Richard Strauss,Tsuji Kunio

どうも、大晦日というと、ヨハン・シュトラウス《こうもり》を思いだしてしまいます。話の設定が大晦日から元旦射かけてのエピソードだからということで、ドイツ語圏の歌劇場で上演されることが多いとのこと。

確かめてみると、確かに。2018年12月31日、ウィーン、ブダペスト、ベルリン、ブラチスラバ、ローザンヌ、ケムニッツ、ダルムシュタット、デュイスブルク、フライブルク、ノルトハウゼン、シュトラールズントで《こうもり》が上演されます。

しかも、ウィーンは、国立歌劇場とフォルクス・オーパ両方で。

国立歌劇場のアイゼンシュタインは、新国立劇場で活躍していたアドリアン・エレートです。なんだかウィーンに上り詰めて良かったなあ、と。ロザリンデは、アンネッタ・ダッシュですか。この方は、バイロイトでも歌っている方ですが、2003年の新国立劇場《ホフマン物語》に出ていたなあ、とか。

しかし、取り上げるのは、《こうもり》ではないのです。私の中では、《こうもり》の倒錯した感覚、つまり、女中が女王を演じるとか、変装した妻を誘惑するとか、そういう倒錯の感覚や、ウィーン的な絢爛な演出という観点で、リヒャルト・シュトラウス《ばらの騎士》を思い出すのです。

シュトラウスつながり、というわけではなく、どうも、ウィーンの爛熟した貴族社会を描いているという観点で、あるいは、その貴族社会の没落の兆しが仄めかされているという観点で。

あるいは、カルロス・クライバーの《こうもり》と《ばらの騎士》双方が映像化されているので、なにか関連を感じているのかも。

(前振りが長くてすみません)

私が、《ばらの騎士》を初めて見たのは、2000年頃だったか、NHKBSでカルロス・クライバーがウィーン国立歌劇場で振った映像を見たからです。VTRで録画しましたが、今ではもう見られなくなってしまいました。元帥夫人がフェリシティ・ロット。オクタヴィアンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッター。ゾフィーがバーバラ・ボニー。頭を殴られたかのような衝撃を受けたのを覚えています。この映像を見て人生が変わった人がいたということも聴いたことがあります。私は、VTRが観られなくなったのを機に、DVDを買いました。

カルロス・クライバーがウィーン国立歌劇場を率いて来日したときも、やはりこの《ばらの騎士》を演奏したそうです。1994年のこと。私はそのころ、まだオペラのことは全く知らず、下手なジャズ・サックスを吹く毎日でしたので、そうした公演があったことすら知りませんでした。ですが、その後、日本でもクライバーの《ばらの騎士》が聴けたという事実を知って、本当に驚き、あと10年早く生まれていたらいけたのかも、と思ったものです。

今日、大掃除のあいまに、辻邦生が信濃毎日新聞に連載していた記事をまとめた「辻邦生がみた20世紀末」をつまみよみしていたのですが、その中に、辻先生がクライバーが日本で振った《ばらの騎士》を見に行かれたという記述を見つけて驚きました。

ちょうど昨日、twitterを見ていたところ、件の公演のチラシを見ていたこともあり、なにか引き寄せてしまった感覚がありました。

それは1994年10月28日に掲載された「オペラの至福に酔って」という題が付された文章で、クライバーの「ばらの騎士」のチケットをとるのが絶望的で、つてを頼んだがダメだったのだが、キャンセル待ちをしていたら、チケットが入手出来て、見に行かれた、というものでした。アバドも一緒に来ていたのですが、アバドは「フィガロの結婚」と「ボリス・ゴドノフ」を振っていて、それらも見に行かれたようです。

クライバーの《ばらの騎士》に関しては、以下のような感想を書いておられます。

甘美なウィーンの頽廃美すれすれの円熟芳醇や舞台。時の経過を嘆く公爵夫人(フェリシティ・ロット)のアリアは西欧文化の至高の瞬間。クライバーはレース織りのような繊細な音楽を心ゆくまで歌わせた。つくづく芸術は、人間が生きるために欠かさないと思いつつ過ごした秋の幾夜かであった。

レース織りのような繊細な音楽、というのが、まさにそうなんだろうなあ、と思います。何か、伝聞と歴史がつながった感覚があります。

私も、今晩は《ばらの騎士》を観て、少しは明るい気分になって、過ぎゆく時のはかなさを感じながら、新年を迎えたいと思います。

それではみなさま、よいお年をお迎えください。本年、ほんとうにありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。

+3

Miscellaneous

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2018年という一年をみなさまはいかが過ごされましたでしょうか。

人生というものは良いこともあれば悪いこともあるわけで、もちろん私の2018年も、良いこともあれば悪いこともありました。ただ、何か、悪いことを、そのまま「悪いこともあるものだ」と放っておくのもあまり良くないことではないか、と思うようにもなりました。

悪いことを是正するためには膨大な労力が必要になりますが、そろそろさまざま考えなければということと思います。

なんだか変な話になりましたが、それだけ悪いことのほうに意識が向いてしまう一年間だった、ということとも思いました。その悪いことというのも、実際にはそうそうたいしたことではないわけですし、あるいは、それも年が経てば思い出になってくるもの、とも思うのですが。

良いことに意識を向けるとすれば、たくさんの出会いの機会があったなあと。それが本当にありがたかったのです。それが2018年を思い出深い一年にしてくれるように思いました。

私は、幸い、12月28日から休日となりました。12月26日頃から、また喉の痛みが始まり、扁桃炎が再発したようですが、葛根湯を飲んで、なんとか治まったようです。やはり、日頃の疲労は隠しようがないようで、今日は休ませてもらいました。明日からまた再始動できるように務めます。

みなさまもお身体におきをつけてお過ごしください。おやすみなさい。

+1

Tsuji Kunio

もともとはレグルス文庫から出ていた辻邦生のエッセイ集「地中海幻想の旅」が中公文庫から再刊されました。

買ってしまった辻邦生新刊。日常から解き放たれていきたい。 #辻邦生

私の記憶では、この本を見つけたのは1993年初冬、神戸の小さい本屋でした。まったくその存在すら知らなかったので、まるで夢を見たかのように驚き、その後湧き上がる喜びを感じつつレジに向かった記憶があります。確か、本棚の高いところに置いてあったような記憶も。いまから25年前の記憶ですから、かなり改竄されていることでしょう。

 

ともあれ、今回、中公文庫からでたのは本当に嬉しいです。表紙も実に美しいです。

フィレンツェにせよ、ローマにせよ、ヴェネツィアにせよ、一度その魅力にひきこまれた人は、終生そこから逃れることはできない。

イタリアの特色は、ローマにすべてが集中しているのではなく、とくに芸術的、歴史的な見地から見ると、ほとんどすべての町々が、その豊かさを分有しているという点にある。

冒頭読んだだけでも、心を奪われる文章で、しばし電車の中で遠くを見てしまいました。

この辻文学の世界もやはり、「一度その魅力にひきこまれた人は、終生そこから逃れることはできない」というものなんだと思います。

この豊かさの分有と言う言葉、おそらくはイデア論の文脈における分有と言う言葉で、美そのものが個物において現れているということを指すものと思います。「春の戴冠」における桜草のようなものでしょうか。美も含めた豊かさそのものが、イタリアの諸都市において表出しているという文脈で捉えました。

まだ最初しか読んでいませんが、仕事場の机にでも置いておいておくと、一瞬でも日常から解き放たれ、心が晴れるかも、とおもいました。

さて、あと5回寝るとお正月。たこあげもしないと思いますが、今年の正月はあまり出かける予定も組めそうもないので、出来る範囲でこの先についていろいろと考えを深めたい、と思っています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

+2

Gustav Mahler

連休があけてきょうは仕事。掛け値なしに毎日大変です。心労という言葉がありますが、心の労働をしているという気もします。まあ、適宜やるのですが。

で、今日見つけたのが、ハーディングがウィーンフィルを振っているマーラーの交響曲第10番。ラトルがベルリンフィルを振ったバージョンと同じく、クック版第三稿第二版。2007年の録音。

まだ一度しか聞いていないので、語る資格はあまりありませんが、いやあ、これは本当に、淡い霧に包まれた街を眺めるような、そんな気分になります。ビロードかシルクのようになめらかで光沢のあるつややかなサウンドだなあ、と感じます。ウィーン楽友協会での録音。2007年10月23日だそうです。

しばらくは、この音源を聴いて、理解を深めてみようと考えています。指揮者の違い、オケの違い、ホールの違い。いろんなことが分かるはず。

さて、あと1週間で2018年も終わり。なんだかいろいろあった一年間ですが、あと1週間、出来ることをやろうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

+1

Gustav Mahler

先日、マーラーの10番の第1楽章を聴いて、全曲版が気になり始め、さしあたりApple Musicで聴くことのできるラトル&ベルリンフィルのバージョンを聴いています。まだまだ、なにか理解は足らないですね。これまでも何度か聴いたことはありますが、その他のマーラーの交響曲に比べるとあまりに聴いた記憶が少ないです。

それで、このところ、クラシックと言えばほとんどこの曲ばかり聴いています。何度聞いても「果てしなさ」しか感じません。つまり、まったく分かった気がしない=飽きないのです。終わりを知ることなく、ただただ酩酊するだけ、と言う感じです。今日も大掃除をしながら何度も聞いていました。聴けば聴くほど新鮮な発見があるのです。神学の文脈における霊性という言葉が、なぜか心に浮かびます。この曲に彼岸を感じるというご意見を聞いたこともありますが、なにか、宗教的な文脈での死のイメージを強く感じるのです。

もちろん、この曲が書かれた背景というものもあって、妻であるアルマの不倫がマーラーを苦しめた時期にこの曲が書かれたなど、さまざまなのですが、そうした背景にとらわれずに聴いてもそこに何らかの意味を見いだしてしまうわけです。バスドラムとチューバの陰鬱なフレーズは、解説によれば、不倫相手が訪れたときの心のショックと言うことになっていますが、私にはどうにも天国の入り口でをノックして、裁きを受ける時の判決を知らせる音にしか聞こえませんでした。

それは、もしかするとすでに見知った前世の記憶なのかも知れません。ほかにも見覚えのある街を思い出す気がするのです。濡れた石畳とか、曇りきった港から出港する大西洋航路の客船とか。あるいは、マーラーのほかの交響曲の一節が聞こえたり、あるいは後代の作曲家であるベルクを思い出したり。

ウィキペディアによると、このラトルの演奏はクック版第3稿第2版を使っているとのこと。そうか、10番の補遺版はこんなにあるのか、と、ウィキペディアの記事はなかなか興味ぶかい情報が満載でした。マーラーも死に際して、扁桃炎にかかっていた記載も見つけまして、先日ひどい急性扁桃炎で苦しんだこともあり、すこし親近感を憶えたりもしました。

さて、今日は冬至。もう一息で正月ですか。早いものです。明日からは夏にまっしぐら! 早く夏になれ!と思います。

それでは、みなさまどうかよいクリスマスを。おやすみなさい。グーテナハトです。

+1

Gustav Mahler

昨夜からの雨は、今朝もまだ残っていて、自宅をでるときもやはり傘を差す必要があった。冬の雨は、夏の雨のように激しく降ることはなく、ただ、静かに、冷たく、地面を打つのみだった。

今朝から聞いているのは、やはりアバドが振るマーラーの交響曲第二番。

幼き頃(といっても12歳になったかならないかの頃だと思うが)、NHK-FMのエアチェックで、この曲を初めて聴いたときの記憶は忘れられない思いがある。第5楽章の最後の場面、これでもか、というほどに高揚する終幕部は、当時聴いたことのない音楽だった。こんな音楽があるものなのか、と、激しく驚いた。バーンスタイン振る音源だったはずだ。

あの高揚、何百回ときくうちに、初めて聴いた時の衝撃は蘇ることはなくなってしまい、かすかに衝撃の残滓が記憶に残るだけになった。記憶の海を縦横無尽に行き来することができるにせよ、衝撃体験はどう追想されどう再現すべきなのか。体験それ自体ではなく、体験が存在したことだけが記憶に残っているだけなのか。そんなことを考えながら、帰宅の電車の中で、衝撃を再現しようと何度も何度も第5楽章の最終部を繰り返し聞いてみた。

そういえば、今日の夕映が、仕事場の窓から差し込んでいた記憶があった。湾岸の海が輝いていて、金色の光が窓から差し込んでいた。時に夕映えは見事だが、感動は失われ、感動の記憶が残る。あるいは、その感動は変質する。二度と帰らないその場その場の感動に打ち込むことの重要性、一回性のアウラ、なんだと思う。記憶も複製とすれば。

+1

Gustav Mahler

冷たい雨の降る夜に、何か、暗鬱な曲を聴きたくなりました。

ショスタコーヴィッチなどはその最たるもの。リヒャルト・シュトラウスでいうと、サロメやエレクトラ。マーラーでいうと、昨日聞いたから交響曲第5番の第1楽章、第2楽章、あるいは交響曲第9番第4楽章。何か、人間の本性のようなものなそこに表出しているように思うのです。

それで、きわめつけは、おそらくは交響曲第10番の第1楽章だなあ、と思います。これもやはり昨日と同じく、蒼くぬれた夜道を思い出します。

やはり、アバドの指揮で。このボックスは、20年前に買いましたが、いまではAppleMusicで聞けてしまう、という。寂しいような嬉しいような。

やれやれ。20年前に山野楽器で結構高く買ったのだが、今はAppleMusicで聴けてしまうのだ…。

今日も、なんだか大変な一日。一日一日をドキドキしながら過ごしている気がします。

今日は短めに。おやすみなさい。

+1

Gustav Mahler

冷え込んだ朝でした。とにかく、久方ぶりの冬という感じでした。とはいえ、いつもの冬のおとずれより随分と遅き感じです。

とはいえ、どうやら明日から日の入りの時間は早くなるようです。今日の東京の日の入りは16時27分。明日は16時28分です。代わりに、というわけではないですが、日の出の時間はまだまだこれから遅くなります。

