Miscellaneous

 今年もいろいろあった一年でした。音楽的な学びも多かったです。個人的にもなんとか物事が回り始めたかなあ、という一年だったと言うこともありますけれど。

仕事が急に忙しくなってなかなか時間がとれずじまいで、少々更新頻度が落ちたのがもったいなかったこと。書けば書くほど学べるはずなのですが。

ということで、毎年やっている1年の目標の振り返り。今年は惨憺たる結果でございます。。

 

  • とあるプロジェクト(A)を完遂する。
    →未達でございます。。。残念。でもまだあきらめませぬ。
  • とあるプロジェクト(B)を完遂する。
    →こちらも未達。残念。
  • 本は百冊読む
    →58冊でした。。。というか、意外と読んでいますね。40冊ぐらいかと思いました。
  • 辻邦生師の本を毎月1冊は読む →これ、残念ながら未達。未達ばかり。
  • ブログ更新を毎日する
    →ほとんど週に1,2度のペース。ちょっとこればかりは。、というところ。
  • オペラ・コンサートに月に一度は出かける
    →これは達成です。ありがとうございました。
  • 新しい音源を月に週に一つは聴いてきちんと感想を書く
    →CDに加えて、DVDやウェブラジオ、iTuneなど
  • 痩せる
    →体脂肪率は23%ぐらい。でも体重はどんどん増えています。今年はジムに行き始めましたが、筋肉は結構ついているんですけれど。もうすこしの辛抱。
  • 健康管理
    →風邪をひかないようにがんばります。→これ、なんと達成しました。とりあえず病欠なしでしたので。

ここまで未達だと、ほとんどどこかの会社のかけ声だけの目標に思えてきました。今年分かったのは、どうやら無理しちゃいかんということ。無理するとあとでかえって高くつきますね。。今更ですが。。。

まあ、徐々に状況はよくなっているので、来年も無理なくがんばります。

 

 

Classical,Literature

先だっての戯言の続きです。

現在のクラシック音楽の潮流として中心にあるのは過去の作曲家の音楽を演奏するということですが、当然のことながら旋律、和声、拍節を変えることはおおっぴらには出来ない。細かい譜面の修正や省略などは行われていますけれど。

そこで演奏者に求められるのは主に1)速度、2)音量、3)音色(サウンド)のチューニングです。他にも4)アーティキュレーションの解釈もあったりしますので、まあ主にこの4つでしょうか。

解釈の多様性をもってオリジナル音楽の意味をほぼ無限大に拡張するのが現代のクラシック音楽でして、フレーズを作り出したり、和声を作ったり、リズムを変えたり、という作業は、カデンツァや通奏低音などを除けばほとんどないでしょう。あ、歌手にあわせて転調して演奏することもありましょうかね。

これって、ものごとを質料と形式、あるいは内容と形式、と言う風に古典哲学的に分別して整理してしまうというのが、私の悲しい性。何でも質料形式に分解したくなってしまう挫折学生の悪癖です。

で、旋律、和声、拍節を質料としてとらえ、速度、音量、音色、アーティキュレーションを形式と捉えると、今の音楽のあり方は、素材を解釈して再生産するという過程であると言えましょう。質料=中身よりも、その見せ方、弾き方、解釈の仕方で勝負をしているのが現代クラシック界でしょう。(オペラ演出の問題もありますが、それは音楽の解釈性とはちょっと外れますのでここでは割愛します)

もう、「内容」をどうこうするのは野暮である、という時代なのでしょうか。これって実は文学においても同じで、純文学の世界では「内容」がどうか、という問題よりも、どれほど新しい形式を持っているのか、という方向に進んでいるようです。私は現代思想はさっぱり知りませんので、ここまでしか書けませんけれど、まあ、文芸評論の方々が書いてあることを読むと、物語の中身を楽しむ文学というものは、余りに当たり前すぎて論じる意味がない、というように読めることもありまして少々寂しいですね。

もちろん、文学もいろいろでして、SFとか推理小説なんて言うものもあります。ですが、SFもアシモフ的な内容を読ませるSFを脱却した新しいSFもあります。ディレイニーの「ノヴァ」を読んだのですが、私にはさっぱりでした。ほとんどジョイスを読んでいるかのような感覚。あ、私はジョイスも全然読めていません……。

