Opera,Philosophy,Richard Wagner

あっという間に春ですね。今日は暖かい一日でした。
今日もリング漬けです。ブーレーズがバイロイトで振った「ジークフリート」の第三幕を聴いております。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ピエール・ブーレーズ
  • 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
  • ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
  • ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ

結構重い部分もある演奏というのが第一印象でした。ブリュンヒルデのギネス・ジョーンズさん、強力なんですが、覚醒の場面でピッチにずれがあって、ちょっと残念。これ、映像も持っているんですが、全然見ていない。まずは音源からですね。ミーメのツェドニク氏、ここでも良い味出してます。

ニーチェ入門 (ちくま新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
売り上げランキング: 5331

昨日から、思い立って「ニーチェ入門」を再び手に取りました。もう邦訳であったとしても原典にあたる体力が今今はありませんので、竹田青嗣のわかりやすい新書版で復習しています。この本の欠点はわかりやすすぎるところでしょうか。わかった気になっていると足下をすくわれますので、注意しなければなりません。あと、図に書くのはNGだ、と先輩に言われたこともありました。
いずれにせよ、一時期はワーグナーに傾倒していたニーチェですので、リングとの関連性はやはり否定できません。一昨日に書いた「ジークフリート」の最終部分で「ほほえむ死」というところ、永遠回帰を雄々しく肯定するあたりとつながるように思えてならないです。
あと、ニーチェの「神」と、私が言っていた貴族階級的神のつながりは、この本を読む限りでは見いだせない感じ。もう少し考えないと。来月の「神々の黄昏」で答えが見つからないかなあ。

さて、今日は良いことが二つありました。
# この前受けたTOEICの点数、あがっていました。良かった。これで会社に報告できます。ベトナム現地法人に異動にならないかしら。でもまだまだですな。先は長い。コツコツやろう。
# 先ほどつぶやきましたが、最近、人生最大重量更新中だったのですが、脂肪だけじゃなくて筋肉が増えているらしいことが判明しました。確かに最近ふくらはぎが、部活動していた頃のように硬く太くなってきました。ズボンがきつくなり始めましたが、太っているだけじゃなかったんですね。
アフォリズムをひとつ。 つり革広告「若い人とつきあわないと歳食うぞ」。けだし名言。

Opera,Richard Wagner

うーむ、難しい話しになってきました。
いったいジークフリートとブリュンヒルデを結びつけたものは何か? 
指環?  ファフナーの返り血? つまり、ミーメの心の中を読めたようにブリュンヒルデの胸中を推し量ることが出来たから、口説き落とせたのか? あるいは、運命、だなんていう月並みな言葉でしか説明できないのか。
昨日まで、私は、世界を支配する指環か、ファフナーの返り血がジークフリートを一瞬にして成長させたとのでは、と思っていましたが、どうにも袋小路に入り込みました。私はブランゲーネの媚薬のような何かが、ブリュンヒルデとジークフリートを結びつけたのではないか、と推測していたのですが、方向を間違えている気がしてきました。
ちょっと状況を整理しますと……。
ブリュンヒルデの覚醒からしばらくの間、ジークフリートをどんなに心配し、愛していたか、と歌い上げます。これは、ヴォータンに背き、ジークムントを助け、ジークリンデを庇っていたことを示しているのですが、ここではかなり踏み込んで「愛していたのだ」と歌う。まあ、長い眠りから覚めて忘我の状況にあるので、いささか感情的なのでしょうか。
ところが、ジークフリートが求愛が続くと、いささか調子が変わってきます。かつて神聖なる戦いの女神であったブリュンヒルデが、ヴォータンの孫とはいえ、人間の男の妻となり従うということの屈辱を切々歌い始めます。
それでもなお、ジークフリートは迫り続ける。もちろん詩的な言葉で(どこで覚えたんだろう? でもすばらしい)。
すると突然、まるで点から光が差し込んだように「ジークフリート牧歌」のフレーズが差し込んでくるのです。最初のブリュンヒルデのフレーズは短調ですが、まだ心が揺れていることがわかる。ですが、その後徐々に高揚へと向かい、クライマックスへと導かれる。
ジークフリートが、どうしてブリュンヒルデの心を動かしたのか。あるいは、ブリュンヒルデはなぜ心を動かしたのか。リブレットを読んでいるのですが、なかなか分かりません。
クライマックスで歌われるのは永遠の愛などではありません。ブリュンヒルデは、ヴァルハラと神々の破滅を歌い、一方でジークフリートこそが永遠であると歌います。ジークフリートはブリュンヒルデこそ、永遠で恒久で宝なのであると歌います
最後に二人が歌う言葉は「ほほえむ死」。Lachender Tod ! ここ、実にニーチェ的。永劫回帰の中で、一度でも幸福を感じ、肯定せよ、という強い意志。これは、新国立劇場のパンフレットで茂木健一郎氏と山崎太郎氏の対談の中でも述べられていました。
すこし指摘しておきたいのは、神として永遠の存在だったブリュンヒルデが、神性を奪われ人間という有限の存在へと落ちたと言う事実。これは、まるでイエス・キリストの受肉にも見えてきます(アタナシウス派=ローマカトリックにおいてはイエスは神性を失いませんでしたけれど)。
「神は死んだ」と言ったニーチェ。
次は、どうやらニーチェの世界に踏み込まなければならなくなりそうな予感。けれども、ここでいう「神」とは、ニーチェの言う「神」とは少し位相がずれているとも考えています。昨日書いた通り、神が貴族階級だとしたら。
まだ、ブリュンヒルデをジークフリートが口説き落とせた理由は分かりません。底なし沼にはまり込んだ気分で、まだ諦めずに考えます。
会社では、難しいプログラムを読む後輩を「こんなもの、人間の考えたものだ。考えればかならずわかるんだ!」といって励ましていますが、さすがにワーグナーの考えたもの、あるいはそれ以降蓄積された解釈群ともなると、人間が考えたというような生半可なものではないようです。
明日も頑張ります。

