Apple Music

Apple Musicの勉強を進めています。

これまでは、新しい曲ばかり聴いていたのですが、最近はiCloudミュージックライブラリの使い方の模索をしています。とりあえずの使い方のようなものがわかってきました。

2万5千曲とか10万曲とか、そういう話をしていました。iTunesライブラリ全体を自動的に同期しようとするとこの制限にかかります。

ですが、任意の曲だけを同期させることは、iTuneライブラリの曲数にかかわらず可能なようです。

例えば、Apple MusicにはChick Coreaの音源のうち、Time Warpが収録されていません。

Time Warp
Time Warp

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Chick Corea Quartet
Stretch
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そこで、該当のアルバムの曲を選んでiCloudミュージックライブラリに追加を選びます。すると、楽曲をアップロードするようです。

スクリーンショット 2015 09 30 22 24 00

そうすると、以下のように、iPhoneのマイミュージックにTime Warpが現れます。もちろん同期はしていません。iCloudミュージックライブラリにアップロードしたものをiPhoneが認識している状態です。

image

このように楽曲を選んで、手動でiCloudミュージックライブラリへアップロードして、端末間で楽曲を共有する事ができることがわかりました。

しかしまだまだわからないところだらけのApple MusicとiCloudミュージックライブラリです。

まだ不可思議な挙動などがあり、安心できません。使用は自己責任でやらざるを得ません。みなさまもお気をつけてお使いください。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

賛否両論あるにせよ、なんとなくAppleの製品は使いたくなる説明できない魅力があります。え、そこまでやってくれるの?という驚きです。しかも、それが押し付けがましくなく、洗練されたやり方でサジェストしてくれるのが驚きなのです。

たとえば、iPod時代からのギミックですが、イヤホン端子からコードを抜き取ると音楽が止まる、という仕掛けは、初めて体験した時に本当に驚きました。もしかしたら、どこか別のところで採用されたアイデイアなのかもしれませんが、私はiPodで初体験でした。

で、こちら。

スティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョブズ

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東洋経済新報社 (2013-05-02)
売り上げランキング: 78,292

10年前の本で本当に今さらですが、安く入手しました。しかも紙の本で。ですので風呂に入りながら読めるという贅沢。

まあ、普通のエリートではなく、アウトローの天才がどうやってAppleを作ったのか、がよくわかりました。

私のようなたかだか2年程度のMacintoshユーザにとっては、基本文献的な位置づけにも思えます。

これ読んだら、もっとハチャメチャなことをやりたくなりました。

実際、これも一つの解釈した歴史にほかなりません。真実が書いてあるかどうかはよくわかりません。何度も書いているあのヴェルディ問題がありますから。歴史なんてどうとでも改ざんされます。改ざんした側が「歴史を改ざんするな」といえば、それで歴史は固定されてしまうぐらいの危険性を帯びたものです。大切なのは真実ではなく、正しい解釈可能性ですが、それすらイデオロギーや偏見によってどうとでもなりますから。

それでは今日はこのあたりで。おやすみなさい。

Opera,Richard Strauss

Photo

こちらを引き続き。さすがに手強い。だが美しい音楽。本当に終わることのない甘美な音楽の連続ですが、全体をつかむにはまだまだ時間がかかりそうです。感想を書くのはもう少し先かも。

《ダナエの愛》ですが、初演は1952年とされていて、シュトラウス存命中の公演はかなわなかったようですが、実際には、1944年にゲネプロだけは行われていたのですね。ハンス・ホッターがユピテルを歌い、指揮はクレメンス・クラウスだったようです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Die_Liebe_der_Danae

ザルツブルク音楽祭での公演の予定だったようですが、ヒトラー暗殺未遂、戦局の悪化やシュトラウスがナチスに不興を買っていたなどが原因のようです。

ヒトラー暗殺計画は、7000人が逮捕、200人処刑、ロンメル元帥に自殺を強いる、という過酷な結果に終わったようです。

そんな時代に《ダナエの愛》が演奏されようとしていたとは。なんとも皮肉というかなんというか。もちろんオペラなので政治的な意味も隠されているはずですが。

こちらにいくらか当時の事情が書かれていました。ただそれが真実かどうかは知る良しもありません。

大作曲家 R.シュトラウス

Photo

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Music

やっとひとつ〆切を終えました。それにしても、書く速度があまり衰えていなくてよかったです。

今日もこちらの本。

オペラの学校
オペラの学校

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ミヒャエル・ハンペ
水曜社
売り上げランキング: 65,096

著者のミヒャエル・ハンペは「上拍が大事!」といいます。上拍というのはAuftaktで、つまり弱拍であり、裏拍であり、四拍子でいうと、2拍目と4拍目です。

なぜ、上拍が大事かというと、そこで次の音楽への転回を表現するから、なのだそうです。私は、これを読んで、こういうことだと思いました。

上拍というのは、下拍の前で、指揮者が指揮棒を振り上げるあの瞬間のことです。

オペラ劇場の最前列指揮者の真後ろに座って指揮を観る機会が何度かありましたが、上拍のタイミングで、あえて大きく息を吸い込む指揮者が多く、粗い鼻息のような大きな音をさせます。あるいは、タクトは上拍の場面でより大きなものとなります。

指揮者も歌手も、最も大切な表拍の前で、意思表示をすることで音楽を推進しているわけですので、アンサンブルを推進するのに大切のは上拍=弱拍=裏拍ということになるわけですね。

これを読んで、もう一つ思い出したことがあります。

かつて入っていたプログレバンドのスパルタ(?)練習がありました。ひたすらメトロノームを鳴らして練習するのですが、そのメトロノームのクリックを裏拍としてとるわけです。裏拍でとると、リズムの乱れが如実に現れます。表拍だといい加減でもばれないのですが、裏拍でとるとシビアにズレがわかるのですね。

裏を感じることは、音楽を推進する一つのキーポイントなのだ、と思いました。

で、もう一つ。

仕事場の人とカラオケに行かないといけない時があったのですが、最近の人の歌う歌が全く分からず、正直音楽的にはつらい状況でした。そんな時に、ひたすら裏拍で拍手するというパワハラまがいのことをやって、顰蹙をかいました。「私は拍手も裏拍、組織人生も裏街道」みたいな。。もう二度とやらないですけれど。

それではみなさま、おやすみなさい。

Opera

オペラの学校
オペラの学校

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ミヒャエル・ハンペ
水曜社
売り上げランキング: 91,217

昨日から紹介している「オペラの学校」ですが、面白いエピソードが紹介されていました。ヨーゼフ二世がモーツァルトに《後宮からの誘拐》の感想として「音が多すぎる」と指摘したのだそうです。これは、ヨーゼフ二世が音楽に無知だったということを評判をもたらしたものだったそうです。

ですが、実際には、ヨーゼフ二世は慧眼だったようです。それまでのオペラにおいては、歌手が歌唱と演技における大きな裁量よってオペラを牽引していて、オーケストラは単なる伴奏のようなものだったのです。

ですがモーツァルトはオーケストラが表現する要素を増やしたのでした。オペラ歌手の自由度は減ったということになります。

が故に、ヨーゼフ二世はそうしたことを指摘するという意味で「音が多すぎる」と評価したということです。

その後、オペラにおいて音楽性がどんどん優位になっていくわけで、その最たるものが、ワーグナーのライトモティーフであった、というストーリということです。

シュトラウスの《カプリッチョ》において、音楽と台本の優位性についての議論が、作曲家と詩人と伯爵夫人をめぐる三角関係で議論されていました。

2009年の二期会《カプリッチョ》のパンフレットで、評論家の広瀬大介さんが、どうみても作曲家のほうに分があるという私的をしていたのを思い出しました。

たしかに、作曲家フラマンは、伯爵夫人マドレーヌと翌日11時に図書室で会う約束をしてしまいましたし、二人のやり取りはかなり切迫したものがありましたし。

「オペラの学校」のミヒャエル・ハンペは、オペラはスコアが全て、と言っています。これを音楽至上と本当に捉えていいのかは慎重に考えないといけないのですが、少なくとも、演出における解釈は、音楽に依存するということは言っているはずですので、やはりオペラは音楽のほうが優勢なのでしょう。