もう少し続きます。つづきはまた。

Classical

 さて、いつの間にやらクリスマスなるものは終わっておりますね。帰宅前に駅前のスーパーに入ってみると、クリスマス商品はすべて撤去されており、正月モード全開でございます。加速を無限大に行うと光速に徐々に近づいていくそうですが、体感時間は短くなるそうですね。ウラシマ効果。でも、最近は逆ウラシマ効果です。

この街に住んでもう次で8回目の正月です。歳をとればとるほど時間は加速していきますね。気づけば、我が生涯でもっとも長く住んだ街になっております。小さい頃は転勤族でしたので、いろいろ各地を引っ越しましたので。ついこの間まで故郷なき男。ですが、今や、今今住んでいるこの街が故郷になりつつあるような。。引っ越したくないですが、近々職場毎都心方面に移動するので、そのときどうすればいいのか。。。

クリスマスということで、昨日はアバドとラトルの2バージョンでベートーヴェン交響曲第9番を。私がまだ若かったころ、N響でオトマール・スイトナーが振ったのをNHK-FMで聴いたのですが、それがデフォルト盤になっている感じです。スイトナーの指揮と、アバド、ラトルの指揮があまりに違うので驚きました。まるで別の曲ですね。どちらかと言えばラトル盤の方が好み。音量調整、速度調整が私のよくフィットしました。ですが、終幕部のスピード感は少々速度超過気味ですが、ぎりぎりセーフな感じ。スリリングな第九でありました。

今日は、レヴァインのパルジファルを。これ、来年四月のシルマー指揮のパルジファルの予習です。こちらもぬかりなくがんばらないといかんですね。

Classical

 どうにもやることがたくさんあるのですが、それでも毎日音楽を聴くようにしています。前にも書いたかも知れませんが、音楽聴いていないコンプレックスを持っていまして、他の方々よりも聴いている量が半端なく少ないので、こつこつ聴かないといけません。

何でこんなに聴けていないのかなあ、と思ったのですが、高校二年頃からジャズ・フュージョンを聴くようになってしまった、というのが大きな要因かなあ、と。高校の頃何をやっていたのか覚えていないのですが、実は音楽を聴いてデジタルホーンを吹きまくっていたのでした。おかげで大学ではジャズ研究会に入ることが出来ました。当然のように挫折したのですが。

というわけで、取り戻すためにも、毎日頑張って音楽を聴いています。

今日は、コジ・ファントゥテを少々。モーツァルトのオペラは勉強不足ですので。

聴いている音楽の偏り

それで思ったのですが、私の音楽に対する感覚というのは、結構偏っているかも、というところ。特に、この7年ぐらいオペラを聴き始めてからずいぶん感覚が変わってきている、と言うことに気づいたのです。

音楽を構成する要素

音楽を構成する要素は、音色、音階、拍節だと思います。音階と拍節によって旋律が成立します。それから、旋律の速度とか、音量などの要素が入ってきます。あとは和声と対位法というとらえ方もありましょうか。

(メロディ=旋律、リズム=拍節、ハーモニー=和声 が音楽の構成要素と言われることがあるようですけれど)

デジャヴとバリエーション

それでですね、和声と対位法とか、旋律などはもうだいぶんと使い尽くされているのでは、ということ。旋律なんかだと、J-POPあたりになると常にデジャヴとともにあるような感じもします。

商業音楽の話しになると少々ずれるので、強引にクラシックに話を戻すと、クラシック音楽はほとんど過去の曲を再生産しているイメージです。新たな旋律や和声が組み込まれる機会は極めて少ないです。

それで、何で勝負しているのかというと、1)音量とそのバランスとか、2)旋律の速度など、それから3)音色=サウンドというところになりましょうか。他にも言葉では説明できないグルーヴ感のようなものもありますが、それはおそらく1)と2)の組み合わせなのかなあ、と。

