Japanese Literature

つれづればかり書いていてもなあ、と思いつつ、最近読んだ本はこちら。

神谷恵美子の書いた「生きがいについて」。

時間を見つけて半分ぐらいまで読み進めましたが、衝撃的でした。

自己に対するごまかしこそ生きがい感を何よりも損なうものである。そう言う人の表情は弛んでいて、一見してそれとわかる。これがまたかなり多くの神経症を引き起こす原因となっていると思われる。酒癖が強いものも、このようなところから生じやすい。

使命感に生きる人にとっては、自己に忠実な方向にあるいているかどうかが問題なのだって、その目標さえ正しいと信ずる方向に置かれているならば、使命を果たし得なくても、使命の途上のどこで死んでも本望であろう。これに反し、使命にもとっていた人は、安らかに死ぬことさえ許されない。

自らの使命に従って行きていれば、たとえ使命を果たせなくても、正しく人生を閉じることができるのだが、そうでなければ、安らかに死ねない、というのは、いつもは目を閉じ耳を塞いでいることなのかもしれません。

自らの使命をどう捉えるかということです。

この文章を読んで、2年ほど前にみたテレビ番組を思い出しました。千住博さんが、高野山の襖絵を手がけた苦闘を取り上げたNHKスペシャルです。

「NHKスペシャル 高野山 千年の襖(ふすま)絵 空海の世界に挑む」

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009051267_00000

確か「人は騙せても、自分は騙せない。よしんば、お大師様を騙すことはできない」といった趣旨の話をされていたように記憶しているのです。

芸術作品に真摯に向き合うということがが使命だとすれば、その使命に悖ることはできないわけであり、それは自分を騙すということではなく、お大師さまという半ば超越的な存在にも見破られるのである、ということ。使命を果たさないということは、自分と、あるいは自分の中にある仏性あるいは神性を通して、何か運命や宿命に背いていることになるのではないか、ということ。

そんなことをこの「生きがいについて」を読みながら感じたのでした。

この本は、NHKの100分de名著で取り上げられ、これをきっかけに、司会を務めたアナウンサーの島津有里子さんは、NHKを退職し医者の道へと進まれた、ということでを読みまして、どのようなものか、と思い読んでみたところ、想像通りというか、想像以上のものだったと思います。衝撃というのは、薄々わかっていることを、痛烈に言われてしまった、ということなんだろうということなのでしょう。

https://aria.nikkei.com/atcl/feature/19/012700083/020100003/

半分ほどKindleで読みましたが、これは紙の本で読んだ方が良いかもしれず、あるいは、多くの人に読んでいただきたい本でもあるな、とも思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature

先日も書きましたが、岩波文庫青帯を数十年ぶりに買って少しずつ読むという、この年齢でやっちゃいかんことをやっている気がします。学生時代は全く縁がなかった鈴木大拙、あるいは少しは囓った西田幾多郎などなど。

授業や研究会で本を読み話を聞きましたが、いずれも、書いた本だけをよめばいいわけではなく、そこに至るまでの2000年間の哲学史があり、あるいはそれ以降の解釈の歴史があるわけで、本当に分かった気になるのはまずいな、という思いしかありません。実に厳しい世界でした。私は、大学院に残ろうかと思案しつつも、踏み切らずに就職したので偉そうなことは言えませんが。

とはいえ、そうした哲学史や解釈史を持たない市井の人間も、岩波文庫青帯を読む権利もありましょうし、理解がなかろうともいくばくかは語ることもできるでしょう。そうした個々人の理解不足や解釈のブレのようなものも、何かしらの可能性をもたらすものかもしれませんし、そうした語りが偶然にせよ現れることに意味があるのでは、と思います。

たまたまかもしれませんが、仕事場で哲学に興味のある方がいらして、少し話す機会があったというのも、もしかすると青帯を買ったことと関係があるのかもしれません。

偶然はなく全ては必然だ、という台詞を、二年ほど前に見た「二人の教皇」という映画のなかで知りまして、まあ、そんなもんかもな、と。

で、今日、偶然聞いたのが、カルロス・クライバーが振る「運命」は、その筋では実に有名で、私も初めて聴いたときは、多分に漏れずあまりの鮮烈さに驚いたものです。

こうして、青帯を手にとり、「運命」を聞く、というのも、運命なのかもしれません。

それではみなさま、おやすみなさい。

Japanese Literature,Suga Atsuko

今日は夏至。毎年この日を目指して生きている気がします。幸いにも梅雨なかにありながら、太陽が出ていた一日でした。合間を見計らって印象的な空の写真を。ちょうど、太陽が薄い雲の後ろ側にあって、肉眼で太陽を見ることができまして、これはなんだか、太陽が自分の姿を現してくれて、励ましてもらった感覚があります。

