Tsuji Kunio

辻邦生関連本が新たに発売されます。

中央公論新社から2019年6月6日発売予定だそうです。

表紙から以下の情報をまとめました。カッコ内は私の推定する出典です。

●日記

辻邦生 旧制高校時代の日記「園生」より(初出?)

●書き下ろしエッセイ

松岡寿輝、佐藤賢一、澤田瞳子、中条省平

●エッセイ

水村美苗、堀江敏幸、二宮正之、宇野千代、加賀乙彦、粟津則雄、髙橋秀夫 他

●書評

ジョン・アップダイク「安土往還記」

●講演

保苅瑞穂 (2017年日仏会館での講演)

小佐野重利 (2016年学習院大学史料館講座)

金沢百枝 (2018年学習院大学史料館講座)

●対談

塩野七生と辻邦生 (世紀末の 美と夢 第5巻?? )

(敬称略)

こうして、また辻邦生ワールドの未踏地に足を踏み入れることができる喜びはこの上のないものです。個人的には保苅瑞穂さんの講演は聞きのがしておりまして、本当に楽しみです。

今日は短めに。

Giuseppe Verdi

なかなか時間がある取れない最近です。いろいろなことに身動きが取れず、毎日もがいています。さすがにロボットではないので、スイッチを切る時間も必要。睡眠不足は朝の通勤電車で補い、帰宅後の90分はメンテナンスで消えていきます。

昨夜、夜中に起きて書く時間を作っている感じ。腹痛が酷く、起き上がってしまいました。昨日は久々に法定公休で、新宿を一人で少し歩きましたが、嬉し過ぎて無理をしたようです。

ところで、先日、仕事場のそばの陸橋を歩いていると、ビルからビルへと飛び伝う鳥を見ました。黒く大きめの鳥でしたので、おそらくはカラスでしょう。ですが、なにかその鳥が猛禽類のように思え、ビルを伝いながら、獲物を狙っているように思ったのです。おそらく、ニューヨークだったか、高層ビル郡にに住み着いたハヤブサがいる、というニュースを数十年前に見た記憶があって、その連想でしょう。土地に縛られずに飛び回る猛禽類の逞しさ。

昨日、新宿を歩きながら、何も縛られず街を歩く幸福感を感じました。これが猛禽類の気分? いや、獲物を狙わないだけ違うな、などと思ったり。多摩動物園の猛禽類は広いゲージで安全に飼われていましたが、天井のない空に舞う猛禽類は、本性のままだな、と勝手な想像をしました。

今日はこちら。

ティーレマンがドレスデンで振ったヴェルディのレクイエム。この劇的なレクイエムは初めて聴いたときには衝撃でした。《オテロ》以降のヴェルディの複雑で劇的な響きが心地よいです。AppleMusicのプレイリストで知った音源ですが、重みと厚みがありながら流れもあり、なかなか良い音源です。同じメンバーで《オテロ》を聴いてみたい、と思いました。

明日もかけるか、どうか。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

Photo

 

Kindleで「春の戴冠」をつまみ読むしていたところ、一つの白眉ともいえる場面にたまたまぶつかりました。プラトンアカデミアの場面です。

 

「私たちはこの世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。<神的なもの>のごく希薄な存在から濃厚な存在まで、その分有度は異なっても、<神的なもの>の改訂によって、この世の一切が観られなければならないのです。

(中略)

フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうるわけです。私たちは帳簿の山を整理しながらも、それが<神的なもの>を表していると観ることができるのです。だからそれに触れれば、帳簿づけが日々のむなしい繰り返しであるとか<暗い窖>へずり落ちてゆくとかいうことは考えられなくなります。なぜなら<神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じることだからです

(中略)

<神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

(中略)

私たちが<神的なもの>を人間存在のすべてに見いだし、<神的なもの>を深めることを哲学の中心課題とすれば、その哲学は、ロレンツォ殿の言われたごときイモラ買収工作をも含む哲学となり得るでしょう。(中略)哲学の仕事は人々の目を<神的なもの>に向けさせることです。朝露を含んだ風が花々の香りを運んでくるように、人々の心のに<神的なもの>を運びこみ、人々に<永遠の浄福>を深く味わわせることにあるのです」

(フィチーノの発言)

「『現在を楽しむことが永遠性を手に入れる正当な方法であることについて』の根拠は、今の発言の中で、過不足なく言い表されている。<現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れることだからです」(バンディーニの発言)

「それは神への道です」(アグリ大司教の発言)

辻邦生「春の戴冠」上 新潮社 1977年 298ページ

プラトンアカデミアでの議論の結論めいたところだけかいつまんで書いてみました。

日々の政務で疲れているロレンツォ、あるいは語り手フェデリゴの父親もやはり、商売に精を出しながらも、手応えをつかめずにいる。それを「暗い窖」へずり落ちてゆくような、という表現で表しています。

それに対して、フィチーノは、結論として、

  • この世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。
  • フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうる。
  • <神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じること。
  • <神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

と語り、さらに、バンディーニと、アグリ大司教が以下のように語るのです。

  • <現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れること
  • それは神への道です

と。なにか議論がうわ滑って行くような印象なのです。その後、ロレンツォは、じっと自分前を見つめるだけで、その他の参加車は彫像のように身動き一つしない、という描写で締められます。

私は、この議論の結論に、そのまま飛びつくことの出来ない苦悩を感じるのです。それは、その後のフィレンツェの行く末を知っているから、ということもありますが、この最後の参加者の描写にも、なにか底知れぬ憂いのようなものを感じるのです。議論の上滑り、とかきましたが、果たして、この世のすべてが「現在を楽しむ」に帰結するのか、と。この「楽しむ」という言葉に含まれるさまざまな含蓄や解釈もある訳で、いかようにも解釈は出来るのですけれど。とにかく、<暗い窖>へとずり落ちてゆくことをなんとか説明しようとしてル訳ですが、最後に大司教をして「神への道」と語らせるという議論の結末。大司教という立場が、そう語らせたという設定でもあるでしょうし、それはなにかサヴォナローラの登場を暗示させるものでもあります。

こういう、議論の交錯が手に取るように分かると言う点で、辻邦生の手腕は冴え渡っているな、と改めて舌を巻きました。

私は、この「春の戴冠」をこの数ヶ月の間において通読しているわけではなく、過去に読んだ記憶を頼りにしていますので、もしかすると曲解が混ざっているかもしれません。

ただ、記憶をたどったとき、この「春の戴冠」に感じる「美と滅びの感覚」は、筆舌に尽くしがたいものがあります。これがまさに、現実社会において、性急な結論に飛びつくことなく、塹壕戦のように、身を低くして粘り強く戦うということだ、と今は想っています。

神的な美は、現実社会において力を持ち得ないのか? 当然と言えば当然なこの美と現実の相克という命題を巡って、私たちはおそらくは永遠に同じ所を回り続けることになります。ただ、回りながらも、少しでも中心へあるいは上へと近づいていれば良いのに、と思います。

今日は長くなってしまいました。このあたりで。おやすみなさい。

※写真は、桜草っぽいので載せてみました。良い天気でした。

Miscellaneous

新しい時代になりました。令和、と言うその時代の名前に、期待と希望を感じるのは、あるいは感じたいというのは、みな同じだと思います。

令和の「令」

今朝は、4時ごろ目が覚めました。風邪をひいたらしく、喉の痛みがひどく、寝付けなくなりました。やむなく起き上がり、あいにくの曇り空ではありましたが、白々と明ける令和の朝日を感じながら、オンラインで新聞を読んでいたところ、朝日新聞に令和の考案者とされる中西進さんのインタビュー記事が載っていました。

「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号

辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります

(朝日新聞 4月20日「「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号」より)

令和の令と言う文字。この文字の解釈が世間では議論になっていたように思います。命令を想起させるからです。しかし、この記事の中で、中西進さんは、この令と言う事は善と言う意味があると言うふうにいます。命令と言うのは善であることを命ずると言う意味だと言います。この解釈は新鮮でした。

実際に、漢和辞典を調べてみると、

1)神のお告げや、上位者の言いつけ。清らかなお告げの意味を含む

2)起きて、お達し

3)よい(よし)。清らかで美しい

4)おさ(長)

5)遊び事の決まり

6)命令する

と続いていきます。

(「漢字源」より抜粋)

どれが主な意味になるのか。それはおそらくこの「令」と言う漢字が使われた歴史的な背景にまで踏み込まなければ真のところわからないでしょう。漢和辞典をさっと読んだだけでは理解することはできず、碩学の方にだけわかることなのでしょう。

学問の奥深さ

昨日、キルケゴールの本を読みましたが、おそらく1冊読んだだけでは全貌がわからないと言うことが私にはわかっていて、徒労感のようなものを感じました。すでに、哲学書を読むことの空しさのようなものです。数冊読んだだけでは、理解すること、語ることはあたわないのです。おそらくこの「令」と言う漢字について研究し述べることも、同じような労力を要するはずです。

学問の世界は深く広く、常人には想像すらできないものです。その一筋縄ではいかない厳しさを知っているだけに、簡単に結論を下したり、一つの学説や一冊の本にとらわれることの危険性はわかっていいます。といって、何も述べられないと言うことの虚しさもわかっています。このバランスをとりながら、どうやって自らの意見を発信していくか、ということが問われます。

さしあたり、「令和」の「令」は、万葉集での使われ方は中西進さんによれば、「うるわしい」と言う意味のようです。素直に、この典拠従って、この「令」と言う漢字をを麗しいという意味に捉えるのがよさそうです。

終わりに

それにしても、人間と言うものは不思議なものです。時代が変わった、と言うだけで何かに突き動かされるように、ことにチャレンジしていこうとするですから。枠組みであるとか、文化であるとか、言葉であるとか、そうしたものが人間世界におよぼす作用の力強さを改めて感じました。

今日は東京地方も予報が曇りだったにもかかわらず、午前中には日差しが差し込み、新しい時代の初日にふさわしい天気になりました。令和が良い時代になることを願い、私もやれることをやらなければ、と思いました。

冒頭の写真は、先週撮った八重桜。ことほぐには絶好の美しさです。

それでは、みなさまおやすみなさい。