Anton Bruckner,Richard Wagner

デジタルな日々が続いています。やれやれ、という感じ。

私は元来本に囲まれ、日々読書にいそしみ、ものを書き続ける生活に憧れております。

晴耕雨読ではなく、晴読雨読。それも、実学の本ではなく、実世界に役に立たない本が良いです。

小説、哲学、宗教など。も

ちろん役に立たないわけはなく、逆説的に言ってみているだけですけれど。

 

そんななかで、今日聴いたのがこちら。アンドリス・ネルソンスが振ったブルックナーの6番と9番。

そして、このアルバム、絶妙にワーグナーがカップリングされているという。ジークフリート牧歌とパルジファルの前奏曲。
ワーグナーとブルックナーを同じ土俵で聴くと言うこと、それも、9番となると実によく溶け合いまして、同じ作曲家によるものではないか、あるいは、もっと言うと同じ組曲か交響曲ではないか、と思うほどだったりします。

特に、緩徐楽章が際立つアルバムで、ジークフリート牧歌の静謐さ、6番第二楽章の荘厳さ、、パルジファルの恍惚とした感じ、9番第一楽章の峻厳さ、9番第三楽章の深遠な感じは、そこになにか通底するもの、なにか、人と人とをつなぐ共通意識のようなものを感じさせます。

 

それにしても、本に囲まれ、読書にいそしみ、ものを書く生活はいつくることやら。定年になってから来ても遅いわけで、なんとかせんといかんな、せめてまねごとからスピード感をもってはじめてみないと、と思いはじめています。

ということで、遅い時間ですが、まねごとから、ということで、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Anton Bruckner

今週来週は、仕事場が少し離れたところでして、いつもと違う通勤路でなぜか永田町と赤坂見附の乗り換えが発生します。しかも有楽町線から丸ノ内線という。この長い通廊は便利なようでいて大変です。最近リモートワーク続きで身体がなまっていることもあり、また荷物が重いこともあり若干応えます。大昔、父が「この通廊は、核シェルターみたいだ」と話していたのを思い出しました。確かに、場所柄、いざというときに政府が逃げて執務するなんていうストーリーを思いついてもおかしくないです。そういえばフィンランドやスウェーデンの核シェルターは半端なく広大と聞いたことがあります。永田町=赤坂見附の比ではなさそうです。

そんななかで聞いたのはこちら。ティーレマンが降るブルックナー4番。やはり、ブルックナーの交響曲の白眉は緩徐楽章が落ち着くなあ、とか、第三楽章のホルンのフレーズ、これドイツ民謡だなあ、なんてことを思いながら。けだるい夜にはぴったりです。ブルックナーの緩徐楽章だけのプレイリストでもつくってみようかな。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

昨日からブルックナーへの関心が急激に高まりまして、もう二十年は手に取っていなかったであろうブルックナーの伝記を取り出しました。1988年の初版本で昭和の本ということになります。古本屋で買った形跡もないので、おそらくは新刊書店で買ったんだと思います。
早速以下のような箇所を読んで、ブルックナーのインプロバイザーとしての力量を思い出したのでした。

ブルックナーは聞き手が試し弾きかと訝るような単純な音型で始め、次第に高揚感を増して巨大な頂点で終えた。聴衆はオルガンという楽器の本当の威力をこの時初めて知ったに違いなかった。熱狂的な喝采のため、後に控えた演奏者はもはや出番を喪ってしまった。

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この年のドイツ帝国成立を祝って開かれた八月二十一日の演奏会では、特に求められてドイツ愛国歌『ラインの守り』に基づく即興を行った。熱狂した聴衆は、終演後ブルックナーを肩にかつきあげて場内を練り歩いた。

111ページ

ブルックナーは、1871年にロンドンに演奏旅行をしていますが、そのときの模様が描かれていました。こうしたエピソードも解釈された歴史です。事実と解釈は違う可能性はあるでしょうけれど、ともかく、純朴なブルックナーが聴衆の喝采を受けるシーンを想像するだけで、なにか昂揚を覚えます。

今でいえばだれなんですかね。クイーンかだれかが熱狂の中で演奏するという状況でしょうか。私はそういったコンサートにはあまり行かないので映像や伝聞からでしかわかりませんが。

ただ、一つ目の引用「単純な音型」をもとに楽曲を即興で組み立て、巨大な頂点で迎える、というのは何かよく分かる気がします。ジャズのミュージシャンが、実に愛らしいディズニーのテーマをもとに、あざやかにそして激しく昂揚するインプロバイズを見せることがあります。私も、数分間の自分の持ち場をストーリー感を持って組み立てることを試みたことがあり、聴く側としても、演奏する側としても、その感動や面白さはよく分かります。ブルックナーは交響曲作家ですが、その作品群を踏まえて、どんな即興だったのだろうか想像するのも愉しいものです。

今日の東京は雨の一日。明日からは天気が回復するとのこと。楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

 