さて、今日も色々聴いてしまいました。

《フィガロの結婚》は、アバド盤の洒脱さがいいなあ、とあらためて。心が洗われました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Opera

オペラの学校
オペラの学校

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ミヒャエル・ハンペ
水曜社
売り上げランキング: 89,666

ミヒャエル・ハンペの「オペラの学校」を読んでいます。本当に興味深い一冊なのですが、その中で最も大事なのがこの部分かなあ、などと。

舞台芸術には心を射抜かれる瞬間があって、それは、舞台に関わるすべての人々、それには観客自身も含まれますが、それらが良い条件だった時に訪れるものなのだ、ということ。

この「心の真ん中を射抜きなさい」と言われても、その方法は誰にも教えられないですし、分からないでしょう。

実際の体験において「心の真ん中を射抜かれた」ことがある聴き手は本当に幸福なのだと思います。

私も何回かあるなあ、と思いました。

例えば、以下です。全部新国立劇場だなあ。

  • 初めて新国に足を踏み入れた時、《セヴィリアの理髪師》で、使用人が幕を開ける瞬間に感激。
  • 《ボエーム》第一幕のロドルフォのソロのところで落涙。初めての落涙。
  • 若杉さん指揮の《蝶々夫人》で、蝶々夫人登場シーンで滂沱。
  • ペーター・シュナイダーの《ばらの騎士》で泣きっぱなし。
  • フラッカーロとババジャニアンの《オテロ》で開いた口がふさがらない。
  • 《ヴォツェック》の舞台になぜかときめく。
  • 《パルジファル》クンドリを歌ったエヴェリン・ヘルリツィウスの第三幕での悟りきった横顔が忘れられない。

もっとあるのかもしれませんが、私にとってはこれらです。少ないような多いような。

ハンペの体験は、ゴルドーニ《キオッジャ騒動》の最終場面の演出なんだそうです。登場人物の若い判事見習いが、赤ワイン色のマントを着てゆっくりと幕を閉める場面なんだそうです。

こういうのが、ハンペが「オペラの学校」のなかでいう「心の真実」なんだと思います。

こうした経験は、劇場側だけではなく、聴き手自身のコンディションや感受性などにも左右されますので、だれかひとりが頑張れば良いというものではありません。真実を認識したということだけで、それ以上の証拠は不必要だと言います。非論理的な事態であり、説明することはできないものなのです。だからハンペはこれを「聖体の秘跡」とまで言います。

そういう意味では、これだけあるというのは、真実にそれだけ触れられたということだから、本当に感謝の気持ちしかないです。

来週末の《ダナエの愛》、行くことができるかもしれないのですが、そこでもなにか奇跡が起きるといいなあ、と思いました。

それではみなさまおやすみなさい。

Tsuji Kunio

写真 1 - 2015-09-24

今日は辻邦生の誕生日です。9月24日生まれなので、くにお、と名付けられたということだそうです。そして、今年は生誕90年の節目にもあたります。

それにしても、時代はどんどん変わります。世界も変わりますし、私も変わります。辻先生も人生において変転を重ねたものと思います。

ただ、変わらないのは、人間が人間であることを守る、ということぐらいでしょう。辻先生的に言うと、「美が世界を支える」ということだと思います(これも出典が怪しくなってきています)。

これは、実に難しいことです。実践することは果てしなく困難で、ほとんど徒労感に近いものがあります。ある意味、時代おくれとも思えます。

フランス革命で成し遂げたものの大きさは、とてつもないものでしたが、それすら瓦解していくのでしょうか。

賛否はあるにせよ、それは、先日のシリア難民の子供が溺れたシーンすら風刺してしまうということと関係があるでしょう。つまり、これは、ユークリッド幾何学や形式論理などを乗り越えたことで、自らをも疑う西欧の姿なのだと思います。

