Tsuji Kunio

辻邦生先生のご命日が今年もまいりました。1999年は、25年も前のことになります。四半世紀という言葉は軽くはない言葉になりますね。


何度も反芻する当日の記憶や、雨降りしきるお別れの会記憶は、おそらくは変容していることでしょう。


個人的には、このところ、仕事やら何やらで、時間をとるのが難しいのですが、それでも、折に触れて、辻邦生先生のことを思い出す機会もあり、楽しみでもあります。

先だって、ありがたいことに、米国ボストンに行くことがありました。そこで感じたのは、辻邦生の描く英雄とその挫折、そして再起という物語でした。世界をローマ精神で復興しようとしたユリアヌスにも、米国でITで世界を変えようと奮起奮闘する研究者やエンジニアにも、何か通底する精神があるなあ、と感じました。

しかし、その闘いは、常に敗北に終わります。あらゆる革命は、一度は頓挫することになります。それは、目に見える形で頓挫もしますし、緩慢な頓挫となることもあります。革命のはずが、恐怖政治へといたり、ナポレオンへ至るのは、何か必然なのかもしれません。

IT革命も、幾多もの波をこえて、今に至り、AIという新たな波に乗ろうとしていますが、次は何が起こるのでしょうか。人間らしさの喪失、と言った使い古された批評はもうできないのでしょう。人類という地球にあって革命的な知性のサスティナビリティが問われているのでしょう。遺伝ではなく、知性で進化した人類は、知性という優位性を喪失したとき、そのアイデンティティをどこに求めるのか。私は、それは、文学の中にも、宗教にも、芸術にも通底する、神的なもの、あの、サンドロが追い求めた永遠の桜草のなかにあるのかも、と思います。それは、科学であり、また、宗教でもあるわけですが。

などと思いながら、辻先生のご命日の夜、電車にて、スマホを使い、書いているところです。特にGPTを使うこともなく。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

久方ぶりではありますが、なんだか、幸福な気分になったので、こちらにアップしてみようと思います。

未明にあったパリ五輪の開会式録画を、今朝方見ていたのですが、なんだか素晴らしいなあ、と思いました。雨模様ではありながらも、パリの人たちが協力しながら、五輪を盛り上げている様子は胸を打つものがありました。

そして、何より、スタジアムを使わずセーヌで開会式をやるという、ラディカルな発想。こんな奇抜なことを考えて、実行に写せるのは、個々人がその独自性と思考で存在証明をし、国民自ら自由を勝ち取ったという気概をもつフランスだからこそなんだろうなあ、と思います。

開会式で流れる音楽は、ポップスでありながらも、アメリカのそれとは違い、独特な気品のようなものを感じたりもしました。

雨に打たれながらも、一糸乱さず楽器を吹く親衛隊や、ピアニスト、ダンサー。どの国でやっても、やはりそうだと思いますが、雨に打ちひしがれることなどなく、整然と挙行するのは、人間の強さだなあ、と思いました。

辻邦生がご存命ならもうすぐ99歳となるのですが、この開会式をご覧になった時に、どんなことを思われるのかな、などと思いながら、あの辻邦生が直感を得たポン・デザールが開会式の舞台になっているのを画面の向こうに眺めたりしました。

辻邦生のご命日まであと二日となりましたが、いつものように暑い盛りではありながら、何か辻邦生的にいうと、人間が人間たらしめたものを見たような気がして、爽やかさを感じました。きっと、「春の戴冠」で描かれた、ロレンツォが主催する祝祭も、こんな感じだったのだろうな、などと思いました。

ということで、文章だけのポストではありますが、この辺りで。