土曜日の朝に、近所の桜並木に言ってみました。まだほとんど咲いていません。7時を回った頃なので人影もまばら。花の盛りの予感に満ちてはいますが、まだ静けさが漂っています。美しさの爆発的な力が薄黒い木々の中に破裂せんばかりにみなぎっているのを感じます。
風姿花伝を読んでいたんですが、「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり」という言葉に出会いました。
花というのは季節に置いて咲くものであって、そのときにだけ咲くという「珍しさ」があるがゆえに、翫ぶわけです。いつも桜が咲いていたらこんなにも桜を楽しみにしないでしょう。
申楽も同じである、と言っています。
ということは、まあ芸術もまさに同じなんでしょう。
その先にはさらに厳しいことがたくさん書いてあり、音曲、振る舞い、物真似、全てにおいて巧くなければならない。桜、梅、菊のように一年中の花の種を持つべし、などと書いてあります。
考える事しきり。ですが、どうにも考えることが多すぎて。
ではグーテナハト。
花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。
マリエッタの正体──新国立劇場《死の都》その4
せっかくの禁酒を超克して、現在燃料補給中。
引き続き《死の都》。本当に考えることが沢山です。
このオペラは、第一次大戦後に初演されました。失われたものへの惜別と、あらたなものへの希望、というテーマは、まさに戦間期ヨーロッパにおいては求められていたものに違いありません。これは、先日のオペラトークで音楽学者の広瀬大介さんがおっしゃっていたことです。
では、次の希望とはなんだったのか。残念ながらそれはナチズムでもあった、という可能性において気付くべきでしょう。ですが、ナチズムは第一次大戦前の模倣に過ぎないという見方も出来ます。
マリエッタが、失われたマリーの記憶であるとしたら、19世紀の失われたドイツ帝国のそっくりさんは、ナチズムに当たります。
マリエッタこそが、奇怪なナチズムだったのか、と思うと、驚きを禁じえませんが、古きよき価値を纏いながらもそこになにかしらの胡散臭さや危険性を感じるという意味では、マリエッタがナチズムの予感だとしても驚くことはありません。
マリエッタの所業は夢でした。夢でよかったのです。ですが、現実は夢ではありませんでした。マリエッタの激しく妖しいダンスの禍々しさがそのまま欧州大陸を覆ってしまったのでしょう。
コルンゴルト父子は、惜別を過去への追想を超えた、全く別の次元のものとして考えていました。ですから、パウルは、ブリュージユを去ったのです。
失われたものを取り戻すということは、そういうことなのかもしれせん。
我々は今喪われたものを取り戻そうとしているのでしょうか。実はそれは危険なことではないか。マリエッタと懇ろになり、身を滅ぼすものではないのか。そうしたことに思いを巡らせた一日でした。
グーテナハトです
この疎外感は何?──新国立劇場《死の都》その3
落日。日はまた昇るのでしょうか。
先日から読んでいるこちらの本。
講談社
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辻邦生作品の中でも特に大好きな作品の一つである「ある告別」が収められています。ここで、辻邦生が初めてアテネに行った時にパルテノン神殿を観た感動が記されています。ですが、ここにおいてはまだ明示的にそのパルテノン体験が語られているわけではありません。
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「言葉の箱」とよばれる講演集の中で、そのパルテノン神殿を観た感動を文学的にどのように解釈したのかが平易に語られています。つまり、芸術によって秩序をもたらすという視点が取り上げられます。美が世界を支えるというものです。
これほどの芸術至上主義が一言で受けいられるわけはないかもしれません。私も腹の底から理解するのに何年もかかってしまいました。
ですが、今回の《死の都》の舞台を観た途端、ああ、これが人間の底力で、世界を支えているのはこういう舞台なのだ、と直感したのです。
舞台両側面の棚には所狭しにマリーの思い出の品が並べられ、床にも沢山の箱が置いてあり、一つ一つに写真がはられているという豪華さです。
その舞台の様子は昨日もだした以下の写真で垣間見ることができると思います。
この舞台を見て、あっけに取られない人ははずですし、みながみな美しく絢爛だ、と思うのではないかと想像します。幕が開いた途端、輝く舞台におののいてしまったのです。
ですが、先に進もうとする私を後ろから引っ張る力があって、引き止められてしまったのでした。
常にさいなまれる聴衆とはなにか、という問題と、西欧芸術の至極を日本文化がどう咀嚼できるのか、という問題。
両方の観点において私はアウトサイダーです。正規の音楽教育を受けておらず、日本人として日本文化の中で育ったということ。そうした人間が、この舞台を本当に理解できるのか。それは量的な不足ではなく、乗り越えられない質的な差異ではないのか。
この問題は非常に有名な問題でこれまでも語られ続けていますから、個人的にどのように考えるのかは、これから整理する必要がありそうです。そんなことを考えていると、その他のこともあいまって、やること考えることが多すぎて頭がおかしくなりそうです。すこし冷却しないと。
なんてことを考えましたが、涙なしには視られない舞台であり、感動し続けたことは間違いないのですが。
まだ続きそうです。グーテナハトです。
男が創りだした女たち──新国立劇場《死の都》その2
《死の都》第二回。妄想が膨らみ続けています。
私の大学時代の先輩も見にいらしていて、FBで少しだけやりとりをしました。
そんな中で思ったのは、マリーの挙措自体が男性が作り上げた幻想なんだろうということ。いわゆる永遠の愛を信じる男の身勝手さというものです。
これまでも、オペラにおいて、男によって作られたヒロインたちの姿を見続けました。新国立劇場の今年の演目である《カルメン》も《蝶々夫人}もそうでした。