あるいは、多元世界において、西欧の言う人間という概念すら揺らいでいる、ということもあるでしょう。これもまたポスト・モダンの議論です。

我々は、西欧の外から、こうした事案を見ています。あるいは、西欧を借りて、自ら当事者となって歴史を生きてきました。が故に、さらに事態は複雑なのではないか、と思うのです。

西欧は不変ではなく、少しずつ姿を変えています。西欧をとりまく世界も変わります。

それでもなお西欧の光を浴びることができるのでしょうか。それが、今もなお最善であることは信じることはできるのですが、それがなお世界で生き続けるにはどうすればよいのでしょうか。

などということを考えながらも、それでもなお、やはり辻文学を読み続けるということなのだと思いました。

辻邦生の言葉のなかから、一つ選んでみました。

平和とは美の創造と同じなのだ。そこに新しい見方、考え方を地上につくることであり、ただ戦力を使わないことではないのだから。

辻邦生 千手堂の消失と心の荒廃 辻邦生がみた20世紀末 信濃毎日新聞社 391

この引用だけだと、解釈が難しく、あたかも戦力を使うことを肯定しているだけのようにも思えます。

ですが、そうではないでしょう。

この前後で論じられているのが、フランス、インド、パキスタンの核実験についての論評で、それ自体については否定的であるにはせよ、そこにはリアリズムへの眼差しがあって、「世界戦略の難しさ、奇妙さ」という言葉が綴られているのですから。

戦力を持つとか戦力を持たないとか、そういう議論をさらに飛び越えたものを想定しているということなのだと思いました。

それは、今年の1月に引用した「春の風駆けて」の一文にも通じるような気がします。

https://museum.projectmnh.com/2015/01/15235917.php

私は、別にそれは、ある一定の主義を肯定するようなものではないと解釈しています。

ここで思い出すのが、ワーグナー《ジークフリート》で英雄ジークフリートがとった行動です。ミーメが鍛えられなかったノートゥングを、ジークフリートは一度溶かして鋳直したのですから。そういう創造的進化のような質的変化が必要ということなのだと理解しています。

今日の一枚。

Richard Strauss: Die Liebe der Danae
CPO (2004-02-01)
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来週末に《ダナエの愛》を観に行けるかもしれなくなりました。予習しないと。

しかし、私ももっと頑張らないとなあ、と思います。常に先のことは考えていますが、緩慢過ぎるのかもしれない、などと。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous,Wolfgang Amadeus Mozart

どうも厳しいスケジュールを抱えてしまっていて、大変な状況になっています。

そういう時に限って、なにか別のやるべきことが現れてしまうわけです。

それにしても昨年末からいろいろと状況が変わりながら、無理を重ねてきましたが、まあ、無理を重ねてという表現をすると今一つですが、なんとか乗り切っているというのが正しい表現だと思いたいところです。

ただ、そろそろ忙しさとのつきあい方も少しずつ変えたい時期だったりもしますので、今後はもう少しセーブしていきたいものです。

物事を変えるためには、時間配分を変える、付き合う人を変える、住む場所を変える、三つのうちどれかを選ばなければならないそうですが、まずは時間配分を変えるところから始めていきましょう。

明日は辻邦生先生の誕生日ですが、もしかすると、特集的な記事は来週28日以降から順次ということになりそうです。明日から週末が勝負です。

今日はこちら。

正当的と思われるモーツァルト。この中から35番「ハフナー」を聴きました。この曲、本当に大好きでして、冒頭のオクターブの跳躍のダイナミズムが本当に現代感覚にマッチするのだと思います。ベームの指揮は、さらりと流すだけではなく、あれ、という引っ掛かりがあります。テンポを急激に落とすのですね。これがベームらしさです。

それではグーテナハトです。

Apple Music

最新記事はこちらです(2015/12/13追記)
iTune Match 10万曲に! だが注意点も!