Opera,Richard Wagner

むむむ、もう私のなかはリングだらけで、毎日のように「ジークフリート」と「神々の黄昏」を聴いています。今はブーレーズの1980年のバイロイトでブーレーズが振った音源です。これ、かなり強力な演奏です。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ピエール・ブーレーズ
  • 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
  • ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
  • ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ

この音源については一寸置いておいて、ジークフリートとブリュンヒルデの関係について考えてみたいと思うのです。
私は、これまで、どうにもジークフリートのことが理解できませんでした。
育て親のミーメが、黒い裏心を持っているとはいえ、多少は感謝の心を持ってもいいのではないか。確かに恐れを知らぬ英雄だけれど、恐れを知らぬとは、結局無知であることを知らないに過ぎない。
ソクラテスは「無知の知」が重要であるといいますが、ジークフリートは明らかに無知によりすぎている。世間知らずの怖いもの知らず。これはもう、堅気ではない。不良中学生と変わらないではないか、と。
その一方で、いざブリュンヒルデに出会った途端に、彼が女性であることを見抜く。ジークフリートは女性と話したことがあるのでしょうか? 森の小鳥ぐらいではないか。まあ、動物のつがいを見たことはあるようで、人間にも男性と女性がいることぐらいは知っていたかもしれませんが、ミーメはジークフリートに「俺はお前の父でもあり母でもある」なんていうでまかせを言わせてしまうぐらい、ジークフリートは外面上、男性と女性の区別について理解を進めていなかったと思われるのです。
それが、最終幕のブリュンヒルデとの邂逅と目覚め以降、饒舌な求愛の言葉を口にし始める。どうして、ジークフリートほどの奥手な男が、元は神の一員でもあったブリュンヒルデを口説けてしまうのだろう、という疑問。これには、どうにもアプリオリな(先天的な)記憶の遺伝がなければ説明がつきません。
この問題を解くのは難しそう。でも、凄く考えがいがありそうで、今日も仕事しながらブツブツと考えていました。。
私は昨年の夏にバイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」をウェブ映像で見ています。ブリュンヒルデの目覚めのシーンを見た途端、あ、これは「トリスタンとイゾルデ」第一幕なんだ、と直感したのです。作曲順で言うと、「ジークフリート」の第二幕の作曲を終えたワーグナーは、いったん「ジークフリート」を離れて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「トリスタンとイゾルデ」を完成させ、その後「ジークフリート」の第三幕に戻ってきます。
ご存知のとおり「トリスタンとイゾルデ」第一幕の最終部においては、侍女のブランゲーネが、トリスタンとイゾルデが要求した毒杯の代わりに、媚薬を飲ませることで、トリスタンとイゾルデは禁じられた愛情関係に陥ってしまう、というもの。
では、ジークフリートとブリュンヒルデの間には、なにがあったのでしょうか?
今日、机を立って、ブラブラとトイレへと向かうときに、閃きました。
ああ、ジークフリートは大事なものを持っているではないか、と。
続きは明日。もう少し考えをまとめる必要がありますので。
* ワーグナー作品というよりワーグナー文学、ワーグナー思想の守備範囲の広さと解釈多様性。考えれば考えるほど楽しいですが、もっと勉強しないといかんですね。
*っつうか、最近思いつきで仕事している気がする。歳食ったんだなあ。。。気をつけないと。