サウンドへの感覚

私の場合、以前だと、1)とか2)に重きを置いていた気がするのですが、オペラを聴き始めてから途端に3)の要素に敏感になってきた気がします。歌手の声というのは、楽器のそれと違い個体差が極めて大きいですよね。同じ旋律であっても全く印象が異なります。その違いを何とか説明しようとすると、声色=音色=サウンドへの注意力が増した気がします。ヤノヴィッツとポップの違いを言葉でどうあらわすべきか、とか、実演に触れた際に、歌手の声質をどうやって伝えるべきか、などなど。

歌手の声質もそうですが、それに加えて録音場所とか録音への感覚も昔よりついてきた気がします。これはもうルカ教会との出逢いが一番大きい気がいたします。昨日書いたように、同じルカ教会でオケも同じなのに音が違うというのは、指揮者の影響なのかエンジニアの影響なのか、というような話しになって、ワクワクします。

この続きもあるのですが、それはまた明日。

 

Chorus

先日も触れた名曲探偵アマデウスでフォーレのレクイエムが取り上げられていて無性に聴きたくなりました。サー・コリン・デイヴィスがシュターツカペレ・ドレスデンを振ったフィリップス盤。それにソプラノはルチア・ポップですからね! 録音はやはりルカ教会です。この豊かなリバーブ感がたまりません。中音域にの柔らかさのしっとりとした感覚は至福の境地。ここは賛否両論かもしれませんけれど私はいいと思います。クライバーの「トリスタンとイゾルデ」もオケと録音場所が同じですが、印象はかなりことなります。クライバーはかなり高音によったサウンドですので。エンジニアの違いもありましょう。
しかし、この曲の持つ浄福感には癒されないわけがありません。

リベラ・メの緊張感は最後の裁きを待つかのような気分に。フォーレの管弦楽曲集で聴いた「マスクとベルガマスク」を思い出しました。いまから7年ほど前にプラッソンの全集を狂ったように聴いていたのを思い出しました。あの頃読んでいたプルーストが懐かしい。まだ半ばまでやっときたところなのですが。もちろん辻邦生先生の影響ですが。
ちょっと話がそれました。デイヴィス盤のレクイエムに話を戻しましょう。
Pie Jesuでのポップは素晴らしいです。透き通り金色に輝く啓示。神がいたとしたら、こんなふうに語りかけてくるに違いありません。他のソプラノの方の録音とも比べてみたのですが、ポップの歌は透き通るだけではなく、倍音を含んだ芯のある声と言うことが分かります。もちろんルカ教会ということもありますが。
ちょっとこれはしばらくこのCDに癒してもらわないといけません。仕事付き合いにもすこし飽きてきましたので。
今日は本を読む元気がなかったので、電車の中から携帯を使ってポストしました。ではまた明日まで。
 

Opera

それにしても、最近の私には開拓精神にかけます。同じところに安住しているだけ。そうです。またもやペーター・シュナイダーの「トリスタンとイゾルデ」に絡めとられました。何度も何度も書いて申し訳ありません。 しかしこのプロダクト、CD化すべきだと思うのですが、私の認識に間違いありますでしょうか??(って、これ仕事言葉ですが)。

ペーター・シュナイダーの音は、きわめてクリアで軽やかである、ということをどなたかがおっしゃっていたと思うのですが、私も同感です。 そしてなんでどうして聞いただけで涙がこぼれるのでしょうかね。 ほとんど追憶する老人のような気分ですが、2007年の新国立劇場の「ばらの騎士」とか、2009年1月の東京フィル定期での「ばらの騎士組曲」、曲が終わったら顔中涙で濡れてしまうぐらいでした。。。 なんとかまた実演に接したいと思います。日本にまた来て欲しい、いやいや、こっちから出かけたいぐらい。休みも取れないわ、給料下がるわで、それも夢かも。せめて、ネットラジオでシュナイダーさんを探せるように工夫します。

 