今日は皆既月食。本来なら真っ赤な月が見えるはずでしたが、残念ながら東京地方からは見ることができませんでした。とはいえ、きっと天上ではなにかしらの素晴らしいことが起きているのでしょう。

私も、今日はひとついいことがありました。AppleMusicからレコメンドされたカラヤンが振るブルックナー交響曲全集に巡り会ったことです。たしか、カラヤンの最後の録音はブルックナーだったはず。調べると、やはり交響曲第7番でした、カラヤンとブルックナーの組み合わせはあまりピンと来るものがありませんでしたが、今回あらためて聴いてみると、特に緩徐楽章の歌い方が素晴らしく、ゆったりとした速度で恍惚とした表情を浮かべながら巡航する感じは、あまりにも甘美です。

そんなことを思っていると、さきほどから、急に無性に第6番のアダージョが聴きたくなり、今聴いていますが、いやあこれは本当に素晴らしく、磁器のようなきめこまかさは、ずっと側に置いておきたくなるようです。この楽章、今日聴いたはずもないのに、なぜか頭に流れてきて、あ、聴かないと、と思ったのでした。未来の記憶をあらかじめ見ていたように思います。

さて、皆既月食は見られませんでしたが、きっとなにかいいことが起きるでしょう。

ということで、今日は少し早めに。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

音楽を聴く愉しみをあらためて発見した気がする。

カンブルランがバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団を振った音源群に入れ込んでしまった。たまたまAppleMusicで見つけて聴いてみると素晴らしい演奏だったのだ。

今日はブルックナーの9番。抑制されていながらその中にたおやかで流麗さが備わった演奏。なにか、ドーリア式の円柱群が聳える旧跡に薔薇が咲きほこる場面を想像してしまう。理知的な感覚の中に、まるで差し色のように輝く美しさが介在してくる感覚。デカルト的論理性の中にモネ的な色彩が織り込まれているのだ。

このカンブルランだが、数年前に実演に接していて、多彩な表情と所作でオケを情感的に引っ張っているのが印象に残っている。オケから荘重な音を引き出そうとするとき、カンブルランはまるでルイ王のようにオケの前に君臨し、オケを統率していた。その挙措は俳優のそれに値する、と思ったのを記憶している。

この音源の中で印象的なのはオーボエの美しさ。何だろうか。この官能的なオーボエは。第一楽章冒頭のオーボエは、なにか身悶えするような官能性に満ちいて、それはもちろんカンブルランの引き出したものなのだが、このオーボエの絶妙なリズム、音色、ビブラートを聴いていると、漆器の名品を愛でるような気持ちになる。どなたがオーボエを吹いておられるのか。少し調べたのだが、残念ながら、バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団は現在は統合されてしまい、すぐにはわからない。是非お名前を知りたい。

さて、今日は年度最後の営業日。週が開けると新元号が発表されるという歴史的な場面に立ち会うことになるのだが、なんだかそう言う実感はない。平成という元号の発表に際しては、昭和に慣れた身には、なにか違和感を感じたものだが、次の元号も、なにか初対面のぎこちなさを感じながらも、少しずつ慣れていくことになるだろう。新たな年度に感じる多く変化を飼い慣らし続けるような感覚を持ち続けたい。

それではおやすみなさい。Gute Nacht.

Anton Bruckner

いやあ、しかし、世の中色々あるものです。思うように行きません。そんな時、自棄になっても意味がありません。自棄は、自分を消耗させますので、生きる上では全く無駄なコストです。

そんな時がもしあったとしたら、お気に入りの音楽でもきたほうがよいです。私がもしそうなったとしたら、として、こちらをきいてみました。

ブルックナー:交響曲第7番
シノーポリ(ジュゼッペ)
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ブルックナーの7番。シノポリが振る7番は初めて聞きました。もう歌わせています。第二楽章など、本当に静謐。勝手な想像ですが、夜明けの蒼い光に照らされるイタリアの古都のようです。青い光に石造りの家や壁や道路が照らされて薄く静かに輝いている感じ。ドレスデン国立歌劇場のオケの美しさは特筆すべきものです。弦のたおやかな繊細さ。素晴らしい。オペラ的なドラマティックな感じもあって、第四楽章を聞いて、あれ、アイーダみたい、とか思ったり。完全に、シノポリを聞いている、という先入観によるものなのですけれど。

明日もまた戦いへ。どうなることか。

それではみなさま、おやすみなさい。

Anton Bruckner

仕事場への通勤時間が唯一の考えられる時間で、スマホがあり、ヘッドホンがあり、文庫本があれば、まあなんでもできてしまうのですが、それでもなお、時間がたくさんあると思うとそれは錯覚で、あっという間に電車は仕事場に着いてしまいます。逆にできることがあり過ぎるから、ですね。

今日は、またティントナーによるブルックナー。5番です。あまりに論理的な構築美が繰り広げられる5番ですが、どう聞こえるのか。時に、晦渋に過ぎる演奏もありますが、ティエポロのような美しさはあるのか。