Movie

「リング」に登場する神々とは、貴族階級ではないか、という仮説。
ジークフリートがはけたあとの新宿駅で、この仮説に思い当たったときに、ひとつの映画を思い出していました。
それは10年近く前に恵比寿で見た映画でした。第一次世界大戦後のイギリス貴族の屋敷を描いた作品で、あの中で、時代が変わり行く中で貴族たちが商売に手を出して失敗したり、遺産目当てのおべっかを使ったり、といった、貴族たちの没落の様子が描かれていたのです。
でも、どうしても題名が思いつかなかった。それが3月14日の夜のこと。
昨日の帰宅後、ブログを書いていて、どうにもその映画のことが気になったのですが、なかなか思い出せませんでした。監督の名前も思い出せない。
それで、うちの奥さんに聞いたんです。
私:「あのさあ、貴族の屋敷に集まって、主人と使用人の立場をコントラストにした映画って、なんだっけ?」
奥さん:「え、それ「ゴスフォードパーク」のこと?」
私;「そうそう、それだ。すごいね、よくわかったね」
奥さん:「だって、今衛星放送でやってるよ」
私はあまりの偶然に言葉も出ませんでした。テレビをつけたら、やってる。「ゴスフォードパーク」。
マジですか。。。
すごいシンクロニシティです。運命的なものを感じました。
奥さんは、夕食作りながら、キッチンの小型テレビで見ていたんですね。ですので、後半は二人で食事を食べながら見ていました。私の仮説の話しをすると、奥さんが前半部分で、「貴族たちは自分を神だと思っている」という意味のセリフがあったと教えてくれました。まさに私の仮説と一致する符号でした。録画をしていたので、さっき確認しました。確かにそう言うセリフがありました。
「ゴスフォードパーク」では、けだるい貴族の集まりの最中、当主が殺されるというのが本筋の物語。まあ、犯人探しはひとつの謎なのですが、それだけがこのストーリーを牽引しているのではありません。その周りにいくつもいくつも置かれた多様で豊かなエピソードがストーリーを肉付けしてよりいっそう味わい深く意味深いものとしています。
映画館で見たときもかなり見ごたえがありました。奥さん曰く、さすがに料理作りながら見られるほど簡単な映画ではなかったとのこと。そのとおりだと思います。
そう言えば、「ゴスフォードパーク」で殺される当主は、従業員の女性達と関係を持って、生まれてきた私生児たちを施設に入れた、という設定でした。まるでヴォータンのようです。
さて、「リング」のほうですが、ブーレーズがバイロイトで振った演奏の音源を手に入れました。早速iPodに入れて、「神々のたそがれ」を聞き始めました。

Opera,Richard Wagner

その資本主義貨幣経済のもとで消えていった「神々」とは誰なのか? 
これは、今回ジークフリートを見て閃いたのですが、貴族階級ではないか、というのが今の私の一つの考えです。天上界でのんびり長寿の秘訣であるリンゴを食べて、死んだ勇士達を集めて防衛を固め、城を築いて、酒宴を催し、ヴァルキューレ達が接待する。とはいえ、いざ戦いが始まれば、先頭に立つ人々。ノーブレス・オブリージュ。まさに貴族階級。
フランス革命以降、貴族階級は資本階級に支配権を取って代わられる。けれども、王政復古や1948年の革命弾圧で19世紀中は滅ぶべき運命になんとか抗おうとする。結局は二つの大戦で決定的にその命脈を絶たれてしまうわけです。原因の一つは産業革命と資本主義だったはずで、それがアルベリヒのリング。貴族達はなんとかその後の資本主義世界で生きていこうとするのだが、適応できたのはわずかに過ぎない。もちろん、貴族の末裔で権力を握った人々もいます。ド・ゴールとか。でも、それは彼が貴族だったからではなく、彼が機会と能力に恵まれたからでしょう(もちろんその「機会」を得るのは貴族だったが故に容易だったとも言えますけれど)。
音楽家にとっても、19世紀は大きな転換点だったのです。18世紀までは音楽家達は王侯貴族お抱えでしたが、19世紀になるとそうも行かなくなるわけです。だから大衆向け(といっても、貴族も資本家もその一部だったはずです)のオペラや演奏会が催されるようになる。
一部の例外を除いては。
その一部の一人がワーグナーなのは言うまでもありません。横やりを入れられながらも、自らの理想である神聖なるバイロイトを創建できたのは、バイエルン国王ルートヴィヒの庇護と援助のおかげです。
ワーグナーは、貴族達の滅び行く運命を見通していた。それは、「神々の黄昏」最終幕の大洪水に飲み込まれるヴァルハラ城が暗示しています。そこに哀惜と諦観を感じていた。ヴォータン=さすらい人の、無抵抗の嘆息はそうした気分であるはずです。
それで思い出した映画やら本は数あまた。
また長くなりますので、また次回に。