American Literature

「標的は11人-モサド暗殺チームの記録」を読み終わりました。少々知りたいことがありましたので。

ところが、これがめっぽう面白い。

今年の夏に読んだフレデリック・フォーサイスや、スタンリイ・エリンを思い出しました。

先日スペイン系のイギリス人とお話しました。お父様がスペインの方だったのだそうですが、相当苦労されたとか。スペインの戦後はしばらくはフランコ体制でしたので。それから戦後のヨーロッパの話になりまして、冷戦下のイギリスにあっては、やはり東側の核兵器に恐怖を感じたのか? とたずねてみると、ぜんぜん! との答えが。あれ、と思ったら、核兵器よりもIRAのテロの方が怖かったのだ、とおっしゃる。

身震いをするぐらい驚きました。 現代の日本人にしてみれば、テロが現実として間近に感じられるようになったのは、オウム事件以降だと思いますが、当然それ以前からテロルは存在していたわけですから。

そうしたテロの中でも衝撃的ものの一つと思われるのが、ミュンヘンオリンピック事件です。

アラブ過激派がミュンヘンオリンピックのイスラエル選手たち9名を拉致監禁し、イスラエルに収監中のパレスチナ人234名の釈放と飛行機でカイロへの逃亡を要求する。ヘリコプターで向かった空軍基地で、警察部隊と銃撃戦となったのですが、当時の西ドイツ警察にはテロ即応部隊などはなかったこともあり、人質の解放に失敗し、人質全員がヘリコプターの爆破により命を落とし、西ドイツ警察も一人の殉職者を出してしまいます。犯人グループの8名中5名を射殺してしまうということで、後味の悪い失敗となってしまったわけです。

物語はここから始まるわけですが、コマンド部隊出身のエージェントであるアフナーが、ミュンヘン事件の報復のためにパレスチナ過激派テロ組織「黒い9月」の主要メンバーをリストアップし次々に暗殺するという物語。

暗殺シーンの臨場感とか、当時の欧州の裏社会を見ることができて非常に興味深いのと、最後が実に考えさせられる感じ。

どこの社会でも組織と人は持ちつ持たれつ、ときにそれは悲惨な結末をもたらす。 どんな物語であっても、何かしらの対立軸というものが成立します。そうした対立軸は、男と女であったり、国と国であったりしますが、組織と組織、あるいは組織と人という対立軸も多いですよね。

組織と人、という題材で真っ先に思い出すのは、以前読んだハーマン・ウォークの「ケイン号の叛乱」でしょうか。軍隊組織にあって、無能な上官を持った将校兵士はどうするべきなのか、という問題。これって、ホーンブロワーシリーズでも同じ題材がありました。

時代小説的なら、お家と家臣の関係でしょうし、サラリーマン小説なら会社と社員。もうあまりに使い古された題材ですが。

わき道にそれました。

最近の僕の感じでは、第二次大戦後から冷戦終結までのヨーロッパに大きな関心を持っている気がします。前述のとおりスペインやポルトガルの全体主義体制が残留し、イギリスではIRAが活動し、フランスではOASが活動する。東西冷戦の行方は果て知れず、核戦争の脅威にさらされている。東側諸国では統制社会となり、弾圧や密告がまかり通る。そして、アラブ過激派のテロとモサドの戦い。それでもなお科学技術の発達はとどまることを知らず、アメリカ資本は娯楽を過剰供給していく、というアンビバレンツ。

いろいろ面白いことがわき出てきます。

Concert

 

N響の定期、一月にばらの騎士組曲をやるので見に行くことにしたのですが、指揮者変更とのこと。

2010年1月定期公演(A・Cプログラム/NHKホール)に出演を予定しておりました指揮者ローレンス・フォスター氏は、本人の健康上の理由により来日不可能となりました。このため出演者を下記のとおり変更させていただきます。 Aプログラム[1月9日(土)、10日(日)]:尾高忠明氏 Cプログラム[1月15日(金)、16日(土)]:ジョン・アクセルロッド氏 なお、曲目の変更はございません。何とぞご了承くださいますようお願い申しあげます。

www.nhkso.or.jp/top.html

 奇しくも、新国次期音楽監督の尾高さんの指揮を聴けるなんて! 前半はヨハン・シュトラウスで、後半はリヒャルト・シュトラウスという冗談のようなプログラムなのですが、シュトラウスの「ブルレスケル」を聴けるチャンスですし、何より「ばらの騎士組曲」が本当に楽しみ。尾高さんの指揮だと、どんなばらの騎士になるんでしょうかね。

Classical

なんだか、最近は音楽を語ることの難しさをつとに感じてしまっています。なんとか切り口を考えたいのですけれど。

NHKのBSで放送している「名曲探偵アマデウス」、ご存知ですか? 

