 その二

過ごしやすくなった今日このごろ。嬉しい限りです。
先日の続きを書きます。夜更かしですが。。

ヴァーグナー大事典における記述


ドイツを焦土とした三十年戦争が終わったのは1648年のウェストファリア条約です。ここで国際法や国家の概念が現れたというのは世界史における必須問題です。
その後ルイ14世ものとで絶対王政を確立し、強大となったフランスは、帝国主義的領土拡張政策をとり、1681年にストラスブールというかシュトラスブルクを武力占領し、1689年にプファルツ継承戦争でプファルツへの侵攻を開始します。ドイツ諸邦は対抗し、失敗に終わるかと思いました。
が、フランス政府は近世史上初めて、一地域を全て無人の地と化すことを決意しました。フランスに対して中立を宣言し、フランス軍を友好的に招き入れた、神聖ローマ帝国直轄歳のシュパイヤー、ヴォルムス、オッペンハイムは、フランス軍によって焼き払われました。大聖堂は爆破され、歴代ドイツ皇帝の墓所は暴かれて略奪され、住民は放逐されました。その後、ハイデルベルクなどのフランス国境からライン川の間に位置する数十の都市と数千の村が襲われ、組織的に壊滅させられ、住民は根絶やしにされました。
この焦土作戦は、ドイツ国民に深い心理的ショックを与え、長期にわたって、道徳的退廃を産み出し、社会心理を荒廃させたのです。
これ以来、ドイツとフランスは宿敵どうしとなり、その後の歴史や文化において通奏低音のように、ドイツにフランスへの敵対心を与え続けることになるのです。

裏取り


こうした見方を、私は(恥ずかしながら)知りませんでした。私は、ドイツのフランスへの敵対心はナポレオン戦争によるものと思っていたからです。ですが、それよりももっと古く根が深いものだったということなのでしょう。
この部分はコンラート・ブントというドイツ人の歴史学者による原稿です。被害者側の記述なので、いささか感情的なのかもしれません。
手元にあった山川出版社の世界歴史大系ドイツ史第二巻における記述では、「プファルツの焦土化」という言葉が取り上げられていますが、文化史的な背景については語られていません。
確かになにかしら非人道的な事実があったのでしょう。
ただ、そうした史実と思われる出来事をどう解釈するかは、その後の捉え方です。先日書いたように叙述された歴史は恣意性を帯びるのです。真実などはありません。あるのは解釈だけです。
当時のフランスは、武力に物を言わせて、言いがかりをつけては隣国を侵略するという侵略国家だったようですね。とくにマザランからルイ14世による親政になってからのことだと書かれていました。絶対王政、王権神授説。諸芸術のパトロンであり、自身もバレエを嗜んだルイ14世ですが、こうした一面も持っているのですね。独裁者は芸術を愛するということなんでしょうか。

その後

この延長線上にあるのが、ワーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》にあるフランスへの敵対心であり、1871年の普仏戦争であり、第一次大戦であり、ナチスのフランス侵攻なのでしょう。
そしてようやく、最初の「焦土化」から300年近くたった第二次世界大戦後、欧州議会の本部をストラスブールに置くということに象徴されるように、ようやくドイツとフランスはお互いを許しあったかのように見えます。
そうです。300年もかかるのです。こうした問題は、それぐらい腰を据えなければならないということなのです。

なんとか後記

やっとかけました。
それにしても、叙述されたことの難しさ、というものを感じます。歴史なんて、だれかが書いた一言で簡単に代わるものです。誰かが新聞に書けばそれが事実になってしまうということなのですね。
音楽評論もまさにそうなのでしょう。書いたことと音楽自体はまったくリンクしませんし、検証不可能です。当然ですが歴史よりも恣意性は高いです。大学の先生が音楽評論の妥当性について批判していたのを思い出しました。
逆に言うと、歴史も音楽評論ぐらいのものだということも言えるのでしょうね。
まったく世界は難しいです。
ではグーテナハト。