Opera,Richard Wagner

今日は一日休みました。といいつつ、午前中はカフェに出かけたのですが、とある尊敬する方に偶然お会いして、なんだか緊張しましたが、気合いも入れてもらった感じです。
執拗にリングのことを考えてしまいます。どうにもとまりません。
リングは何のメタファーなのか、という話しはよく聴く議論で、まあ核兵器とおっしゃる方もいれば、資本主義経済だとか貨幣経済とおっしゃる方もいる。
WIKIによれば、演出家のパトリス・シェローはマルクス主義との関連性をも指摘しているらしい。ワーグナーは革命運動にもかかわっていましたので、関係が出てきてもおかしくないです。ここは、思想史ですね。勉強しないと。
そういうこともあって、個人的にフィットする考えは、やっぱりそうした資本主義貨幣経済というとらえ方です。まあ、オーソドックスな解釈だと思いますけれど、サヴァリッシュ盤のレーンホフの演出を一度見てしまうと、どうしてもその呪縛から逃れられません。「ラインの黄金」で、アルベリヒがニーベルング族を従えて財宝を掘る場面で、ニーベルング族は金色の細かな流動体として表現されていましたので。
上のリンクはそのサヴァリッシュ盤DVDです。
もうひとつ、そこでどうしても避けられないのが、ニーベルング族がユダヤ人のメタファーではないか、ということ。これ、あまり気が進まないですし、危ない解釈なので、書くのも躊躇するのですが(このことは、「ジークフリート」のプログラムの中でも指摘されているのですけれど)、ワーグナーがユダヤ人嫌いであったことを考えると、なおいっそうこの可能性を排除するわけにはいかなくなります。
リングが資本主義貨幣経済のメタファーだとすると、「ヴェニスの商人」やロスチャイルドなど、ユダヤ人の商才というまことに類型的な符号と一致します。
じゃあ、その資本主義貨幣経済のもとで消えていった「神々」とは誰なのか?
長くなるので、これは次回に。

Jazz

通勤時間はリング漬けです。「ジークフリート」と「神々の黄昏」をとっかえひっかえして聴いています。
というわけでなんとか離脱して今日も帰宅しました。久々に夜更かし。明日も午前中アポイントメントがあるのですが。
先日、実家に戻ったときに、私が学生時代に聴いていた渡辺貞夫の「ナイト・ウィズ・ストリングス」のパッケージがあって、聴いてみよう、と思ったのですが、中身が入っていない……。あんなに愛聴していたのに。
というわけで、早速借りてみました。ナイト・ウィズ・ストリングスのボリューム3です。
* サックス:渡辺貞夫
* ピアノ:ラッセル・フェランテ(!)
* ベース:マーク・ジョンソン(!)
* ドラム:ピーター・アースキン(!!!)
すごいですねえ。大御所そろえています。
# If I Should Lose You
# Just Friends
# Have Yourself A Merry Christmas
# Laura
# Out For Smoke
# Easy To Love
# The Gypsy
# Cycling
# Old Folks
やっぱり、アルトサックスとストリングスセクションの相性は抜群です。チャーリー・パーカーの「ウィズ・ストリングス」も有名ですが、ナベサダのストリングスもやっぱり良い! メイヤーのマウスピースが醸し出す正当派ビ・バップ。私だってこういうの聴いていたんです。意外かもしれませんけれど。
ただ、元アルト吹き的には、なんだか他人事にも思えないようなところもあって、複雑な気分です。アルト・サックスの記憶にはなんだかまがまがしいものがありますので。でも、アルトを買った頃のことを思い出します。ナベサダのCDを借りてきて、たーんと聴いたものです。これも意外ですが。
しかし、夜がいよいよ深まるこの時間、暖かい部屋でこうしてこのCDを聴きながら文章を書ける幸せ。感謝せねば。
録音は1994年にオーチャードホールにて。あのホールの残響はかなり長いほうかと思ったのですが、この盤では意外とデッドな印象です。
さて、明日もまたリングのことを書く予定です。執拗ですいません。
ところで、先日Twitterでつぶやいた肺の痛みの件、実は胃の痛みであることがわかってきました。高校に十二指腸潰瘍をやらかしたんですが、あのときと痛む場所が全然違うので胃痛とは思いませんでした。肺のすぐ下、肋骨の底辺あたりまで胃があるらしく、そこで痛むらしい。肺じゃなくて良かった。まあ、胃だから良いというわけでもないですけれど。胃薬飲んで週末はおとなしくしています。

