来週、職場でプレゼンをすることになり、目下準備中。パワポで資料作るのが楽しくて仕方がない感じ。安全管理的な研修に行ってきたので、その報告会とやらで、30分ばかりの持ち時間を使えるらしい。せいぜい楽しんで来よう。
えーっと、写真のスティーブ・ジョブスはプレゼンの神様ですので、縁起担ぎに載せてみました。
BGMは、ジークフリート・イェルザレムとパトリシア・プティボンが歌う「カルミナ・ブラーナ」。むかし、こんな記事書いています。
“https://museum.projectmnh.com/2010/04/18035722.php":https://museum.projectmnh.com/2010/04/18035722.php
今日の通勤時間も「天草の雅歌」を。昔は複雑に思えた人間関係も、三度目ともなると、かなりわかりやすくて、プロットが自然に体の中に染みわたってくる。
なーんて、仕事していたら、いつもの就寝時間を1時間以上オーバーしています。明日も午前中から所用で都心に向かいますので、今日のところはこのあたりで。
仕事中
辻邦生「天草の雅歌」
また、辻邦生を読んでいます。今度は「天草の雅歌」です。三回目です。
一回目はなんだか話しの面白さにぐいぐいと引っ張られて、最後まであっという間に読んだ記憶があります。15年ほど前でしょうか。その後もう一度読んでいるはず。10年以内だと思われます。少なくとも2006年以前だと思います。
この小説は、辻邦生初の三人称小説です。それまでは、すべて一人称小説だったわけですが、ここが一つの転機になったとのこと。私は辻邦生的な一人称小説が大好きですので、この「天草の雅歌」を読んでいて、パースペクティブが変わるようなところでドキドキしてしまいます。やはり少し勝手が違うところがあるかもしれません。
とはいえ、物語としても大変素晴らしい作品。江戸時代初期、まだ鎖国体制が確立していなかった頃の長崎を舞台にした、外国貿易を取り巻く血なまぐさい政争と、それに巻き込まれていく混血の美少女のコルネリアと長崎奉行所通辞の上田与志の物語。こう書いているだけで胸がときめきます。当時の政治経済の情勢が手に取るように分かる歴史小説でして、この物語がフィクションであることを知りながらも、それでもなお、物語世界が実在として迫ってくる力強さがあります。
当時の日本は、鎖国が成立していませんので、外国貿易を推し進めようとする勢力と、それに抗う勢力の争いは絶え間ないものでした。それにくわえて、キリシタンの問題がありましたので、ますます事態は複雑化しているわけです。そうした問題は、おそらくは天草島原の乱が最大の分水嶺となって、鎖国への道を駆け下りることになるわけですが、そこに至るまで、思いのほか饒舌な歴史が眠っているということがよく分かります。
もちろんこの物語はフィクションですし、歴史小説とは、史実と付かず離れずで成立しているものですので、そのまま史実とは言えますまい。ですが、辻邦生の他の作品と同じく、フィクションとはいえ、極めてリアルな真実在とも言えるような、なにか手を触れることの出来る実体のようなものを伴ったものですので、きっと長崎に行けば、上田与志やコルネリアの姿が見えることでしょう。
先日読んでいた「嵯峨野明月記」でもそうでしたが、細部に至る細かい描写が手に取るように感じられて、通勤電車の中にいながらも、気分はすでに当時の長崎に居るかのような思いを感じます。個々の描写は実にビジュアル的で、映画を見ているようにも思います。辻邦生師は、映画もお好きだったのですが、小説のシーンを、映画のワンシーンのように切り取ってビジュアル化するところは実に巧みだと思います。
今年の旅行はどこにしようかと思っていたのですが、長崎が候補に挙がっています。というのも、全集で「嵯峨野明月記」を読み終わって、解題を読んでいたときに、辻邦生が「天草の海の色は素晴らしい」と書いていることを知ったからです。残念ながら、長崎には行ったことがありませんので、本当に興味深いのです。また、長崎の教会に行けば、少しは西欧に近づけるかもしれない、という思いもあります。本当に行けるといいのですが。