Symphony 5
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で、聴いてみるのですが、やはり何か繊細な細やかさのようなものを感じて、いいなあ、と心から。丁寧な職人技のようなのですが、職人という言葉から連想される「仕事」という感じではなく、たおやかな「遊び」のようなものを感じました。
ブルックナーをとおしで聴けるぐらいの通勤時間は、良いのか悪いのか。まあ、良し悪しはなくて、あるのは、とおして聴けるというありがたさだけなのかも。通勤時間は、無償の労働と言われますが、まあ、スマホとヘッドホンのおかげで、生産的な時間とも言えそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

今朝読んだブルックナーについての記事に触発されてこちらを。

7番は、初めて聞いたブルックナーでした。おそらくは、1988年ごろかな、と。30年も前。大阪フィルを朝比奈隆が降ったFM放送のエアチェックでした。金子建志さんが、いかに朝比奈隆の指揮のテンポが遅いか、というのを、朝比奈さんの演奏とバレンボイムの演奏(だったと思う)の二つのCDを同時にスタートさせて、バレンボイム盤が終わったところで、朝比奈盤に切り替えて、あ、まだここまでしか演奏できてませんね、みたいな比較をして説明していたのを思い出しました。

私は第二楽章が好き。ワーグナーの死に際して作られた、と言いますが、浄福に至る美しさはしばし世の芥を忘れさせます。この曲聞きながら、黄金の太陽が降り注ぐ雲海を眺めたことがあります。あれは人生で最も素晴らしいひとときの一つだったと思います。

今日はティントナー盤を聞いてみました。20年ほど前に評判になったのですが、なかなか聞けずじまいでした。第一印象は柔和なイメージ。

Bruckner: Symphony no 7 / Tintner, Royal Scottish National Orchestra
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ちなみに、昨今、起きていることが、いいことなのか悪いことなのかわからない状況。多分、世界は透明で平坦なのだと思う。そして思った以上に意味がない。失敗も成功もなく。ただ、あるのは、おそらくは、そうした透明や平坦に向けられる自分の解釈だけなんだろうなあ。

なんてことをこの曲を聴きながら考えてしまいました。

明日でウィークデーは終わり。今日、ひとつ山を越えました。あと山は3つ。頑張らないと。

それではみなさま、おやすみなさい。

Anton Bruckner

日曜日。このところすごい勢いでいろいろなことに気がついてしまい、心がついていかない状況。

で、この言葉を読んでしまうという…。

人間ってね、どんなことでも限度までやり抜かなければいけないわ。限度まで来て、これ以上もう先へゆけないというところまで来て、そこで鞭で叩きのめし、叩きのめししなければいけないのよ。人間が変わるのは、その限度をこえてゆく白熱した眩暈のあいだよ。

「春の戴冠」の一節。修道女になるという従姉妹のマダレーナが、人生を達観していう言葉で、確かにそうかもね、みたいな。まだあと30年ぐらい働こうと思っているのですが、どうやって働くべきか、限度まで働くためにはどうすればいいのか、ということを考えてしまいましたので、なんだか今にフィットする内容でした。

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今日はこちら。

ブルックナー:交響曲第8番
ヴァント(ギュンター)
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ヴァントが最晩年にベルリンフィルを振ったブルックナーの一連のシリーズの一つ。このCDをリアルタイムでかって聞いたということは、時代と一緒に生きることができたという証ではないかと思います。澄んだ音は統率の証し。ダイナミックで繊細なブルックナーには感嘆と嘆息のみだなあ。久々にコンポで聴くことができて嬉しかったです。

それではみなさまよい日曜日を。

Anton Bruckner,Miscellaneous

週末は実家にて短い夏休みでした。すべてを止めてみたのですが、まあ、やっぱりオフは必要なのかも、とあらためて。

これからの計画表を作ろうとしたのですが、それもやめて、夜は早く眠り、早めに起きてみたりしました。夏の日差しを避けて、夕方、涼しくなってから散歩をして、蝉の鳴き声が、クマゼミのそれからツクツクボウシのそれに変わりつつあるのを知り、酷暑の中に秋の気配を感じたり。散歩の途中で驟雨に襲われ雨宿りする場のない畑道で行き場を失ったり。
今日は仕事場で溜まった仕事を片付けながら、いろいろ悟ってしまい、まあ、なんとなく大きな流れに中にあるから流れのなかでベストを尽くそうと思ったり、あるいは、世界は悲しみの中にあるがゆえにそれを肯定することから始まるのだ、と思ったり。

今日はこちら。

ブルックナー:交響曲第7番「テ・デウム」
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チェリビダッケのブル7。ブルックナーの交響曲の中でもっとも優雅な美しさを持っていると個人的には思います。チェリビダッケの指揮は、今聴くと、昔のような重さをあまり感じず、むしろのびやかなはばたきのようなものを感じます。

ちなみに、題名はこちらのパロディです。内容を思い出しただけで涼しい。。

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それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハト。