Tsuji Kunio

その基本に、もう一度人間を人間らしい展望の中に取り戻す仕事をしようとしているんだという姿勢を取り返していただきたいと思います。

辻邦生「言葉の箱」新潮文庫 45ページ

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
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久々に、自宅で風呂に浸かりました。ずいぶん寒くなりましたので、湯温を上げてゆったりと。静かな夜でした。

湯船に浸かりながら本を読むのが楽しみなのですが、この「言葉の箱」の文庫本をパラパラとめくりながらしばし体を休めました。どうせ多忙なので、まとまった時間本を読むことなんて出来やしません。ですので10分の読書を何回もやればいいのである、そう思いました。

で、冒頭の一節。

人間らしいとはなにか、という問題はありますが、それは学術的な問題なのでしょう。文学はテーゼを述べてもよいのかもしれず、そうだとすると、ここで言っている人間らしさ、というものが何なのか、というものは自ずとわかってくるはずです。

そうだとすると、思い浮かぶのは、中世ヨーロッパの手工業者の市民的生活でしょうか。辻邦生作品にもなんどかモティーフが現れていたと思います。仕事をしながらも歌を愛するマイスタージンガーのような人物なのかもしれません。あるいは、同じく「言葉の箱」にでてくる、会社の社長をやりながらも、登山に明け暮れる人物のこととか。

最近、ヒューマニズムだけは、人間である以上原理原則になりうる、ということを考えていたこともあって、この文章が眼に入ってきたようです。

明日も早起きの予定です。みなさまも体調にお気をつけて。おやすみなさい。

Miscellaneous

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仕事場の近く。柱状列石のようです。

いろいろばたばたしていました。

《ドン・ジョバンニ》も断念しましたが、行った方に聞いたところでは、楽しいパフォーマンスだったそうです。

今日はビル・エヴァンスConsecration と、シュトラウス
の《平和の日》を聴きました。脈絡なし。ビル・エヴァンスを聴き込むというプロジェクトも少しずつ着手です。

では取り急ぎグーテナハトです。

Photo

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連休中にお参りにでかけた神社にて。
なんか、30年前の写真のようです。小説か映画のような光景で少し驚きました。
いまでもこんなことってあるんですね。すこし心が洗われる思いがしました。

明日からもまたフルパワーでいきたいところですが、落ち着くまで少し時間がかかりそうな感じ。

ではグーテナハトです。

Classical

フォーレ:管弦楽曲全集
フォーレ:管弦楽曲全集

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フォーレの管弦楽曲全集。本当にリラックスできる良い音楽ですね。

以前から大好きな楽曲群でした。特に、1枚目が大好きでしたが、2枚目も素晴らしいです。

昨日の10月12日、このアルバム二枚を朝の9時から13時ごろまで何度も繰り返して聴きました。若干の大仕事をしながらだったのですが、おかげで、大仕事ながらすこしはリラックスできて進められたのだと思います。

1枚目はやはり「マスクとベルガマスク」の第8曲ですかね。弦のピチカートに乗せて、管楽器の青磁のようにアンニュイで美しい合奏が繰り広げられます。ホルンのあげる狼煙のような合図が

2枚目ですと、有名な「ヴァイオリンと管弦楽のための子守唄」が絶品ですね。定番ながらもたゆたうリズムと美しい旋律は、のどか小川のせせらぎを聴くような風雅な気分になれます。

というわけで、今日もまた印象的な一日でした。

台風で大変な方もいらっしゃると思います。どうかみなさまお気をつけ下さい。東京地方はこれからが本番のようです。

それではグーテナハトです。

Vocal

今日は三代テノールのひとり、ルチアーノ・パヴァロッティの誕生日です。天秤座。芸術と生活のバランス感覚などはここから来ているのでしょうかね。

私が初めて聴いたパヴァロッティはこのアルバムの二曲めの「カタリ・カタリ」であることに今日気づきました。

オ・ソレ・ミオ~イタリア民謡集
パヴァロッティ(ルチアーノ)
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おそらくは1988年か1987年のこと。当時、小澤征爾の弟さんの幹雄さんが「やわらかクラシック」という番組をやっていました。毎週聴いていたのですが、その時にこのアルバムが紹介されていたのですね。「Catari, Catari」という歌詞の二回目のCatariの哀愁に帯びた歌い方が印象的で、30年ちかくたった今でも、当時の記憶が蘇ります。