ジェニファー・リー・キャレル「シェイクスピア・シークレット」
先日まで、辻邦生の高雅な世界に沈潜していたのですが、今週に入って、くだんの本を読み始めました。その名も「シェイクスピア・シークレット」。
シェイクスピアの正体への疑いが色々あるのは知っていましたが、実に興味深いのです。クリストファー・マーロウとか、フランシス・ベーコンがシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いていたのではないか、という話しにとどまりません。舞台はイギリスからボストンに移り、それからユタ州、ニューメキシコ州、ワシントンDCへと飛び回ります。
主人公の女性とそれを助ける頼もしい従者という構造は、多分に逆ダン・ブラウン的ですが、それでもパターンは美しいのです。
まだ最後まで読み終わっていませんが、予想通りのどんでん返しに少しほくそ笑んでしまいました。それから、固有名詞が相当出てきますので、さらさらと上っ面で読んではいけません。研究書を読むぐらい注意深くないと。もっとも、とびっきり面白い研究書なのですけれど。
この本を読む前に、是非こちらのシェイクスピア別人説のウィキ記事をおすすめします。昨夜遅くまでこの記事を読んでいたのですが、これだけでも面白い。そして、なぜか恐怖を感じるのです。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2%E5%88%A5%E4%BA%BA%E8%AA%AC":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2%E5%88%A5%E4%BA%BA%E8%AA%AC
久々に。。
久々に、オペラ観て涙が出るくらいじーんと来ました。
2008年新国立劇場の「トゥーランドット」。
テオリン歌うトゥーランドット姫が、カラフの嫁になるのはイヤだイヤだ、と皇帝にすがりつくシーン。あそこのトゥーランドット姫の旋律は奥深くて、イヤだイヤだと駄々をこねるシーンにしては感動的なのですが、テオリンが歌っているのを観て、さらに感動してしまった。
なぜなのでしょう? テオリンの声って、ビブラートが強くて、昔はあまり好きではなかった、というのはいつしかもここに書いたかもしれませんが、2009年のバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」を聴いて、一気に好きになり、今年の新国「リング」でさらに好きになったというところ。
やっぱり、常人には真似できないあの凄まじい音圧を持った声に痺れているのだと思う。ビブラートのことを、「ブースターである」と書いたこともありますが、あのビブラート、一度疑いが溶けると、一気に引き込まれてしまうのです。一言では書けません。ちょっと考えないと。何でだろう? おそらくは人間の極限を見ているように思えるからかもしれない。音楽という非実利的なものに超人的な力を発揮していることに感動しているからかもしれない。
人間なら、だれしもなにかに超人的な力を発揮できるよう努力しなければならないと言うことなのか。テオリンの歌を聴いて、身につまされるからなのか。
ただ、心配なことも。昨夜録音に成功したザルツブルク音楽祭の「エレクトラ」でテオリンがタイトルロールを歌っているのですが、ちょっと不安定に思えたのです。まださわりを聴いてiPodに入れただけなのですが、明日は移動時間が長いので、じっくり聞いてみます。指揮者はガッティ。
昨夜の「ワルキューレ」は、2幕の冒頭、藤村実穂子さんが出演したところでダウン。でも、第1幕観られて良かったです。
あらら──ウィーン夢想
あらら、もう今年の冬の記憶ですら怪しい。バンクーバーをソルトレークシティと間違えてしまうなんて。昔の記憶ほど鮮明なのでしょうか。
今日はレギュラーな土曜日の一日でした。午前中に都内に出て、午後はジムに行き英国人と話した感じ。