今日は、なぜか合間にこの本を手に取ってしまっています。須賀敦子「トリエステの坂道」。かなり前に須賀敦子さんの本は当然手に取っているのですが、なぜかそこに晦渋な構築感を感じ、手放した記憶があります。あれから数十年が経ち、先日丸谷才一氏の辻邦生追悼文「『夏の砦』のことなど」を読んで、須賀敦子さんが辻邦生の影響を受けたのではないか、ということを読み、もう一度手に取ってみようと図書館から取寄せたわけです。

丸谷才一氏は、須賀敦子さんの文章を「その激しく過去に執着する書きかたによつて印象的だけれど」(辻邦生全集第20巻480頁)と評しますが、確かに私が「晦渋」という言葉を感じたのは、この過去への執着と言うことなのかもしれません。そこに描かれるミラノでの暮しの風情は、厳しい生活の風景のなかにあって、そこに映し出される本質の幻灯のようなものに見えました。丸谷才一氏はまた「土台のやうなものは日本私小説の方法があったとみるほうが蓋然性が高い」(同480頁)とも表しており、ミラノの生活や、亡き夫にまつわる記憶=それは、夫のみならず、鉄道員で早世した義父や、戦中戦後苦労し子を早くに喪った義母、あるいは親族達という夫一族にまつわる記憶でもあるのですが、そうした一族の記憶を綴りながら本質へと迫ろうとする方向を感じるものであるなあ、と思いました。
とにかく、久々に、次が気になる本で、ついつい読み進めてしまうという感覚は、この忙しい毎日にあって、数年ぶり(村上春樹を呼んだとき以来?)でした。なにがこの本をこんなにも魅力的な物にしているのか。それは我々が知らないミラノの暮らしであり(グラッパに野草を漬け込む、という話など、興味深いことこのうえないものです)、あるいは第二次世界大戦と地続きの歴史であるということでもあり、本質的には我々と変わらない人間がそこにある、という普遍性であり、など、後解釈でさまざま考えることができますが、そこに現前するミラノの街の実体感を感じながら、く読むことの「幸福」がそこにある、ということにまとめられるのだと思います。

ということでみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature,Murakami Haruki

今日も村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読みました。

【ネタバレ注意】

 

第三部の最終においては皮剥ぎボリスの話が出てきます。この強制労働のイメージ、炭鉱の描写が鮮烈で、あまりにショックです。

先日も書いたように、私は小説において現実と小説世界の境が分からなくなることがあります。今置かれている状況とこの強制収容所のシーンがあまりに密接に絡み合っているような気がしています。

この強制収容所のイメージは、おそらくは人間にとっては普遍的なイメージなのだと思います。

人間は誰しも何か閉じ込められているという状況なのではないか。そこから飛び出そうとしてもなかなか飛び出せないと言うイメージは人間にとって普遍的なものではないだろうか、と。

それは、家庭に閉じ込められているでもいいし、とある地方に閉じ込められているでもいいし、会社に閉じ込められているでもいいし、あるいは国に閉じ込められているでもいいし、地球に閉じ込められている、ということでも良いのです。おそらくは人間の普遍的な要求としての「解放」と言うものがここに現れているのではないかと思うのです。

それにしても、本当に胃が痛くなる気分の悪さを味わっています。それは、別に村上春樹の文学が悪いわけではありません。それほど深く共感してしまったということです。それほどに強い文学、ということなんだと思います。(疲れ切った身体には応えます…)それは、先日も書いたように、辻邦生の文学を読んで、そこにある理性の明るさがあまりに眩しくて目が潰れてしまう気持ちを味わったのと似ています。

おそらくは、辻邦生と村上春樹は逆の方向を向いています。しかしながらそれはぐるっと回って同じところでつながっている気がします。真実を語っていると言う意味において。

もう少しで「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えます。次は何を読むか。あるいは、ブログに書くのは続くのか?

みなさまも、ゆっくりお休みください。おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature,Murakami Haruki

今日はほとんど小説を読む時間が取れません。ただ、そうはいっても5分ぐらいは読んでみようかなあ、と思い、手に取りました。

引き続き村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」です。

て、運命に関する記述があり、とても驚いたのです。しかも、通奏低音と言う言葉とともに。

運命の力は普段は通奏低音のように静かに、単調に彼の人生の光景の縁を彩るだけだった。

昨日、私がは「通奏低音のように何か運命性のようなもの」と書きましたので、その偶然に少し驚いたのです。

村上春樹は、音楽音楽を愛好していますので、そうしたメタファーを使うのは自然だと思います。私もジャズもクラシックも大好きですので、このような偶然があっておかしくはないと思います。先日も書いたように、こうした村上春樹の間口の広さが、多くの人に受け入れられる理由であるように思います。

明日からまた仕事です。休む間もありません。せめて早く寝て明日に備えます。

それでは皆様、おやすみなさい。

Literature,Murakami Haruki

今日も、少しだけ小説を読んでみました。

村上春樹です。今日は週末ですので自宅におりましたので、電車に乗っているわけでもなく、別に小説を読む時間があるわけでもないのですが、まあ、せっかくなので少しは読んでみようかなあと思い、5分ほど時間を見つけて読んでみた次第です。

それで、村上春樹を語るほど村上春樹を読んでいるわけではありませんが、それでも何か語りたくなるような欲求を抑えないわけにはいきません。

今日、私があらためて感じたのは、物語の中にまるで通奏低音のように何か運命性のようなものが流れていることを感じる。それもほとんど超自然的な運命性です。

辻邦生においてもやはり超自然的な運命の出会いであるとか、あるいは幻覚や天変地異あるいは天文学的な現象等によって、運命性を感じさせる場面があります。例えば、背教者ユリアヌスでは、ローマの神々がユリアヌスの前に姿を現し、ユリアヌスに様々な示唆を与えます。

村上春樹においてはそれを超えるような超自然的運命的な事柄が描かれているわけです。「ねじまき鳥クロニクル」では、ノモンハン事件、満州国、井戸と言ったキーワードで、場所や時間を超えたつながりが描かれていると思います(もちろん、まだ読み終わっていないので全貌がわかっているわけではありません)。

私は、昔から思うのですが、小説においては、普通では説明のつかない、現実を超えた、あるいは科学では説明できない超自然的現象が、何かしら語られていることが多いように思います。

小説の起源が、おそらくは古代において口伝えで伝えられた神話であるということからして、あるいは、18世紀以降の小説が未知の世界を伝えるメディアだったということからして、小説が自分の理解や知識を超える何かを伝えるものだとすれば、小説が超自然的なことを伝えることに関して何の不思議もなく、むしろその本質の1つなのではないかと思います。

などと言いつつ夜も更けてきました。そろそろ眠りについて、明日に備えないと。

それではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

Literature,Murakami Haruki

今週月曜日から始まった小説を読む時間。今日で5日目になります。今日も引き続き、「ねじまき鳥」を読んでいます。

村上春樹の小説は間口が広く、だれもが何か共感できるチャンネルを持っているのが強みだと思います。歴史、音楽、政治、芸能…。この間口の広さが、普遍性の秘密なのだなあ、と。これはやはり「騎士団殺し」でも感じたことです。プロットはあるような無いような。しかしながら、伏線と謎が縦横に張り巡らされているように感じられ(もしかすると、それは、伏線があるかのように読者が受け取るように仕組まれたものとも思えますが)、ページをめくる手が止まらないわけです。

ただ、ときに、その手が止まることもあるのは何故なのか。もしかすると、この特異すぎる世界観を理解することは精神的な負担が強い、ということではないか、と。現実世界で生きているなかで、村上春樹の文学世界はあまりに苛烈に真実で、心が焼き切れてしまいそうなのです。