今日も印象的な一日でした。また明日も印象的な一日でありますように。

それではグーテナハトです。

Miscellaneous

違反車

仕事場近くで見つけました。残念。

アムフォルタス、について書こうと思いましたが、仕事でトラブルに巻き込まれかけずじまい。仕事中ずっと気を張り詰めている一週間で、今日は少し早く帰宅して、少しばかり近所で泳いできました。

今週末はあらゆる意味で山場です。難しい舵取り。集団と個人のバランス。などなど、思うところあり。

Inside Out
Inside Out

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今日の一枚。高校の時にこのアルバムを聞いて、「なんじゃこれは。。。」と衝撃を受けました。なんて曲だ、めちゃくちゃだ、と。サックスがバッキングに入ったり、奇天烈なリズムとキメキメフレーズ。こんなフュージョン聴いたことがない、と。。

ですが、今日聴くとそんなことはなく、実にジャジーな一枚です。プーランクやストラヴィンスキーのような、なにか流麗なんだが、いろんな疵や仕掛けが施されている、そういう音楽なのではないかなあ、と思いました。きっと小説もそういう小説が面白いはず。辻邦生もよく読むとそういうアンバランスさをはらんでいることに気づきますね。

それではとりいそぎですがグーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

世の中というのは十二分に非論理的で、自らの努力でその妥当性を変えることはできません。こうなったら、アウト、という状況にならないよう、常日頃細心の注意を払いますが、外的要因でそうした配慮がおじゃんになることなんていうことはままあるものです。だからこそ、常日頃の細心の注意が生きてくるのでしょう。

飯守さんの音楽

さて、今日は先日の新国立劇場《パルジファル》の演奏面について。といっても、後述しますが、オペラにおける演奏面というのは、なにか言葉にするのが難しい物があると思います。

飯守さんの指揮は、じつにゆったりとしていました。それは演奏時間にも現れていて、予定を20分オーバーしたぐらいです。それが、演奏時間のみに起因するかはともかくとして。

ただ、聴いている中では、まったくそのスローテンポに違和感を覚えることはありませんでした。それは奇をてらうようなことはない本当に湧き立つような自然なものでした。そのおかげで、劇空間に没頭できたのです。

以前から思いますが、いいオペラの指揮は、おそらく、それが印象に残らないぐらいがいいのではないでしょうか。音楽についてオペラ公演でかたる、というのは、いい場合もあれば悪い場合もあるのだと思うのです。音楽になにか不自然さがあれば、間違いなく劇空間に入っていけなくなる気がします。今回は、前述のとおり、劇空間に没入できましたので、素晴らしい指揮だったのだと思います。

これと似た経験は、2007年のペーター・シュナイダーの指揮でも感じました。あれが、私の中の最高のオペラ体験ですが、演奏中より、そのあとからその絶妙さを、反省的に認識しました。

逆のパターンも有ります。劇の流れを、自分の方向に矯正しようとする指揮です。まれに聴きますが、個人的には、劇に入ろうとした時に音楽が気になって、あれあれ?、と思うこともあるのです。このあれあれ?、というのは、もちろん良い面も含んでいます。私の考えでは、音楽における「驚き」こそが、音楽の「意味」なのですから。ここでこんなことやりますか? ということをやられてしまった時の驚きが、音楽の愉しみの一つなのです。

ですが、オペラの場合はどうなのか。緊密な一つの劇空間にあっては音楽だけが突出することはできません。もしそれがそうだとすれば、それはバランスを欠いているはずです。

そういう意味でも、今回の演奏は、劇空間を統一に導く、素晴らしい演奏だったわけです。音楽がだめなら、劇に没頭できません。私が、パルジファルの愚者ぶりに感動したり、クンドリの横顔に深い感銘を受けられたのも、音楽に支えられての事だったといえます。

終わりに

指揮者もやはり組織を束ねる長です。《パルジファル》という6時間に及ぶパフォーマンスを発揮させるためには並大抵の努力では足らないでしょう。

オケのメンバーも必死です。ピットをのぞき込むと、フリスクが譜面台に置いてあるのをみて、なにかオケの大変さを思い知った気がします。

芸術だろうが会社であろうが、組織の牽引は同じ。組織の長というものは、組織のために常に闘うものであるべきです。

飯守さんは十全に戦っておられて、オケを引っ張っていたのだ、そう思いました。

本日皆既月食。欠けた月を仕事場の洗面所の窓のブラインドの隙間からのぞきました。太陽に吠えろの石原裕次郎のように(笑)

