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先週末の夕暮れ。三日月から太陽を追いかけながら、地平線に身を投じようとしています。

それにしても、昨日の出来事は、個人的には大変な思いを感じるものでした。このところ、こうした文章を書くことをサボっていたのは否めないので、何か怒られたような気がしたのも事実です。辻邦生は、「ピアニストがピアノを弾くように文章を書く」と書いています。私も、かつては、書評誌に書評を書いたこともあったなあ、と遠い記憶を感じたりもします。何度も書きましたが、高校時代に、ワープロを入手し、時を忘れて文章を書いた時のことが思い出されます。最近は、生成AIが清書してくれますので、仕事のレポートも、粗々のメモを役員用のメモにして、と生成AIにお願いして作ってもらっています。とはいえ、生身の人間が、自分自身で書くということもしばらくは廃れないでしょう。これは、手書きかワープロか、と、人間が書いたか生成AIが書いたかは、本質的に違うと思いますので。素人が仕事を語ると、それがたとえ正しそうであっても、うまくいくことはないように思います。人間は、事物の向こう側の文脈や物語を見ています。生成AIには、それがありません。それは、いくらロボットが超絶技巧の演奏をしたとしても、生身の人間の演奏と同じ感動をもたらさないことと似ているでしょう。

ともかく、いくら生成AIを活用しても、仕事は増えるわけで、それは、コンピュータが発達したことで、かえって仕事が増えたのと同じなので、驚かないわけですが(あるいは、数年後には本当に人間の仕事がなくなる、という危機感は増すばかりですが)、そんなわけで文学作品を読む余力はなく、仕事に関連する文章を読んでいる気がします。

そんななかでも、素晴らしい本は、五百旗頭真先生の「日米戦争と戦後日本」という本。いかに、終戦に至ったのか、が、米国側の視点で描かれていて、大変感動したのです。終戦がなったのは、米国側の知日派の並々ならぬ戦いがあったわけで、その知日派の方々と親交を深めた日本の政治家や軍人の長きにわたる努力があったということ。そして、早期講和に繋がった米国の厭戦を導いたのが、賛否もありますが、戦った方々の想いであったのでは、ということでした。

仕事に、直接関係あろうがなかろうが、視野を広げて、多くの人と繋がっておくこと、そして、最後まで無駄だと思わずにやり切ることは大切なことですが、そんな当たり前ですがなかなかできないことをあらためて教えてくれてのがこの本だったと思います。もちろん、それは、仕事に限ったことではなく、あらゆる場面で同じだと思いました。

それにしても、国際政治史は興味深いです。辻邦生の「春の戴冠」も「ユリアヌス」も「嵯峨野明月記」も、いわば国際政治小説とも言えます。こうした知見は、仕事においてもよく役立つものです。

暑い夏の最中に、80年前の今日、まさに、ワシントンと東京でギリギリの判断をしていたのを思うと、いまの日本の発展にありがたさを感じるばかりです。

それでは。長々とすみません。ここまで、27分でした。

おやすみなさい。

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今日、7月29日、この一年、私たちを楽しませてくれた金魚が亡くなりました。

生命が失われるのを見るのは、いつでも辛いことですが、あのとき、こうしてあげればよかったのでは、などの後悔もあるのは否めず、何か寂寥とした思いに囚われています。

奇しくも、今日は辻邦生の26回目の命日でした。1999年のあの日を私は忘れないでしょう。そして、こんな日に、小さな命が消えたのも何かの縁でしょうか。

最近は、何をもなしえぬまま、俗世の仕事にまみれる日々で、何かしら咀嚼しえぬ思いも抱えながら日々過ごしている感覚があります。

あの金魚を喪ったことは、なにかを私に伝えるものではなかったか、とも思うのです。数ヶ月に渡って、本調子ではなかったあの金魚が、数ヶ月耐えに耐え、よりによって、辻邦生の御命日に逝ってしまうとは、偶然の所産とは思えないのです。

あの子が回復したら、新しい水槽に五色の砂利を敷き詰め、清らかな水を注ぎ、また、ゆっくりとした生活を送らせてやりたい、と思っていたのに、今日この日に逝ってしまうとは。

あらゆる生き物はいつかはこの世を去りますが、そこには何かしら意味があります。彼、あるいは彼女は、こうして何かを伝えて旅立ったということは、そこに意味があるわけで、そこに意味を見出すのが、生きている我々の努めなのでしょう。

私は、今日のこのことで、なにか、通底するさだめがあるのだと思いました。それは、人智を越えた何かで、語ることの許されないものなのだと思います。

実際、こうして、意味を見出した、といって、私自身が心の整理をつけようとしていること自体が、何か利己的で弁解がましいものなのかもしれません。それは否めない。ですので、この瞬間は、感謝と謝罪を繰り返すことしかできず、時が経つにつれ、世界全体がそれを理解し赦し、一つの平穏な世界へと回帰していくことになるのでしょう。