久々にテレビをがっつり観てしまいました。NHKハイビジョン特集で、ウィーン国立歌劇場で三十九年間も合唱団員として活躍した日本人女声歌手のアンネット・一恵・ストゥルナートさんのドキュメンタリーを観ました。小さい頃から歌に秀でていておられて、歌手となったアンネットさんは、イタリア歌劇団の合唱に加わったのがきっかけでウィーンに野垂れ死んでもいいという捨て身の覚悟で乗り込み、見事ウィーン国立歌劇場の合唱団に加わることができました。
ですが、やはり日本人ですので、相当いじめられたとのこと。「黄色い猿!」とののしられたりしたとか。そんな辛い日々の中でアンネットさんを救ったのはヘルベルト・フォン・カラヤンだったとは! アンネットさんを練習場で慰め励まし、「辛いことがあったら僕に言いなさい」と、みんなの前で言明してかばってくださったのだとか。翌日からはぴったりといじめはなくなったのだそうです。アンネットさんは、カラヤンに肩を抱かれた途端に身を崩して座り込んでしまい、カラヤンの足に抱きついて号泣したのだとか。
番組をみて、ものすごいパワーをもらった気がする。もっとがんばらないとなあ。ドイツ語ももっと使えるようなりたいです。
しかし、ウィーンの風景をみて懐かしくて仕方がなかったです。7年前に行ったきり。一人旅で大変にエキサイティングでした。小澤征爾指揮で「フィガロの結婚」を観ましたが、小澤さんは、演奏が終わったあと、ほとんど全パートの方と握手しておられました。相当に気を遣っているのだなあ、と感慨もひとしおでした。あとは、「ホフマン物語」が凄すぎて大変でした。
さて、バイロイト音楽祭生中継が始まりました。しばし現世を忘れましょう。
ハードディスクレコーダつれづれ
自宅のハードディスクレコーダがそろそろ寿命のようです。
七年前に買った東芝のRD-X3なのですが、このレコーダで4つのオリンピックをとりましたから、結構長い間使ったと言えましょうか。つまり、アテネ、トリノ、北京、 -ソルトレークシティ- バンクーバー。時が経つのは早いものです。もちろんデジタル放送の録画はチューナーが入っていませんので無理です。遅かれ早かれ来年の夏までには買い替えが必要なわけですから、まあ仕方がありません。そうでないと、オペラ放送の録音ができなくなりますので。
今日は、シノポリ盤の「エレクトラ」を。またオペラを聞けるようになってきました。
そうそう、明日の夜はテオリン様の「エレクトラ」がありますね。
“http://oe1.orf.at/programm/247770":http://oe1.orf.at/programm/247770
ちゃんと録音できるようにがんばります。
暑さに溶けた一週間
うーむ、仕事では回り続けているのですが、ブログはしばらくお休みでした。まあ、いろいろありましたので。
最近はもう辻邦生一色で「嵯峨野明月記」をゆっくり時間をかけて読んでいます。本当はガツガツ読みたいところですけれど。
嵯峨野明月記のことは、書きたいこともありますので、また後日。
今日は新国の「ヴォツェック」のビデオをみて、しばし感動。ベルクは良いなあ。
明日から復活しようと思います。
「嵯峨野明月記」つれづれ
今日も無事に仕事を終えました。なんだか細々と忙しいですが、回っているコマは倒れませんので、しばらく回り続けることにします。
以前にも書きましたが、辻邦生の「嵯峨野明月記」を読んでいます。四年振りに読んでいるのですが、これまでは中公文庫版で三回ほど読みましたが、最後に読んだ四年前に、付箋を山嵐のように付けてしまいましたので、今回は重いのを承知であえて全集版で読むことにしました。
「嵯峨野明月記」は、全集の第三巻に「天草の雅歌」とともに所収されています。
しかし、俵屋宗達のモノローグを読んで感じるのは、よくもこれだけ画家に憑依して語ることができるなあ、ということ。画家の素養がなければ恐らくはここまで書けないのでは。もちろん、その後ろには、哲学的ないしは美学的な裏打ちがきちんとなされているわけです。恐らくは西田幾多郎の影響が色濃く感じられますし、ハイデガーの芸術論や最晩年の芸術論集である「薔薇の沈黙」で語られるセザンヌ論などが影響しているのだろうとは思います。辻文学は奥深い。哲学や美学の素養も必要ですから。私には哲学の素養も美学の素養もなさそうですが。
