学習院大学の講演会。数年ぶりのオフライン講演で、なんだか懐かしさしかありませんでした。
最近はハードワークが続いていて、文学のことを考える暇もなく、ただただレスポンシビリティのために動いている感もあり、何かの助けになればと願いながらと言う感もありますが、春の戴冠の世界に少しの間だけ戻れて、見つめ直せたきがします。すべてはうつろいゆくばかり。辻邦生がボーイング727でフランスへ飛んだ、という話を聞いて、時代の断絶を感じたことがありますが、それでもなお変わらないものもあるのだと思います。それはおそらくは「ホーム」とも言えるもので、人生も折り返してみると、あらためて「ホーム」探しに勤しむことになるようです。私の場合は、転居転校を繰り返しましたので、常にアウェイの感覚で生きてきましたので、どこに行ってもアウェイで、もちろん学習院大学も場所としてはアウェイでしかありません。辻邦生の文学は、そうしたなかでも人生の大半をともに過ごしてきたもので、精神的なホームと言うことができるのでしょう。アウェイでいるにも、また、この先、別のアウェイな場所に向かおうにも、ホームは必要ですので、この歳になりながら、あらたて辻文学のようなホームを一つ一つさがしていかないとなあ、と思う今日この頃です。
さて、指揮者の矢崎彦太郎さんのお話のなかで、レスピーギが取り上げられました。素晴らしいレスピーギ。イタリアの太陽です。
南イタリアの田舎の港町で、人知れず暮らしながら、少しずつ地元の人々と心を通わせ、いつしかベッドで静かに眠るように息を引き取るという幻影をみました。刺すような太陽で、おそらくは肌は灼けるのでしょうが、深く刻まれた皺や白く輝く歯を持つ男達の仲間になれば、昼間からワインを飲んで、明るいうちにベッドに入ることもできるのではないでしょうか。などということをおもいながら、レスピーギを聴きました。
幻影であっても、それを想ったところで、それは現実と違わぬものになります。辻邦生はそれをイマージュと呼んだのではないでしょうか。イマージュを言語化することが、私だけの世界を係留する手段になります。それが文学であり、物語である。そんなことを想いつつ、またレスピーギを聴いています。
朗読会の「春の戴冠」は見事に長大な春の戴冠の半分を1時間に切り取っていて、感服でした。ボッティチェッリの「春」は、おそらくは、ギリシア的でもあり、キリスト教的でもあり、そうした要素が巧く抽出されていて、2H=ヘレニズムとヘブライイズムからなる西欧文化の奥深さを感じました。ビーナスでもありマリアでもある女性が「春」には描かれていて、それが懐胎しているとしたら? というのはあまりに刺激的な観点となります。語ると長くなりますが。
それではみなさま、おやすみなさい、グーテナハトです。