世界は波であり円環ですので。

ともかく、暑い日が続きます。みなさまもどうかお身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

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徒然なる日々が続いています。

最近、糖質制限を、初めて見ました。忙しすぎて、なんとか体調を上向きに、という意図で、ついでに、アルコールも控え気味に。

始めたのが、先月、4/24から。なるべく白米含めて、炭水化物は取らず、肉、野菜、果物を、取る感じ。

変わったことといえば、朝、ちゃんと起きられるようになったことかも。ゴールデンウィーク中も、割と早めに起きられまして、これはもしかして、いい方向なのか?とも。体重ももちろん減るわけで…。

一日一度は白米を食べても良いようなのですが、食べると眠気がひどいので、それもやめてしまいました。最近は、コンビニでチキンが売ってますので、白米抜きでも全く問題ないです。

パスタや海鮮丼などは食べられないのが残念ですが、しばらくは、続けてみるかな、と思います。

今日は差し当たり。。

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それにしても、この数年は目の回るような忙しさで、それこれも、ある種自分が招いたことでもあるわけで、やむを得ない部分もありますが、先週、今週と、久々に週末に自分の時間を作って、身の回りの整理整頓をしてみて、何かやっと、色々と落ち着きを取り戻せる予感のようなものを感じつつあります。

差し当たり、自宅の部屋を少し整えて、本に囲まれたところで、作業をするように変えましたが、今のところ、一定Comforableだったりもします。限度はありますが、身の回りを整備して、心を落ち着けるのも、パフォーマンスを上げるためにも、何かを成し遂げるためにも、大切なことかもしれません。

ちょっと色々なものを置いてきてしまった感もあり、全てを取り戻すことはできないような気もしつつ、新しいことも起きるのだろう、と思いながら、年度末に向けて粛々と責務をこなすかな、という感じです。

それでは。

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いやいや、本当に、書くことから離れてしまう日々が続いていました。本業の仕事に埋没し続ける時間が続いていますので。

この数年、様々なことが動いて、スリリングな毎日でした。

こういう時は、「もう少し落ち着くといいなあ」と思うのが普通の考えなのかもしれませんが、どうも個人的には、こうしたいろんなことが揺れ動く毎日でないと気持ちが落ち着かないようです。

現代はVUCAの時代らしいですが、そういう時代の方が個人的には性に合っているのかもと思います。

ところで、このブログ、前身を含めると、20年ぐらいやっていることになると思います。今時、ブログなんて時代遅れで、XとかNoteなどが主流になったり、あるいは、今時は動画配信が主流になっています。そもそも、文章自体、生成AIが書き始める時代だったりします。時代も大きく変わりました。

個人的には、AIがどんなに進化しようとも、人間が人間として表現することの意味はまだあるような気がしています。人間同士が共感し合える時代である限りはそれが続くと思いますが、今後、AIと人間が共感したり、その境界線がなくなる時代が来ればまた別ですけれど。

時代はどんどん流れるなかで、半世紀ほど生きてしまったわけですが、今後、人生100年と言われる時代になるとして、人生は折り返しということになります。

あと50年も生きるのか、と思うと、気が遠くなりますが、それがそうだとしたら、それは変えられない宿命ということになりますので、その中で、意味のあることができるように、新しいものを積み重ねていくか、と思います。

それでは。

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ブログというものに出会って20年にもなると、ブログというものも、古色蒼然とした感じもあります。X(Twitter)も少し色褪せた感もあります。何年経っても自己表現というものは、生きていくためには必要不可欠ですが、どうしたもんかな、と思うことしばしばです。

最近は、文章よりも、映像の方が伝わるようですし、生成AIで文章を書くのが効率の良い在り方らしく、生成AIを使わず文章を書いたら怒られることもあるようです。

何となく、長く生きすぎたかな、なんてことを思ってしまいますが、生きるためには、状態を整えなければいけませんので、AIでも、脳外記憶でも、ロボットでも、何でも来ていただかないと、と思います。あと数年で、ヒューマノイドロボットがくるようですので、心の準備も必要ですね。

そんな中で、人間として生きるためにはどうすればいいのか、と。人間にしかできないことはなんだろうか。それは、あらゆる意味で、共感、物語、徳、といった、何か感興のようなものが、普遍的に変わらないものなんだろうな、と思います。おそらくは芸術以外のものは、AIに代替されうるのだと思いますが、人間を対象とする芸術だけは、やはり人間にしか担えないのではと思います。人間は、芸術に、芸術家の生き様を映しながら見ているからだと思います。

近頃、クラシックといえば、アバドをよく聞きますが、言葉では表すことのできない、なにものをも包摂するような柔らかい風情はいつ聴いても変わることはありません。そこには心地よさを感じる、ということもありますが、移ろいゆくものの中に繋留されたブイのような感じも思います。こういう私も、実世界では、AIやデータを調べていますが、そこにポジティブな思いも感じつつも、繋留ブイの必要なことも感じています。生成AIが全てを語り、ヒューマノイドロボットが、街ゆく自動車と同じように、風景の中に溶け込む時代が5年後に来た時に、そこにある動くものと動かないものを見極める眼を養っておく必要があるんだろうな、と思います。

