敬愛する辻邦生の誕生日。9月24日でくにお、です。
私が辻邦生を初めて読んだのは記憶では1989年のようです。さらに本格的に読み始めたのが、1992年の記憶。そうすると本格的に読み始めてから30年となります。30年なんて、本当に一瞬である、なんてことは若い頃には思いもしませんでした。10年前の記憶ができた時の慄きを中学生のころに父に語ったところ、10年前なんて大したことないよ、なんてことを言われたことをおもいだします。
そういえば、母校の図書館は1983年竣工だそうで、そろそろ40年。40年といえば、小学生だった1985年に、戦後40年、なんてことを聞いていまして、その頃は40年前なんて、想像できないほどの大昔だなあ、とおもいましたが、40年前の記憶ができると、40年なんてつい最近だなあ、と思い、そうすると、そうか、あの頃の大人の方々にとって、戦争はつい最近だったのか、と思い、あの白黒の画像でしか知らない戦争の記憶がもっともっと身近に感じたりするのでした。
長々と書きましたが、つまりは、なにか記憶と実在の不確かさと確かさを感じたということです。それは、個人の意識においては時間軸において語られるものですが、たとえば、辻邦生の物語を読んだ記憶においてもやはり、確かさと不確かさのようなものがあるのかもしれない、と思います。
私の尊敬する知人は、毎年のように「背教者ユリアヌス」を詠まれていますが、私はいま、辻邦生をまとまって読み直すだけの時間の自由と心の余裕を失っているわけです。一時的に暗い窖へと身を潜めていると言っても過言ではありません。なにか、それはフリーメイソンの秘儀のようであることを願うようにも思います。聞いた記憶では、フリーメイソンの入会においては、暗闇から光への過程が重要である、と聴きます。
人生の波においては、暗闇と光が交互に訪れるわけで、その仕組みを知らずに生きることはあまりに危険です。私においては、今はやはり虚無の窖に相応するのではなかと振り返るわけで(というか、この四半世紀はどうにも暗闇で過ごしてきた感もありますが)、つねに貪るように光を求めていたのも、そうした背景があるからだなあ、と思います。生きる喜びは、すなわち虚無の窖へのアンチテーゼです。戦争をみた辻邦生は(私の勝手な解釈ですが)、そのアンチテーゼとして生きる喜びを戦闘的オプティミズムという名の下に推し進め、パルテノン神殿のような美が、貧しい荒野のギリシアに芳醇な文化を押し立てたととらえ、その構図は、それは戦争の悲惨から、美によって世界を止揚する構図へと写しとられたのではないでしょうか。
パルテノンはじつは日本にもあったのでは、と着想したこともあり、それは、どうやら私は奈良の大仏ではなかったか、と勝手な想像をすることもあるのです。貧しい日本の天皇がなぜ大仏を作ったのかは、おそらく、まずは盧遮那仏を作ることで、今風に言うと「ゴールドリブン」に国土を止揚したかったのではないか、などと思ったりするわけです。
(しかし、性急な改革が人々を不幸にすることもまた真理ですが)
(聖武天皇と光明皇后は、実はネストリウス派キリスト教を知っていたのでは、など、興味深い事案も多々あります)
人生も栄光と悲惨の繰り返しなわけですが、そこに窖へと沈殿することなく、常に止揚する原動力としての美があること。さらに、それが世界に働きかけうること。そんなことを思います。
それにしても、実社会にここまでわずらわされると、こうして文章を書く機会を失うなあ、と、残念な思いしかありません。
このブログも15年ぐらい続いているような気もして、こうしてブログシステムで文章を気軽に社会へと発信できるという喜びとありがたさを感じた20年前の感動を改めて思い出したりしてはいます。どんなに駄文であろうとも、こうして文章を綴ることの喜びというのはそこはかとないものがあります。
読んで書くという人生の愉悦を、何か残りの人生で謳歌したいなあ、ということを思います。もちろんその愉悦を教えてくれたのが辻邦生です。辻邦生の本は大方読みましたが、まだきちんと解釈できていないものもあります。また辻邦生が読んだであろう本を読む機会は十分ではなく、あるいは辻邦生を超えて詠まねばならない本は数多あります。なにか、人生の後半戦に差し掛かりながら、たとえ、来世があるとしても、この今世におけるアジェンダは責任をもってこなさなければならないと思った時に、あまり時間もない中で(それは、人生の時間でこあり日常の時間でもありますが)、もう少し大枠の「時間」というものを見据えながら生きていきたいなあ、と思う今日この頃です。
辻先生の誕生日ということで、あえて久々にキーボードに向かいなにか、駄文長文になった感もありますが、これもなにか思考の記録かもしれず、あえてこのままで。
それはおやすみなさい。グーテナハトです。