Miscellaneous

 

 

まあ、激動の一年だった2020年ももう少しで終わります。いつもは見ないテレビですが、紅白歌合戦をつけながらキーボードを叩き始めている感じです。

写真は、2021年最後の夕暮れ。とはいえ、それは単にグレゴリオ暦2020年の夕暮れであるに過ぎないという相対性もなにか分かった気がします。さしあたりは、一年間の無事を感謝し、来年の発展を願いつつ、と言う感じでしょうか。

そして、コロナ第三波がいよいよという大晦日でもあります。東京の一日の感染者が1300人を超えたというニュスはさすがに衝撃でした。これまでの最大感染者を400人近く上回るペースというのはなかなかに厳しいものを感じます。いろいろと背景はあるにせよ、現実としては、ひとつ次元が変わってしまったのかもしれません。とはいえ、変わらないもの、変われないものも多々あるあります。長いスパンで輪を描きながら螺旋のように上昇していくのが世界なのだろうな、と思います。

それではみなさま、よいお年をお迎えください。

おやみなさい。Gute Nahctです。

Richard Wagner

今日は満月だったようです。サクッと撮ってみました。年の終わりの満月という感じです。満月は不思議な感じです。

仕事の疲労感も残りつつ、年末の掃除をしながら、ハイティンクのリングを聞き始めました。やっと3つめのワルキューレまで。並べてみました(笑)。

あらすじなどは10年ほどまえにやはり新国立劇場で聞いたときにずいぶん勉強しました。その頃の記憶をもとに、音楽を楽しむと言うスタイル。ワーグナーもブラームスもやはりロマン派の音楽家であり、フランス革命後の反動の中で生きた芸術家で、なにかしらの理想に向けて音楽を書き続けてきたことに疑いはないわけですが、その理想への向かい方は違うんだろうな、ということを、ふと思ったりしました。

10年前に市の区立劇場の「神々の黄昏」を聞いた後に、特に参考文献をあたるまでもなく、つらつらと思ったこと考えたことをブログに書いていたのですが、まあ考えていることは、100年前にはすでに他の方が考えているわけで、そうした汎的な思考に寄り添えたということは素晴らしかったな、と思いました。

リングの解釈はいろいろあるのでしょうけれど、私の中では、以下11年ほど前に書いた記事が一つの結論だったと思います。「ゴスフォードパーク」という映画の記憶が、リングの構造にとてもよく似ているなあ、ということを書いた者でした。

 

黄昏れる神々の集う映画

あるいは、カズオ・イシグロの「日の名残り」かとの関係なんかも考えていました。こうなると、リングは、近代史を敷衍するなかで、その行く末を描いた芸術作品ということになるわけで、おそらくは、フランス革命から第一次世界大戦、あるいは第二次世界大戦が終わるまでの人類史(欧州史?)を雄弁にかたる叙事詩なんだろうな、と思います。まあ、もっというと、ワーグナーは19世紀半ばにして、100年後を予見していたということになります。

そうそう、以下の記事を読んで、バックステージツアーに当選して、20時半ごろから22時まで、嬉々としてステージ裏を見せていただいた幸せな思い出を思い出しました。そうか、13時にはいつも新国についていたから、都合9時間もお邪魔してたんすね。。

ギービヒ家の謎──新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」 その5

その後、オペラ的には、「リング」から「パルジファル」やシュトラウス作品に向かってしまった感もあり、それ以上の展開をしていなかったなあ、とも思います。なにかできることはないかな。まあ、その前に辻先生のパルテノン体験をまとめないと。

 

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tsuji Kunio

辻邦生の「嵯峨野明月記」、これまで何度読んだかわかりませんが、また読み始めています。とはいえ、なかなか時間がとれないということもあり、今回はKindleの読み上げで聴いています。これまでにない読書体験ですが、洗濯や掃除をしながら聴けるというのはありがたいことです。

それで今日気がついたことがあります。

一の声、つまり光悦の独白の部分において、戦乱の京都に織田信長が上洛を果たした後の場面。長い戦乱で焼け野原となった京都に信長軍が駐屯しますが、それはそれで意外に京都に秩序と平穏をもたらしたわけです。信長の軍勢が守護していた二条第を拝む老婆や女たちもいたというわけで、尾張の領主によって救われたと信じる者も居たのだ、という描写。信長の声望は日に日に高まります。一ヶ月前までは信長の残忍無道な戦い方を避難していたというのに、京都の民の、その心の移り変わりの早さ。そこには何らの一貫性もなく、ただただその場その場の心情で民意という者が作られる……。

これを読みながら(聴きながら)、ああ、これは、おそらくは辻先生が見た、昭和二十年の光景なんだろうなあ、と思いました。空襲で焦土と化した東京。一夜にして民主主義信奉へと変貌を遂げたマスコミ。それまでは鬼畜であったGHQは秩序をもたらしたとされ、マッカーサーは神格化されていき、最後にはマッカーサー大統領を待望する声が日本国内で湧き上がるという状況。

「こうした浮動する不実な世間に対する不信と、時の権勢に距離を置く態度とが根をおろし、容易なことでは拭いさることができなくなっていた」と一の声に語らせますが、それはそのまま、おそらくは戦後に感じた辻先生の思いと重なる部分があったのでしょう。その世間に対する不信をもって、おそらくは光悦や与一のように、現実と芸術をつなぐ道へ進むようになった、ということなんだろうなあ、と。そういうことを改めて思うわけです。

これは、「嵯峨野明月記」において通奏するテーマでしょう。揺れ動く時代を超えたなにかを求める道程が、生きる、と言うことにおいて必然なのではないか。そんなことを思います。

Giacomo Puccini

それにしても今年は不思議な一年でした。コロナという世界的な問題もありましたし、個人的にもたくさんの新しい体験をしました。最終的にはさらに前へと進む感じもありますが、まだまだ不思議なことが続く予感もします。とにかくたくさんのことが動いた一年でした。

書きたいことは山ほどあるのですが、なにか、なかなか書けません。時間がないということもあるのでしょうけれど、なにか書くと言うことの環境が整っていない感覚もあり、少しずつ再整備を始めました。手書きもいまひとつなじまず、エディタを選んだり、フォントを選んだりして、ようやく、なんとなくこれかな、というツールを探し当てて、といってもこれまでも使っていたツールを再整備したということでもあるのですが、ようやく落ち着きつつあるということになりそうです。

今日はこちら。カラヤンの振る「蝶々夫人」。

最近、インターネットラジオOttavaをよく聴きます。クラシックばかり流れるラジオですが、そこでながれた「蝶々夫人」がそこはかとなく良かったのですね。12月22日がプッチーニの誕生日ということで、おそらくはそこに合わせた選曲。
「蝶々夫人」は何度か実演で聴いていますが、亡き若杉さんが10年以上前に振った演奏が忘れられないです。あのときは第一幕は泣きっぱなしだったなあ、など。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/10000057_2_opera.html

14年前のブログ記事が出てきました。書き方が若い……。

https://museum.projectmnh.com/2007/03/31205000_7858.php

そうか、ジュゼッペ・ジャコミーニさんがテノールだったのか。あの強烈なテノールに、若杉さんのたおやかな指揮が絡み合って、それはもう美の極致という世界だったなあ、という記憶。その記憶がラジオから流れる「蝶々夫人」を聴いて思い出したのでした。あのころもまた不思議な経験をたくさんした時代。一回り、と言う言葉もありますが、12年から15年にかけて人は同じ体験をするのかもしれないなあ、等と思ったり。願わくば回帰しながら上昇する螺旋のようにありたいと思います。

そうそう。このカラヤン盤は、パバロッティとフレーニが登場する名盤。良いものを聴くと元気がでますね。

慌ただしい年の瀬ですが、どうか皆様もお身体にお気をつけてお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Astronomy

数百年ぶり、ということもあり、今日は在宅勤務中の休憩を利用して、手持ちカメラでさっと撮影したところ、素人ながらに面白い写真がとれました。キチンとしたセッティングをする間もなく撮ったので、??という感じですが、記念なので載せておきます。

土星が、輪を持つように長細く見えるのは本当に驚きでした。天文・写真ビギナーにしては楽しめたなあ、と思います。木星の左上にかすかに見える白い影はガニメデらしく、また右下の白い影はイオのようで、ガリレオ・ガリレイも似たような感慨を得たのかしら、などと思ったり。

天文学的にも重要なイベントですが、聞くところによれば占星術の世界でも20年に一度の変動らしく結構騒がれているようですね。

この視差角で接近したのは、400年ぶりだそうですが、当時は太陽と近すぎて観測できず、観測出来たものとしては800年ぶりだそうで、すごい時代のすごい現象の目撃者になったなあ、と思います。

周期12年の木星と周期29.5年の土星が、地球から見ると、順行と逆行を繰り返しながら波打つように次の邂逅点に向かうのは、なにか世界や人生の揺らめきを想起させるものです。人生は波であり円環であるとすれば、なにかそれは星の動きと似ているものだ、と思いました。

Johannes Brahms

コロナ患者が増えたと言うこともあり、またまた在宅勤務が増えてしまう今日この頃。4、5月は緊急事態宣言がでていたこともあり、近所のジムも閉館していて泳ぐことも出来ずただただひたすら家に居ましたが、ここのところはジムも開いていますので、昼間は自宅で仕事し、夜は泳いで、という生活を続けるよう心がけています。運動しないと病みますから……。

在宅勤務の楽しみは、音楽を聴きながら仕事が出来ることですが、今日、久々にCD聴いてみて驚きました。この10年ほどは、iPodかAppleMusicで音楽を聴きことしかなかったわけです。音楽を聴けるのは通勤時間のみでしたから。なので、CDは多くあれども、結局のところは、AACなりMP3なりに取り込んだものを聴いていただけで、CD自体を聴くことはなかったのです。

で、在宅勤務になったと言うことで、久々にCDを聴いてみると、いやあ、この音の良さは何だろう、と。なんというか、低音から高音に至るまで、その緻密で拡がりのある繊細な音の感じというものがたまらなく心地よくて、ああ、昔はこういう音をきいていたんだなあ、ということを改めて思い出した感じです。

良い音を聞くというのは、なにか幸福感につながることでもありました。絶対的な良い音というものはありませんが、自分の中で、昨日よりも今日の音の方がよい、と感じるだけで、それはもうひとえに幸福であると言うことになるのです。

今日聞いたのはこちら。ヴァントのブラームス。いやあ、本当にドイツらしい、拡がりのあるブラームス。以外とテンポが速いところもあって、キリッと締まったブラームスだったと思います。明日も在宅勤務なので、また聴こうと思います。

それにしても、ブラームスいいなあ。最近、シューマン、ブラームスあたりの中期ロマンはをよく聴いていて、その系統でヘルマン・ゲッツなんかも聴いて良い気分になっています。やっぱり19世紀ロマン主義はまだ息づいているなあ。なにか、こう、フランス革命後で個人というものが確立するなかで、ヒューマニズム的というかフリーメイソン的な博愛精神のうねりを感じるのです。これは、一つの普遍的な価値で、それが正しいかどうかと言うことを超えて、厳然とここにあるものだな、と思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。