これは本当に考えさせられる……─エディエンヌ・バリリエ「ピアニスト」アルファベータ


私の友人。大学の授業発表で、彼と対談をしました。卒業式あとの徹夜の飲み会で、かれは、武満徹を論じて、しきりに日本と西欧のギャップをどう埋めるか、ということを話していました。私は当時は全部西欧に合わせてしまえばよい、と思っていましたので、そうした議論に心から参加することができず、傍観者として議論を楽しんでいた記憶があります。
しかしながら、「全部西欧に合わせてしまえば良い」などということはできるわけもなく、だからこそ、和魂洋才という言葉が生まれ、フォークでうどんを食べるような奇異な状況に相成っているわけです。
で、いつも思っている疑問。西欧音楽を我ら日本人が演奏して聴くという奇異な状況をどう説明するべきなのか。
ドイツ人にはわかるが、日本人には分からないフーガやハーモニーの感覚があると聴いたことがあります。言語によって体の底に染み付いた音韻の感覚というものもあるでしょう。体格の違いや文化の違いにによって声質はかわります。ウィーンのホテルのフロントの親父は、背筋が凍るほどの豊かなバス・バリトンの声をしていて、こんな方々が普通にいる国は恐ろしいと思ったり。
そりゃ、小澤征爾や千秋真一のような天才はいて、日本と西欧をひとっ飛びにして繋げられる人はいますが。
で、今日から読み始めたのが、エディエンヌ・バリリエの著による、「ピアニスト」という本です。秀逸な音楽書を出版するアルファベータからの逸品。
二人の音楽評論家が、美貌の中国人ピアニストの演奏会をめぐって言論戦争を繰り広げるという血湧き立つ架空言論戦記です。
一人は、この美貌の中国人ピアニストに、音楽の真髄を見ますが、一人は、これは中国による文化侵略(とまでは書きませんが)とまで行きそうな西欧国粋主義的音楽論者です。
一体西欧音楽とは何なのか。西欧音楽を非西欧人が演奏するというのはどういう意味なのか。それは西欧への非西欧からの侵略なのか、あるいは西欧音楽の普遍性の象徴なのか。
「美貌のピアニスト」の奏でる音楽と「太って汗をかきながら演奏するピアニスト」の奏でる音楽は同じなのか。音楽におけるビジュアルとはなにか?
いま半分まで読みました。
二人の議論は、噛み合っているようで噛み合っていません。戦闘状態にある二国が互いに理解し合えないようなものなのでしょう。それが、リアリティを更に高めています。これぐらい憑依しないと小説家にはなれないということなんでしょう。
かつて、ニフティサーブで繰り広げられていた音楽議論を思い出しました。少なくない時間をかけて、思考とレトリックで戦い続けたアマチュア論客も、こうした議論を繰り広げていた記憶があります。そうした議論の中身は私の記憶には残っていませんけれど。
議論が収束することはありえないはず。そんなに分厚くもないこの本の終末はどうなるのか。いくばくかの予想はあっても、それは明日もまたページをめくる意欲を削ぐものではありません。
では、グーテナハト。

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Posted by Shushi