本当に夏が楽しみです。ただ、この秋にかならず身体を壊すというのは、広義の夏バテではないか、と疑ってるもいます。気をつけないと。

で、寒い朝、仕事場に向かう電車て聴いたのが、アバドの降るマーラーの5番。

この曲、さまざま解釈があるのだと思いますが、アバドの演奏から痛烈に感じたのは、官能と死という言葉でした。愛情とはそういうものなんでしょう。結局、最後は、何かしらの死で終わるわけです。最近読んだ辻邦生「黄金の時刻の滴り」を読んで、何か感性の間口が広がってしまったようです。人間の原初的なものを、特に第1楽章と第2楽章に感じた気がします。恐れ、妬み、悩み、苦しみのような感情が、直接心臓に差し込んできたのでした。第3楽章以降は明るい色調に徐々に彩られつつあるのですが、今は、それよりも第1楽章と第2楽章を聴きたいです。

アバドの指揮は、この退廃とも言えるような、暗く蒼い闇の中に冷たく光る石畳と銀色の街灯が連なる街の風景を思い起こさせました。あるいは夢の中に出てくる見知らぬ街の記憶なのかも知らないです。もう一人の自分が住む街とも言えそうです。

明日の夜から東京は雨のようです。冷たい雨になりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

+2

Jazz

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寒い一日。

体調を戻すため、昨日も今日も家で過ごしました。

夕方、少し時間が出来たので、聞いたのは、キース・ジャレットのパリコンサート。

1988年10月17日の録音。30年前の録音ですか……。キース・ジャレットのソロコンサートと言えば、ケルンコンサートが一番有名だと思いますが、私はパリが一番好きです。ウィーンもケルンもスカラも好きですけれど。

何か、儚い美しさを感じる演奏、と思います。パリはパリでも、雨に濡れるパリという感じ。パリに行ったことはありますが、パリは雨だったかどうだか。マレ地区の安いホテルに泊まって、夜道をバスティーユオペラに向かったことを覚えています。

今日の東京の日の入りは16時半。17時になると藍色の水の中に沈んでいる感じがします。きっと雨のパリも、藍色の水に浸っていて、街路を行く車のテールランプの赤い光が、まるで魚の群れのように見えるのでは、と思います。

さて、明日からまたウィークデー。みなさまもお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

+1

Tsuji Kunio

12月に入りましたが、寒さもあまり感じることなく過ごしていましたが、そろそろ寒くなりつつあるようです。

実は、今週も関連事案で体調の急変があり療養しました。経験のないことなので、医師の言うことを聞くだけでした。夜間の救急外来など、これまで経験の無いことばかりで、とてもたくさんのことを学びました。ですが、これからが大変で、今はただ途方に暮れています。これからどうやって復旧しようか、という感じです。

とにかく、病が去ると、次に来るのは疲れですね。先日も、リハビリにと思い、洗濯物を干したのですが、それだけでくたびれて臥せってしまうという感じ。病院で座っているだけで辛い感じでした。本当に健康は大切ですが、どんなきっかけでなにが起こるか分からない、ということも感じました。もうあまり無理は出来ないのか、と想うと、寂しさを感じます。やるべきことを早くやらないと、とも思いました。

それで、夜もなかなか眠れませんが、そんな時の楽しみで見つけたのが、Kindle Paperwhite(2014年購入)を布団に持ち込んで読むということです。おかげで少し読書が進みました。

で、こちら。辻邦生「黄金の時刻の滴り」です。

Kindleではまだ半分と少しだけしかです。リルケ、カフカ、ヘミングウェイ、マンなどの文豪をテーマにした短編集です。

物語的にもとても面白いのですが、実のところ文学に関する考察が小説の中に含まれています。あとがきで辻邦生も書いていますが、文学論では書けない小説家(つまり取り上げられた文豪たち)の世界が描かれている、といえそうです。

ですが、小説家の世界を書いているのは辻邦生ですから、辻邦生が「自問自答」しながら書いているということになり、辻邦生の思う小説家の創作手法が書かれていることになります。

例えば、モームをテーマにした「丘の上の家」では、フィレンツェを舞台に、推理小説の組み立て方が描かれています。

また、カフカをテーマにした「黄昏の門を過ぎて」では、カフカのドッペルゲンガーが、コンサートや図書館、娼家で目撃されるという設定になっていて、小説家(=芸術家)が、人間のグロテスクな悲劇、奇怪な、不条理な、滑稽ないかがわしい生というものに形を与えるのだ、というようなことをカフカに語らせるのです。それは、なにか辻邦生の創作の秘密を文豪に語らせているようにも思えるのでした。

それにしても、Kindle Paperwhite 、ほとんど使っていませんでしたが、先日の療養生活以来、愛用しています。このあたりの話は、また機会があれば。

それでは皆様、良い土曜の夜をお過ごしください。お休みなさい。グーテナハトです。

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