===
本当に気になるiTunes Match。

以前、以下の記事を書きました。アクセス数はかなり多いので、実際のところを検証して報告したいと思っています。ですが、2万5千曲のリミットや、キャンセルできずに支払うことになる3,980円の年間費用など、なかなか敷居が高いものでした。

https://museum.projectmnh.com/2014/05/05195909.php

その後Apple Musicがリリースされ、iTunes Matchと同じくiCloudミュージックライブラリが使えるようになりました。Apple MusicとiTunes Matchの相違点は、ダウンロードした音源がDRMフリーかそうでないか、の違いです。ですので、Apple Musicの機能として使える楽曲を端末間で共有できるiCloudミュージックライブラリを検証すれば、iTunes Matchの検証にもなるということになりそうです。

私は、先だっての記事の時のように、自分のiTunesライブラリがめちゃめちゃにされるのではないか、という恐れを抱きながらも、iCloudミュージックライブラリをオンにしました。ですが、どうやら既存のライブラリがめちゃめちゃにされるというような事象は発生しませんでした。一安心でした。

楽曲もポツポツと取り込んだものは、勝手に他の端末でも再生出来たりしています。

ところが、iOS9のリリースと同時に、iTunes Matchの制限曲数が2万5千曲から10万曲に増やされるという情報があり、ネット上でも増える増えないの報告が相次いでいますが、公式サイトでも諸々の掲示板情報でもまだ2万5千曲のままのようです。

公式サイト:https://support.apple.com/en-us/HT204146

海外のとあるサイト:https://www.reddit.com/r/apple/comments/3lt1u3/the_itunes_match_song_limit_seems_to_have_just/

ですので、現状、4万曲以上の楽曲を抱えている私のiTunesライブラリが、実際にiCloudミュージックライブラリに適用されているのか分からず、という状況です。

また、iTunes Matchの楽曲制限が10万曲になるという情報はありますが、Apple MusicにおけるiCloudミュージックライブラリの楽曲制限が10万曲になるという情報はありません。

10万曲に楽曲数の上限が緩和されれば、本当の検証になるはずですが、いつになるのでしょうか。まだまだ不安な日々は続きます。iTunes Matchの楽曲制限が引き上げられた時点で、Apple Musicの状況をみつつ、iTuens Matchが10万曲、Apple Musicが2万5千曲という状況であれば、iTunes Matchのサブスクリプションを具体的に検討しようと思います。

今日はこちら。

ライブなので、とにかくテンポが揺れますが、ライブの臨場感や興奮は素晴らしいです。一緒に聴いていた家族にも大好評でした。

それでは。グーテナハトです。

Miscellaneous

スクリーンショット 2015-09-13 13.53.17

Apple Music を使う日々が続いているのですが、学生時代、ジャズの音源を探して、夜な夜な中古レコード店でCDを買い漁っていた頃の思い出に浸っている感じです。あるいはレンタルCD屋の巨大な棚の前に立っている感覚かもしれません。

ジャズでいうと、例えば、ハービー・ハンコックやパット・メセニー、チック・コリア、リー・リトナーといった、一流のなかなの一流ミュージシャンがいます。彼らの音楽は当然素晴らしいです。

そうしたアルバムで素晴らしいプレイを披露してくれるミュージシャンもいます。そうした方のリーダー・アルバムを聴くと、当然それも素晴らしいのです。

ですが、何かそこには、さらになにかが必要な気がするのです。例えば、華と、狂いと、緊密といった言葉であらわされるでしょう。

それは、感覚的なもので、説明できないのです。それは、モーツァルトにあって、他にはないものとも言えます。クラシックの楽曲にもそうした違いのようなものを感じることはままありますね。あれ、そこでこのフレーズ、みたいな。。

今、まさにNHK=FMでかかっている「君の瞳に恋している」も古い曲ですが、サビに続くホーン・セクションのメロディなんて、よく考えると、あれ、そこでこのフレーズ使う? と思います。これもなんとなく、「狂い」のなかに入るのだと思います。がゆえに、30年たっても時に使われるということなんでしょう。

最近、週次更新になっている気がしますが、いや、本当にいろいろなものが変わっていって、そこに合わせに行くのが大変なのです。合わせに行きつつも、変わらないものもあるはずですが、本当にそうなのか。

それでは。