Opera,Richard Wagner

起き上がって、窓の外を見ると銀世界。今年は雪の日が多い関東南部です。幸いなことに道路にはあまり積もっていませんでしたので、足を滑らすこともなく駅にたどり着きました。会社の窓からも雪国のような光景が広がっていて、ちょっとした感動。ところが、お昼を過ぎるともう雪は跡形もなく消え去っていました。一瞬だけ訪れた幻想世界。ですがすぐに現実に戻っていくわけですね。忘れないうちに、書いておかないと。
と言うわけで、新国立劇場のジークフリートを見て思ったことを書くシリーズは4回目です。2回ぐらいで終わるはずでしたが、まだ続きます。
ジークリンデを助け、ジークフリートを育て上げたミーメですが、ジークフリートには嫌われ、ミーメは嘆いています。こんなにも世話してやっているのに、何でお前はこうも俺を邪険に扱うのだ、と。ジークフリートはどうしてミーメの家に戻ってくるのかわからない、と言いますが、実は自分の父母のことを聞きだすために戻ってきているに過ぎないことに気づきます。ともかく、ジークフリートはミーメを忌み嫌い最後には殺害してしまう。育ての親であるにもかかわらず。
私は見ていて、ミーメが被害者のように思えてならない瞬間がありました。「表層的」に見ると、ミーメの常識はわれわれの常識に近いものがあります。恩を与えたのだから、感謝されえた当たり前だ、というような。せめて、育ての親に謝意ぐらいあらわしてもいいのではないか。そういう意味ではジークフリートはグレた中学生のようにも思えてきて、何が英雄だ、と、まあこういう感想を抱きます。さすらい人=ヴォータンは、ジークフリートのことを「自由に行動する天真爛漫な若者」、と言いますが、これはもう世間知らずの生意気な若者ととってもおかしくない。少なくとも今回の演出やキャストにおいてはそう感じるのです。
では、「表層」から「深層」へと進んでいくと、ミーメの野望は、ジークフリートにハフナーを退治させ、指輪や隠れ兜を手に入れ、世界を支配しようというものであることがわかります。結局、ジークフリートに手を焼きながらも、世話をするのはこの野望を達成するための手段であるに過ぎないわけです。下心がありながらも、世話を焼くミーメの姿は実に醜い。
ですが、こういった姿をどこかで見たことありませんか?
私は、あります。それは自分です。
会社でレトリックを使って泳ぎ回っていますが、まさにそれって、ミーメ的だなあ、と。これ以上書くと、あたりさわりがありますので書けませんけれど。しかし、財や権力を求めるために時に平身低頭し慇懃無礼で、時に恫喝して何かをコントロールしようとする範型的な社会人の姿はミーメに映し出されています。
無限大に善であるということは、生存を放棄することに等しく、そういった単純な性善説とか、原理主義に基づいて生きていくことは不可能であり、どこかで折り合いをつけ、内心ではなにか後ろ髪を引かれながらも、やむなく進まなければならない。そういうわれわれの姿を、蒸留し抽出したのがミーメであり、これこそ昔から変わらぬ人間の姿ではないか、と。
もちろん、すべてがすべてとは申せません。だからこそ、リングというファンタジックな物語にあっては、余りにリアルであるが故に、ミーメは死すべき運命にあるのだなあ、と考えた次第。ところが現実世界においては、ミーメでなければ生きていけないのです。

