劇空間を統一する演奏──新国立劇場《パルジファル》その4

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はじめに

世の中というのは十二分に非論理的で、自らの努力でその妥当性を変えることはできません。こうなったら、アウト、という状況にならないよう、常日頃細心の注意を払いますが、外的要因でそうした配慮がおじゃんになることなんていうことはままあるものです。だからこそ、常日頃の細心の注意が生きてくるのでしょう。

飯守さんの音楽

さて、今日は先日の新国立劇場《パルジファル》の演奏面について。といっても、後述しますが、オペラにおける演奏面というのは、なにか言葉にするのが難しい物があると思います。

飯守さんの指揮は、じつにゆったりとしていました。それは演奏時間にも現れていて、予定を20分オーバーしたぐらいです。それが、演奏時間のみに起因するかはともかくとして。

ただ、聴いている中では、まったくそのスローテンポに違和感を覚えることはありませんでした。それは奇をてらうようなことはない本当に湧き立つような自然なものでした。そのおかげで、劇空間に没頭できたのです。

以前から思いますが、いいオペラの指揮は、おそらく、それが印象に残らないぐらいがいいのではないでしょうか。音楽についてオペラ公演でかたる、というのは、いい場合もあれば悪い場合もあるのだと思うのです。音楽になにか不自然さがあれば、間違いなく劇空間に入っていけなくなる気がします。今回は、前述のとおり、劇空間に没入できましたので、素晴らしい指揮だったのだと思います。

これと似た経験は、2007年のペーター・シュナイダーの指揮でも感じました。あれが、私の中の最高のオペラ体験ですが、演奏中より、そのあとからその絶妙さを、反省的に認識しました。

逆のパターンも有ります。劇の流れを、自分の方向に矯正しようとする指揮です。まれに聴きますが、個人的には、劇に入ろうとした時に音楽が気になって、あれあれ?、と思うこともあるのです。このあれあれ?、というのは、もちろん良い面も含んでいます。私の考えでは、音楽における「驚き」こそが、音楽の「意味」なのですから。ここでこんなことやりますか? ということをやられてしまった時の驚きが、音楽の愉しみの一つなのです。

ですが、オペラの場合はどうなのか。緊密な一つの劇空間にあっては音楽だけが突出することはできません。もしそれがそうだとすれば、それはバランスを欠いているはずです。

そういう意味でも、今回の演奏は、劇空間を統一に導く、素晴らしい演奏だったわけです。音楽がだめなら、劇に没頭できません。私が、パルジファルの愚者ぶりに感動したり、クンドリの横顔に深い感銘を受けられたのも、音楽に支えられての事だったといえます。

終わりに

指揮者もやはり組織を束ねる長です。《パルジファル》という6時間に及ぶパフォーマンスを発揮させるためには並大抵の努力では足らないでしょう。

オケのメンバーも必死です。ピットをのぞき込むと、フリスクが譜面台に置いてあるのをみて、なにかオケの大変さを思い知った気がします。

芸術だろうが会社であろうが、組織の牽引は同じ。組織の長というものは、組織のために常に闘うものであるべきです。

飯守さんは十全に戦っておられて、オケを引っ張っていたのだ、そう思いました。

本日皆既月食。欠けた月を仕事場の洗面所の窓のブラインドの隙間からのぞきました。太陽に吠えろの石原裕次郎のように(笑)

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

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