クラシック曲をさまざまな切り口で解明するバラエティでして、結構な期間放送していると思います。ショスタコーヴィチの交響曲第五番や、ホルスト「惑星」、ヤナチェクの「シンフォニエッタ」、フォーレ「レクイエム」などなど、おなじみの名曲を楽曲分析を交えてわかりやすく解説してくれる良番組です。もう五〇回以上やっている。最初のほうは見逃していますが、最近の放送は欠かさずみている感じです。

最近ではホルスト「惑星」の「木星」を取り上げられた回がきわめて秀逸でした。「木星」の冒頭部、弦楽部が分散和音を弾くのですが、昔からあの部分相当難しいだろうなあ、と思っていました。やっぱり案の定でして、拍子とフレーズがずれていて、しかもそれが何声も重なっているので、拍子を読めません。私は元来リズム感がありませんので、あの弦楽部からぴったり入れるオケの方々はやっぱり凄いのだなあ、と尊敬の念です。大学時代のトラウマが思い起こされます。

録画したフォーレ「レクイエム」が楽しみ。これから観ます。それから、この週末はなんと武満の「ノヴェンバー・ステップス」ですよ! あれをどうやって解説してくださるんだろう??

 

Giacomo Puccini,Opera

昨日のトスカ、まだ忘れられません。演出も実に秀逸でした。

昨日も少し書きましたが、第一幕最後のテ・デウムのところの豪華さは比類のないもののように見えました。

それから第二幕の最後。あそこがすごかったです。

トスカがスカルピアの胸にナイフを突き立てる。

「これがトスカの接吻よ!!」。

スカルピアは驚愕し呻きうろたえ、そのまま床に身を横たえ息を失う。

トスカはスカルピアの胸にもう一度ナイフを突き刺そうとするがいったん逡巡する。われに返ると、書類机にいってスカルピアに書かせた通行許可書を探す。書類が何枚も舞い散らばるのだが、通行許可書はない。

トスカはスカルピアの右手に通行許可証が握られているのに気づき、もぎ取ろうとするのだが、スカルピアの握り締められた右手がなかなか開かない。

ここ、秀逸すぎる!

通行許可証を手に入れると、机上の燭台の吹き消そうとするのだが、なかなか消えずに手で払ったりするのだが、一本だけ消えないまま残される。

トスカは書類机から火の灯った燭台2本を持ってきて倒れたスカルピアの両肩のあたり、床の上に置く。

トスカが部屋を出ようとするのだが、2本の燭台からの光を浴びて、背面にトスカの影が揺らめいている……。

あの2幕最後の一連の舞台、あまりの緊張感でした。唾を飲み込むのを忘れるぐらい食い入るように見てしまいました。

こういう一連のアクションが、プッチーニの織りなす、不安を一杯孕んだ音楽とともに演じられると、化学反応が起こったように爆発的な効果を生み出すようです。いつもはiPodで音楽だけ聴いて感動していますが、やはり実演やDVDで視覚でも観ないとダメですね。

「カプリッチョ」では、オペラにおいて言葉が先か、音楽が先か、という問題提起があります。あの場では二択のようにも思いますが、実はもう一つ演出が先か、と言うのもあります。登場人物的に言うと、

  • フラマン=作曲家=音楽
  • オリヴィエ=詩人=言葉(=台本)
  • ラ・ロッシュ=舞台監督=演出

という感じです。もしかしたら、1940年台、シュトラウスがカプリッチョを作曲した時点では、演出面の重要性は余り高くなくて、戦後バイロイトに始まった新バイロイト様式以降、演出の重要性が増してきたとも言えますので、現代オペラでいうと、ラ・ロッシュの役割が高まっているのでしょうね。

オペラは総合芸術と言われますが、昨日はよりいっそうその意味が分かってきた一日でした。