Literature

先日も書きましたが、岩波文庫青帯を数十年ぶりに買って少しずつ読むという、この年齢でやっちゃいかんことをやっている気がします。学生時代は全く縁がなかった鈴木大拙、あるいは少しは囓った西田幾多郎などなど。

授業や研究会で本を読み話を聞きましたが、いずれも、書いた本だけをよめばいいわけではなく、そこに至るまでの2000年間の哲学史があり、あるいはそれ以降の解釈の歴史があるわけで、本当に分かった気になるのはまずいな、という思いしかありません。実に厳しい世界でした。私は、大学院に残ろうかと思案しつつも、踏み切らずに就職したので偉そうなことは言えませんが。

とはいえ、そうした哲学史や解釈史を持たない市井の人間も、岩波文庫青帯を読む権利もありましょうし、理解がなかろうともいくばくかは語ることもできるでしょう。そうした個々人の理解不足や解釈のブレのようなものも、何かしらの可能性をもたらすものかもしれませんし、そうした語りが偶然にせよ現れることに意味があるのでは、と思います。

たまたまかもしれませんが、仕事場で哲学に興味のある方がいらして、少し話す機会があったというのも、もしかすると青帯を買ったことと関係があるのかもしれません。

偶然はなく全ては必然だ、という台詞を、二年ほど前に見た「二人の教皇」という映画のなかで知りまして、まあ、そんなもんかもな、と。

で、今日、偶然聞いたのが、カルロス・クライバーが振る「運命」は、その筋では実に有名で、私も初めて聴いたときは、多分に漏れずあまりの鮮烈さに驚いたものです。

こうして、青帯を手にとり、「運命」を聞く、というのも、運命なのかもしれません。

それではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

永く続くものは、それ自体で善である、と言う話を聞いたこともありますが、生まれた頃には、生誕100年あまりだったマーラーも、気づけば生誕150年を通り過ぎていますので、歴史のなかに身を置いていることを実感します。刹那の重なりが歴史ですが、そこには揺蕩う流れがあるのでしょう。

ワーグナーもブルックナーも同じく遠ざかっていますが、やはり永く続くものは善であり、その永きあいだにも進化を遂げるのでしょう。それは、まるで福利効果で財を増やすにも似ています。時間それ自体が価値となるわけですから。

先日もすこし触れたアンドリス・ネルソンスのブルックナーのアルバム群は、何か、そうした新しく価値が付与されたブルックナーであるように感じました。10年ほど前に、ベルリンでリヒャルト・シュトラウスを童心に帰ったような表情で棒をふるネルソンスをみたことがありますが、本当に音楽の幸福を体現するかのようです。

先ほど読んでいた鈴木大拙に「画家は、絵を描くとき、絵と一体となる」という趣旨の文章がありましたが、音楽との一体性を体現している姿に見えたものです。

今聴いているブルックナーの6番は、過去にサヴァリッシュがN響をふった音源がデフォルトになっていて、そこには、なにかドイツのフォルクルムジークのような野生味を感じたもので(何かヨッフムのイメージとも重なるのですが)、それは、ドイツに足を踏み入れなければわからない、民族的な感覚だと思うのです。激しい三連符がそう感じさせるのかもしれません。

しかし、ネルソンスのこのアルバムにおいては、そうした民族性は影を潜め、アバドのような清廉さと、マゼールのようなスケールの大きさが融合し、西欧それ自体を感じさせるもののように思います。ネルソンスは、欧州連合の最果ての地ラトビアに生まれたわけですが、西欧を西欧よりも意識する立場にあっなはずで、その普遍への意志は、これもまた我田引水ではありますが、ローマを体現しようとしたユリアヌス皇帝とあわせみてしまうのであり、それもまた、2022年2月以降という時代だからこその解釈が生み出した新たな価値とも言えるものだと思います。

どうも最近は、ブラームスかブルックナーという日々が続きますが、休みなかは、こうやって出来るだけ発信してみようと思います。

それではおやすみなさい。