のちの思いに──体験、記憶、想起──

昨日に続き、「のちの思いに」を読んでいます。辻佐保子さんの後書きには、「御世話になった方々へのお別れ」という趣旨のことが書いてありますが、辻先生が出会ったたくさんの人々との出会いが綴られています。

とくに、衝撃だったのは、辻先生のお母様が、避暑地の松原湖にみえたときの話。辻先生とお母様が二人で山登りを楽しみ、美しい池の畔で休んでいるとき「もう母はここに二度とくることはないのだ」という思いに達するのです。この達観、私には、人生の、あるいは記憶の悲しさ、とまずは思いました。それは非情であり容赦ないものではあるのですが、がゆえに、今、ここの大切さ、を認識すると言うことなのだと思います。

先日、「言葉が輝くとき」のなかから、「かりそめに過ぎて」というリルケの詩を取り上げました。かけがえのない体験というものは、おそらくは、記憶の中に生き続けるのだろう、と思います。

そういえば、2000年頃だったか、夜中に帰宅しているときに「あ、きっとこの瞬間をいつか忘れることになるだろう」と直観した瞬間を記憶しています。しかし、忘れることはなく、あの瞬間を今でも覚えています。それは、詩的ななかけがえのある瞬間というわけではありませんが、おそらくは一生涯あの微分点のような瞬間を覚えているはず。

いろいろ考えること数多……。

さしあたり、今日はここまでです。

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