「春の戴冠」も、「嵯峨野明月記」と同じく画家が主人公ですが、あの本もやはり哲学的色彩が極めて濃かったです。ルネサンス期の新プラトン主義とキリスト教哲学の融合が通奏低音のように響いていましたから。
あとは、今回「嵯峨野明月記」を読んで感じているのは、文章の中に潜んでいる音の数々が実際に耳元でなっている様に思えていること。例えば、月に照らされた海岸の波の音と松籟の音の描写に、心底感嘆しています。それからちょっとした人間の動作が、その人間の性格を言い当てているようなところは、「小説の序章」で語られるディケンズ論との関連が感じられます。この方法もやっぱり「春の戴冠」でも数多く登場しました。
今日、この文章を書く中で、「嵯峨野明月記」と「春の戴冠」の類似性に思い当たりました。二つの小説の舞台は、一方は安土桃山時代、一方はイタリアルネサンス。時代は100年ほどしか離れていません。場所は地球の裏側ぐらい離れていますけれど。この二つの作品の中に立ち現れる芸術論の比較とか、「橄欖の小枝」や「薔薇の沈黙」などの芸術論との比較分析とか。私がもう15歳若ければ、取り組めたのですが。実に興味深いテーマです。今からでも遅くはないかもしれません。
妖しすぎるプティボンのルル
プティボンのルル。こればかりは逃せませんので、気をつけていたのですが、なんとか録音することが出来ました。
それで、もうなんというか、凄くて。何が凄いかって、プティボンのパワーと妖しさの前にひれ伏す感じ。
私的には、シェーファーのルルがデフォルトだったのですが、もしかしたらある意味超えているかも。確かに、第一幕は少し押さえている感はあるのですが、第一幕の後半から第二幕にいたると、叫びとも歌とも何とも言えない激情的でドラマティックなプティボンらしい歌で、なんとも酔いしれておりました。
ルル組曲に採用されている聞き慣れた旋律をバックにして歌うあたりはすごいのなんのって。アルヴァ役のピフカ氏と一緒に最高点まで上り詰めていく感じ。凄いです。
ルル、本当に奥深い。もっと聴かないとなあ。
明日は、午後、所用で出張するので、電車の中でくりかえしたんまり聴けるはず。楽しみはまだ続く。くたばってはおられない。
Mit Patricia Petibon (Lulu), Tanja Ariane Baumgartner (Gräfin Geschwitz), Pavol Breslik (Der Maler), Michael Volle (Dr. Schön), Franz Grundheber (Schigolch), Thomas Piffka (Alwa) u. a.; Wiener Philharmoniker, Dirigent: Marc Albrecht (aufgenommen am 1. August in der Felsenreitschule im Rahmen der Salzburger Festspiele 2010)
暑い盛りの花火大会
今日もハードな一日。午前中は都内某所にて用事を済ませ、地元にとってかえしてカフェで仕事をして、イギリス人と話をして、また都内に戻り、板橋の花火大会にいきました。
花火大会に行くのはじつに8年ぶりです。迫力満点の10号玉や、怒濤のスターマインに酔いしれました。ただ、人が多くて家から遠かったので、帰宅したら結構疲れていて残念。明日はゆっくり休んで仕事に備えましょう。
今日聞いた音楽が数しれず。ワーグナーからシャカタクまで。
今日もっとも印象的だったのはブロムシュテットがサンフランシスコ交響楽団を振ったシベリウスの交響曲第二番でした。これまではベルグルンドの指揮でしかシベリウスの交響曲に触れたことがありませんでしたので、他の指揮者でシベリウスを聴くという非常にスリリングな体験でした。録音は少し曇り気味で、残念なのですが、ブロムシュテットにしては、かなりアグレッシブな熱い演奏でした。
そうそう、なんだか、最近シベリウスの交響曲にリヒャルト・シュトラウスの旋律が聞こえてくる気がします。影響は皆無とは言えないでしょうね。
さあ、いよいよ今晩はプティボンの「ルル」がORFで放送されます。録音無事に終わりますように。