Opera,Richard Wagner

今日も寒いですねえ。今晩の関東は雪が降るそうです。午後は外出だったので寒さが身にしみました。明朝の電車が心配です。
さて、今日はキース・ウォーナー氏の演出について。
月曜日にも少々触れましたが、今回の演出、全般的に私にとっては好印象でした。キッチュな側面とシリアスな側面の不安定な融合が実に効果的でして、視覚的にもまったく退屈することのない演出でした。
幕前には赤い鉄床(かなとこ:あるいは鉄敷)がおいてあります。まあ、これはミーメが鍛冶屋であることや、ノートゥンク(ヴォータンがジークムントに与えた剣を鍛えるということを暗示しています。 第一幕はミーメの家です。四方八方に監視カメラが設置されていて、モニタにはカメラ映像が映し出されているという設定。ジークフリートはわがままでぐれた男の子のような感じ。ノートゥンクは、いったん溶かして鍛え直す、というのが本来のあらすじですが、この演出ではジークフリートがノーゥトンクを包丁で切り刻んでミキサーにかけて、作り直すという読み替え。強烈な皮肉です。
第二幕の冒頭左上から巨大な矢印が舞台中央に向けて斜めに落ちていて、Nachthäleと書いてある。舞台前面には二つの部屋。これ、場末のホテルといった感じで、左側にはさすらい人ウォータンが、右側にはアルベリッヒがいる。ヴォータンはさしずめ疲れ切った地方周りのセールスマンという風情で、アルベリッヒは松葉杖をついている。二人は壁を隔てているのだが、互いの気配を感じている。二つの部屋はなぜか扉でつながっていて(実際にはこんなホテルはないと思いますが)、二人のダイアローグはこの扉を通じて行われます。
ジークフリートのもの思いのシーンでは、着ぐるみで動物たちが登場するというこれもまたキッチュな感じ。大蛇ハフナーは舞台奥に巨大な木の怪物として登場しました。
面白かったのは、ハフナーを倒して指環を手に入れたジークフリートから、ミーメが指環を取り戻そうという場面。ミーメは眠り薬の入った飲み物を飲まそうとするのですが、大蛇の血をなめたジークフリートにはミーメの内心がわかってしまう。ここの表現は、ミーメは舞台と舞台裏を行ったり来たりするのですが、舞台裏からミーメの映像がテレビに映し出されて、ミーメはの内心はテレビを通じて歌われます。この感覚、結構好きです。映像は緑色のフィルターがかけられていて、色彩感覚がすこし異常な感じに仕立て上げられていました。
第三幕冒頭、エルダ登場のシーン。エルダは回転する巨大なジクソーパズルのピースの上に横たわっています。天井へ(つまり地上?)へとつながる三つのはしごからは三人のノルンと思われる人物が降りてきます。床には映画フィルムが散乱しています。このフィルムのイメージは「ワルキューレ」でヴォータンが映画フィルムを編集するような場面がありましたがそことつながっているのでしょう。
ジークフリートはこの幕ではブレザーを着ていて、少々大人っぽい感じに成長しています。ブリュンヒルデ登場までは、舞台前面が黒い壁で覆われて中の様子をうかがい知れません。左右にそれぞれ緑と赤の照明で照らされた扉があります。意図的かどうかわかりませんが、この光の配置は船や飛行機の燈火と同じです。
まずは、防火服を着た鳥の声の歌手が登場しますが、これはブリュンヒルデを包むローゲの炎の暗示です。その後ジークフリートが登場。右側の緑色の扉から登場し、左側の赤い扉から中をのぞき込む。ブリュンヒルデを見ているんですね。
ブリュンヒルデは、舞台上の傾いだ銀色に輝くベッドに横たわっています。背後では火が燃えていまして、私は常々舞台上で火を使うのが不安で不安で仕方がないのですが、やっぱりあのときも不安でいっぱいでしたが、まあ途中で消えましたので良かったです。
銀色のベッドは強く白い光が反射していて実に神々しい雰囲気。ブリュンヒルデは真っ白い服に真っ白い運動靴。ジークフリートも運動靴です。で、この理由はおそらくは、傾いだ銀色のベッドの上で演技するからでしょう。傾いて滑りやすいベッドで、下手をすれば転倒だと思いますので。
鉄床は、第一幕では普通に置かれていましたが、第二幕では傾いていて、第三幕では巨大な鉄床になっていました。
明日は総括を書く予定。