そうか、文学、芸術、宗教といった、これまでは実世界では脇役であった分野が、人間の主戦場になる日はそう遠くないのだろうと思い、そうした日々に向けて備えて行かないとな、と思います。

ということで、皆様、本年は、あまり書けず、すみませんでした。どうか、良いお年をお迎えください。

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久方ぶりではありますが、なんだか、幸福な気分になったので、こちらにアップしてみようと思います。

未明にあったパリ五輪の開会式録画を、今朝方見ていたのですが、なんだか素晴らしいなあ、と思いました。雨模様ではありながらも、パリの人たちが協力しながら、五輪を盛り上げている様子は胸を打つものがありました。

そして、何より、スタジアムを使わずセーヌで開会式をやるという、ラディカルな発想。こんな奇抜なことを考えて、実行に写せるのは、個々人がその独自性と思考で存在証明をし、国民自ら自由を勝ち取ったという気概をもつフランスだからこそなんだろうなあ、と思います。

開会式で流れる音楽は、ポップスでありながらも、アメリカのそれとは違い、独特な気品のようなものを感じたりもしました。

雨に打たれながらも、一糸乱さず楽器を吹く親衛隊や、ピアニスト、ダンサー。どの国でやっても、やはりそうだと思いますが、雨に打ちひしがれることなどなく、整然と挙行するのは、人間の強さだなあ、と思いました。

辻邦生がご存命ならもうすぐ99歳となるのですが、この開会式をご覧になった時に、どんなことを思われるのかな、などと思いながら、あの辻邦生が直感を得たポン・デザールが開会式の舞台になっているのを画面の向こうに眺めたりしました。

辻邦生のご命日まであと二日となりましたが、いつものように暑い盛りではありながら、何か辻邦生的にいうと、人間が人間たらしめたものを見たような気がして、爽やかさを感じました。きっと、「春の戴冠」で描かれた、ロレンツォが主催する祝祭も、こんな感じだったのだろうな、などと思いました。

ということで、文章だけのポストではありますが、この辺りで。

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あけましておめでとうございます

すでに一週間も前になりますが、元旦に丹沢の向こうに顔をのぞかせる富士山を撮影しました。

2024年になりました。以前も書いたかもしれませんが、「思えば遠くへきたもんだ」という一節が心に浮かびました。

人生はジャーニーだな、ということをちょうど4年ほど前に感じたのですが、そうすると本当にジャーニーになるのが面白いところです。

今年のジャーニーはなにかな?? おそらくは、公私において「書くこと」をはじめとした発信をテーマにしたいところですし、書くためには、調査・研究・読書・経験などなど、インプットもさらに必要だな、などと思ったりします。

元旦から様々なことがあった2024年ですが、皆様にとって良い年になりますように。

それでは。

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昨日、1月27日は満月の夜でした。東京ではいい感じに雲が出ていて、幻想的な満月が出ていました。

今年も残すところあと3日。今年もありがとうございました。来年はどんな運気かな?

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今週は数日間年次休暇で、金曜日に出社して仕事納めという感じです。なんだか仕事納めという言葉自体古めかしさを感じます。なんだか昔の職場の感覚がなくなってきていますので、平成の多くを会社で過ごした人間には違和感もあり、まあ年を重ねて、記憶の価値や時間の感覚が変わっていくなかにあっては不可避な気分なんだろうなと思いますし、こうした感覚の変化を自覚したうえで違う世代の人々と強調していかなければいけないな、という思いが日に日に強くなります。

休暇は、ただただ日頃できていない家の仕事を必死にこなしている感じはします。その中には、もちろん体力回復も含まれていて、このところの疲労で、インフルエンザ、ついで気管支炎に近い風邪が続いていましたが、ようやく体調も戻ってきたようです。

で、今日聞いているのは、基礎からいろいろ聞いてみようと、「若いうちに聴きたいクラシック100曲」を。音楽学者の広瀬大介さんの手によるもの。ありがたく拝聴中。

https://togetter.com/li/1480224

https://music.apple.com/jp/playlist/%E8%8B%A5%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%AB%E8%81%B4%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF100%E6%9B%B2-by-dhirose/pl.u-ygAlSygjZA

若い時にがいつなのか、というのはありますが、大学生向けのプレイリストなので、20歳前後までなんでしょうけれど、自分はどれぐらい聞けていたかなあ、なんてことは思います。器楽曲はほとんど聞かず、オーケストラ曲ばかり聞いていたなあ、と。その後オペラに開眼して、オペラをずいぶん聞きこんで勉強した思い出があります。このブログにもその記録が延々と。。

このブログも2006年ぐらいに始まっちゃっているんで、もう20年近く維持していて、Crazyにも思えてきますが、まあこういうのも悪くはないでしょう。

ということで、今は、ギューンター・ヴァントの未完成交響曲を聞いています。意外とドラマチックで驚きました。いつまでたっても未完成なのは、文章も人生も同じかもしれないです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。