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

今週の日曜日に行った新国立劇場《パルジファル》。多分18時ごろの写真。第二幕と第三幕の休憩の時に撮りました。

今日はクンドリ

今日はクンドリについて。このキャラクターはヒロインとは言えないでしょう。そこまで単純な性格付けができるキャラクターではありません。

《パルジファル》における謎めいた女性。善悪、それはもちろん、相対的な価値観に過ぎず、「とある言語ゲーム」において対極の側面をあわせ持つ人物、という方が正確な言い方とおもいます。

そのクンドリを歌い演じたのはエヴェリン・ヘルリツィウス。ドイツのメゾ・ソプラノです。バイロイト、ケルン、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーンでもクンドリを歌っています。また、ブリュンヒルデもバイロイトで歌っていますし、イゾルデもレパートリです。

歌唱はもちろん安定していて、静謐と狂気を自在に使い分けていました。あのLacht と絶叫し、十字架を背負うイエスを嘲笑ったことへの究極の悔恨の表現は怖ろしさすら感じました。おそらく、あそこの一点において、アンサンブルの中で突出したものを体現したのだとおもいます。

一方で、第三幕の場面。あそこは絶品です。歌詞はほとんどありません。クンドリは黙劇を演じるかのようです。が、ここがほんとうに素晴らしかったのです。人間の人間らしさとはこういうものなのか、と思います。

苦しみを乗り越え、パルジファルの脚を洗い、香油を塗るクンドリに、もはや迷いはりません。パルジファルとエロスを超えた愛情で結ばれている至上の幸福感を感じました。

ヘルリツィウスの表情は第二幕の欲情に燃えさかるそれではなく、老成し落ち着いた老夫婦の愛情なんだろうなあ、と思います。髪の毛を包むベールをとると白髪になっていたところに私は本当に本当に心をうたれました。長い時間がなせる奇跡を見たのだと思います。

もちろん、時間と空間が混合した世界であることはリブレットにある通りです。それでも、第二幕のクリングゾルの城の崩壊から長い時間が経っていることの示唆、つまり、クンドリの白髪もそうですし、パルジファルが水を受け取り上着を差し出す青年が、前奏曲でアムフォルタスに水を与えた少年で、成長しながらも、そこになにかしらの貧困のなせる不幸という文脈を、感じ取ることができるとか、そうしたところで、劇空間の時間的拡がりを認識できたのだと思います。

そうした、時間の中を苦しい旅を続けたパルジファルもクンドリの境地は、どのような宗教においても普遍的な巡礼や回行といった行をおさめた者の境地なのでしょう。そう意味では時間という、人間が決して操作できない最大の自然力こそが、人間を鍛えるのでしょう。

私はあの第三幕のクンドリの横顔を一生忘れることはないと思います。辛苦を乗り越えた横顔であり、そこで得た安らぎを味わう横顔だったと思います。

終わりに

明日も公演が14時からありますね。いらっしゃる方、どうぞ楽しんでいらしてください。って、ネタバレのことばかり書いてすいません。

6時間の公演を聞き終えたあと、おそらくその業績を名刺に書くことがゆるされるんじゃないか、と思うほど。大袈裟ですかね。たしか《失われた時を求めて》をすべて読んだ人は、その業績を名刺に書ける、という話が会ったと思いますが。。

それではみなさまおやすみなさい。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

みなさま、今日の台風はいかがでしたか。私は台風が来る前にということで、早々に仕事場に向かいました。いつもより一時間半早く到着しましたが、悠々と通勤できました。早起きは三文の得。

こちらの写真が台風前夜の新国立劇場。

あらためてみてみると、凄い色の写真になってます。広角でパースがめちゃめちゃですがこも崩壊感がいいのかも。なんだかよくある舞台装置みたいです。

昔、バイエルン州立歌劇場で《マノン・レスコー》觀ましたが、舞台上に、バイエルン州立歌劇場が現れて驚きました。アンドレアス・ホモキの演出だったはず。新国でも、新国を舞台にした演出ができるかもしれない、などと。もちろん、《ヴォツェック》のようにじゃぶじゃぶと水を張ると面白い。この水庭が舞台なんですよ。なーんて。