それは、辻邦生を読むときにも感じることです。あまりに現実と離れた理想の世界を見たときに、感じる脂汗をかくような疲れにも似たものです。おそらくは、真実は、現実にとっては都合が悪いことなんでしょう。だから脂汗をかいてしまうということなのかもしれない、と思いました。

今日の東京地方はとても良い天気でした。朝の雲1つない空は筆舌に尽くしがたいものでした。明日も明後日も良い天気。そしてそれ以降は梅雨が来そうです。皆様もよい週末をください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature

今週から、仕事場からの帰宅時間は、小説を読む時間と決めてみました。

おかげで、「背教者ユリアヌス」を読み終え、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を再開しました。ずいぶん中断していましたが、不思議にも違和感なくどんどん入り込んでいます。

思えば、辻邦生ひとすじでこれまで生きてきました。永井路子、岡本かの子、塩野七生などを読む機会がありましたが、それ以外の小説を読む機会はありませんでした。外国だと、プルースト、アニタ・ブルックナー。あるいは、SF。ハインラインやアシモフ。振り返りきれていないかもしれないですが、記憶の地平の上にあるのはそうしたものです。

こうして、振り返ると、あまりにも小説を読んでいないと思われるということと、文学でいうと女性作家が多いということに気づきます。理由は特にないはずですし、あったとしても後付けの理由のはずです。

で、村上春樹も、ほとんど読めていません。ただ「騎士団長殺し」や「色彩のない多崎つくると 彼の巡礼の年」はリアルタイムに読んでいます。予約して買いましたし。本を予約して買うワクワク感は半端ないです。

いずれにせよ、帰宅時間で小説を読む、という習慣が長く続けられるよう、頑張りますし、実際長く続けられることを願っています。

それではみなさま、おやすみなさい。

Literature

先日読んだ、エル、という本。早川文庫から今年刊行され、映画化もされています。

エル ELLE (ハヤカワ文庫NV)
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個人主義フランスならではの話かなあ、なんてことを思いました。

話の中身は大人向けでしたが、サスペンスの結末としては、うまくいってまして、最後まで面白く読み続けました。展開がとても早く、そのプロトコル(通信手段、あるいは波長を合わせると言う意味において)に慣れるのに少し時間がかかりましたが、慣れてからは物語世界に取り込まれてしまった感覚があります。

ヒューマニズムという言葉がありますが、フランスにおける、あるいはこの本で描かれるフランスにおける、個人主義が個人の尊厳をそこに含まれる何かしらの善人ぶるようなニュアンスはなく、徹底的で戦闘的なヒューマニズムがあるなあ、と思ったりしました。

愛するということについていえば、個人主義を徹底した結果としての不倫関係があったとしても、あるいは極度の個人主義の結果として一人で生きることを選択したとしても、切れることのないのが親子関係であり、それはけっして清算できるようなものではないからこそ、個人主義とは相容れないものを受容する必然性が厳然としてある、ということにも気付かされました。

親子の愛情と男女の愛情の違い。いや、愛情ではなく愛憎とでも言い換えるべきかと思いますが。

筋書きをかけないまま、抽象的に書くしかないのですが、なにかそういうことを思いながら読みました。おすすめです。

一ヶ月ちかくかかっていた風邪がようやく収まってきました。寒い日が続いていますので、みなさまも暖かくして体調にはお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Japanese Literature,Miscellaneous,Murakami Haruki

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
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騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
村上 春樹
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引き続き騎士団長な日々。思った以上に面白く、また示唆に富んでいて、本当に面白いです。

村上春樹が多くの受容者を得るのは、村上作品にある間口の広さなのではないか、という気がしています。音楽、絵画、文学、ミステリー、大衆性、経済、歴史、古典といった様々な要素が盛り込まれていて、詠み手に何かしらの共感を得られるようになっている、ということなのかも、と思います。その間口の広さは、単に広いだけではなく、深いもののように思えるということもあるのだと思いました。やはり、村上春樹の古い読み手にはなかなか叶わなさそう、と思います。

今日は、やはりこちらを聴き通しました。ショルティらしい推進力や爆発力がある《ばらの騎士》でした。

Der Rosenkavalier

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しかし、考えることたくさん。どうすればいいんだろうか、と。ただ進むだけですけれど。

というわけで、今日は短く、おやすみなさい。グーテナハトです。