奔放なカルメンも、貞節な蝶々さんも、永遠に生きるマリーも、華やかで自由なマリエッタも、みんな男が作ったものです。
そこにいくばくかの真実はあるのでしょう。芸術に昇華されたものとも言えるのかもしれません。ですが、どこかにねじれを感じるのです。
そのねじれは、今回のマリー においてまさに現れたのでしょう。
演出意図としては最高で、パウルの描くマリーをよく表現していました。本当に素晴らしい物でした。
ですが、それは男が勝手に作ったものでした。パウルがマリエッタと懇意になると、マリーは顔を覆います。これは、もう、パウル=男の身勝手でしょう。本当にそうなんですかね。パウルの思い上がりではないですか、などと思ったりします。
原作とは異なり、マリエッタですら、パウルの夢の中で勝手に作られたものになっています。まるでサロメのダンスを彷彿とさせるマリエッタのセクシャルな踊りもパウルが作り出したものにすぎません。パウルの妄想です。
それを作り出したのが、パウル・ショットことユリウス・コルンゴルトなのです。ウィーンの法律家にして音楽評論家。体制側にくみした保守的な男が作り上げる女性は、男の欲望や幻想を投影したものに過ぎないと捉えられても仕方がない面もあるような気がするのです。
マリエッタが「これは女の闘い」といいますが、それもパウル=男=ユリウスの幻想ですので、よく考えると滑稽にも思えるのです。
ですが、これには続きがあるはず。ここから先は私の妄想ですが。
今日の仕事はいつもとは違うお仕事でした。刺激的。
ではグーテナハト。
新国立劇場《死の都》その1 画期的過ぎるマリー
はじめに
新国立劇場《死の都》に行ってまいりました。
いや、もう身も心もボロボロになりました。衝撃強すぎです。
最近、厳しい日々を過ごしているということもあり、今日も行けるかどうか微妙な状況でしたが、なんとかスケジュールの合間を縫っていくことが出来ました。実は無理やり行ったんですが。なので、チケット持たないで玄関をでて慌てて戻りましたし。
黙役の存在
今回の演出において最も画期的だったのは、死んだ妻マリーを黙役が演じたことです。
この件に関しては賛否両論あるようですが、私は賛成に回ります
主人公パウルは死んだ妻マリーを忘れられないわけで、そのマリーが舞台上に現れるという仕掛けになっています。物語の進行に合わせてマリーは表情を変え行動を変えます。マリーとの思い出に思いを馳せるパウル、マリエッタへの欲情に溺れるパウル。そのたびにマリーは喜び悲しみます。
ですが、マリーは亡霊ではないのです。マリーはパウルが作り上げた幻影であり、パウルの思いによってその表情を変えるだけなのです。
それは、もしかすると、語りすぎる演出であるといえるかもしれません。つまり、観客が想像すべきこと、考えるべきことを、演出が提示してしまっているということになるかもしれないのです。
ですが、パウルが追憶と欲望に引き裂かれる厳しい心情が直接的に伝わってきたことは事実です。それはリブレットを超えた表現だったはずです。
私は相当に心を揺さぶられ、終幕時にはもうヘトヘトでした。
辻邦生「嵯峨野明月記」と「小説への序章」から思う演繹法的世界認識について
辻邦生作品の最高峰の一つとも言える「嵯峨野明月記」を手にとっています。最近、仕事で、演繹法的手法をとって巧く行かず、帰納法的手法をとってなんとか進みだしたという経験をしました。
私のこの演繹法的手法を取りたがるという傾向は、どうもこの作品に影響されているように思います。
この「嵯峨野明月記」の中に狩野光徳という画家が登場します。光徳は世の中のものを全て描かなければならないという強迫観念ともいえる欲求を持ちながら若くして病に倒れることになります。
ですが、世界はそうした形で認識することはできないのです。
この辺りの世界認識の方法論については「小説への序章」においても語られていたはずです。世界そのものと一体化するという、西田幾多郎の純粋経験とでも言えるような文学的境地においてのみ世界認識に到達できる、という道筋でした。
これは、辻邦生の3つの原初体験の一つである、ポン・デ・ザールの直観と通じるはずです。辻邦生がパリ留学中にポン・デ・ザールでセーヌを眺めていたときに、このセーヌやパリ自体が自分のものである、という直観を得た、というものです。あのとき、世界と辻は合一していたわけで、そうした原初において相通じるところから、世界認識が開かれていく、そうした直観だったはずです。
ただ、それは芸術的文学的なものであり、実践的なものに適用することは難しいわけで、まあ、少し遠回りをしてしまいました。
昨今ジャズばかり。本当は週末に《死の都》へ行く予定なのですが、仕事で行けないかもしれません。残念無念。
では久々のグーテナハト。
ウェイン・ショーターのSpeak No Evilを聴く
ゆえあって、この一週間はジャズを聴いていました。ジャズ史もひと通りまとめて、いろいろ再発見をしました。本職の方は全然進みませんけれど。
そんななかであらためて思い出したのがウェイン・ショーターの素晴らしさでした。ウェザーリポートのサックス奏者としても有名ですが、
まずはこちら。
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twitterでも書きましたが、フュージョンやらクラシックを聴いていた大学時代に会って、意外にも60年代のショーターは集めていました。なぜなのか全くわかりません。何に惹かれたのかすらわかりません。
このアルバム、ピアノはハービー・ハンコックなんですが、今日聴いて感じたのは、どうやらハービーが作る空気感とショーターのアウトした無骨なサックスのコントラストがいいんじゃないかな、と。
たとえば、Infant Eyesのソロ部分で、ショーターのけだるいソロの間を、ハンコックが埋めていくあたりは、スリリングでもあります。この絶妙なやりとり、交感こそが醍醐味です。
冷たい雨の一日でした。濡れたアスファルトにヘッドライトが反射するのが見えます。
ではグーテナハト。