愚者パルジファル

新国立劇場《パルジファル》の感想。その2です。

とにかく、パルジファルは愚者としての描かれ方。フォークトやドミンゴだとこうはいかないのかも、などと。
ただ、これも真実。この方が真実。パルジファルとイエスがかさなるようにおもえたし、作務衣のような服からは、お寺の小坊主みたいな雰囲気を感じました。

すこし驚いたのが、第二幕での「アムフォルタス!」と絶叫するシーン。あそこは、決定的認識で、英雄に変貌するシーンと思っていましたが、そうではありませんでした。パルジファルは、アムフォルタス、と叫びながら、最後のほうは、泣き崩れるようだったのです。まさに、共苦。苦しみに同化し、泣き崩れた感じ。華々しい認識の勝利とか、エラン・ビタールのような価値の転倒、コペルニクス的展開のような爆発力はありません。
これ、遠藤周作「死海のほとり」に出てくる人間的イエスなんだなあ、と。カラヤン、ショルティ、ティーレマンとその他の盤でも聴いてみましたが、こういう歌い方はないです。それらはやはり英雄的パルジファルなのでしょう。

ですが、今回のパルジファルは違いますから。これが本当の英雄。本当の聖者。私はそう思いました。

クリスティアン・フランツ、少し調子悪い?と思えるなにか元気のなさなようなものを感じましたが、そういう設定だから妥当なのでしょう。声の美しさは抜群。透き通る高音は、パルジファルの心の純粋さがよく現れていました。演技も本当に巧いです。アムフォルタスの嘆きのモノローグの最中にも、なにかたじろいだり、驚いたりするシーンがありました。愚者パルジファルを十全に演じきっていたと思います。

最後、仏教へと消えしていくシーンの、あの断固とした表情は忘れられないです。悟りの境地にある達磨大師のような達観した表情。私もいつかはあのような表情を浮かべて全てを見やってみたい、そう思います。

終わりに

このあとクンドリ関連も書いたのですが、それはまた明日。これは少し続きそうなネタです。

それにしても、音楽的なことはあまりかけず、いつもの様についつい演出や演技などについて印象に残ったことを書いてしまいます。私はオペラにおいてなにを観ているのか。。

次の公演は10月8日です。でもお昼の2時からですのでお勤めの方は難しそうですが、ぜひぜひ。

ではグーテナハトです。

NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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《パルジファル》。日本でこのパフォーマンスを見ることができることに本当に感謝です。

今日は14時〜20時の6時間にわたって初台にこもった感じです。4年前の東京リング以来の長丁場でしたかね。なかなかハードでしたが、ちゃんと全て集中力をたもって聴くことが出来ました。本当に学びと気づきに満ちた6時間でした。

バックステージツアーもありましたが、今日はさすがに応募できず。多分今日は競争率が低かったのではないでしょうか。

それにしても、今回のクプファーの演出は見事でした。たしかに舞台装置の意味合いが難解な部分もありましたが、仏教の僧侶の導入は、私には本当に妥当で核心をついたものだと感じました。

ワーグナーは《勝利者たち Die Sieger》というオペラを1850年代に予定していて、これは仏教的なものとなる見込みだったそうです。

たしかに、《パルジファル》いおける、仏教の煩悩からの解脱とか、他者への分け与え(布施波羅蜜というそうですが)といったコンセプトが実にフィットしていたのだと思います。

また、現状の価値が多様化している世の中にあって、「キリスト教」的な価値観と仏教的な価値感への連結が描かれたことは、示唆的だったのだと思います。さすがにここでイスラム的な、となると、非常に難しいのでしょうけれど。

個人的には、最近、大学の友人とこの手の話題を執拗にメールでやりとりしていたこともあって、シンクロニシティを感じました。少し前に岡本かの子を読んでいたのもその理由からだったので。

しばらく《パルジファル》を考えることになりそうです。で、それはいささかショッキングというか、その後の悲惨な歴史的経緯を想起させるものになるかもしれませんが。。

東京地方の明日は台風。ですので、早く家を出ます。電車が動いていることを願いつつ。みなさまもお気をつけて。

それではグーテナハトです。