シノポリが振るシュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」を聴く

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東京は、快晴。寒い一日でしたが、日光を浴びるだけでも元気になります。

10月から、風邪を断続的に引いています。なおったとおもったらまた風邪を引く、という感じ。今週も、やはり微熱と喉の痛みが続き、食事を取るのがつらい感じ。やれやれ。

今日も午前中に出かけましたが、午後はさすがにダウンし、午睡をとり、あれ、しかし仕事をしないとと思い、起き上がったときに聴いたのがこちら。ジュゼッペ・シノポリが降る《ツァラトゥストラはかく語りき》。

 


シノポリの指揮になにか雄大さを感じるのですが、それは、あれ、こんなところで? というところで、テンポを緩めたりするからです。私、実は、今日CDを聴いたときに、これマゼール?と思ったりもしました。マゼールもやはり意表をつくテンポどりをみせてくれることがあります。もちろん、全体として、テンポが緩めで、それが雄大さを感じさせる、ということもあるでしょう。

いつも思うのですが、私はイタリア人が振るドイツ音楽が好きだなあ、ということ。アバド、ジュリーニ、シノポリが振る、ブラームス、シュトラウス、ブルックナーを好んで聴いてます。チェリビダッケもルーマニア系ということで、ラテン系と言えるのかも(これもかつてブログに書いた記憶あり)。

それにしても、シュトラウスは本当に素敵です。複雑に絡み合った旋律が空に舞い上がっていくさまは、ゴシック教会のようでもあり、あるいは近代高層ビル群のようでもあります。その美しさは、美しさそのものというよりも、洒脱さや皮肉も含まれていて、実に興味深いのです。この《ツァラトゥストラはかく語りき》もどういう意図で作曲されたのか……。

ちなみに、この曲は私が小さい頃(3歳頃)、一番お気に入りの曲だったそうです。この曲を流しながら、図鑑を二冊重ねた上に乗って、鉛筆を振り回していたとか。指揮者のマネごとをしていたようです。いまでははみだしサラリーマンですが、三つ子の魂百まで、ということでしょうか。

今日は、日本は冬型の気圧配置だったそうですが、みなさまもどうかお風邪など召しませぬよう。おやすみなさい。

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ショスタコーヴィチ交響曲第10番を聴く

暗い一日。とにかく暗く寒い一日。

と言うのも、なにかどんよりと暗い空。やれやれ。夏の快晴が恋しくてたまりません。

こんな時に聞きたくなるのはやはりショスタコーヴィチ。暗い気分の時には、暗く寄り添ってくれる音楽がありがたいです。ロストロポーヴィチが振る交響曲第10番。Apple Musicで聴いています。

ショスタコーヴィチの交響曲のなかで一番親しんでいるのはこの10番だと思います。第一楽章の沈鬱さが、なにか人間の根源にある苦しみや悩みを代弁しているように思うのです。これも少し前に書いたと思いますが、タレントのマツコ・デラックスさんが、夜中にショスタコーヴィチを聴く、と言う話をされていたのをテレビで観たことがあります。その気持ち、本当によく分かるのです。なにか普遍的な人間というものを描いているなあ、といつもおもいます。

それは、政治犯がただひたすら運河を掘り続けるとか、そういうものだと思います。政治犯はもちろん逃げることは極めて難しいのですが、現代に生きるということも、程度の差はあれ、逃げ場のない苦しみのなかで、もがき苦しむと言うことにおいてはあまり違いはないのではないか、と思うこともあります。

本当はその場を離れるべきなのに、離れることが出来ない、という感覚。それは、目に見えない鎖で手足が縛られていて、ただただスコップで地面に穴を掘り続けている、と言うことのようでもあります。運河が開通するのが先か、あるいは力尽きるのが先か。どちらが先かは運命しか知らない、そういう感覚です。

そんなことをショスタコーヴィチを聴きながら思いました。

今日は、朝から面倒なことがありつつも、午後に少し出張。戻ってまた仕事。風邪をまだ引いていて、最近は微熱が続いているので、電車では座席に座り身体を癒やしていました。秋はつらい。早く夏が来ないかな、と思います。

明日から三連休。仕事のある方も、仕事のない方も、明日は勤労感謝の日です。感謝されたことはあまりありませんが、働くと言うことをかんがえてみても良いのかも。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生「安土往還記」を読む

早いもので、今年も11月21日が来てしまいました。11月21日は辻佐保子さんの誕生日。冬も間近に迫り、東京の日の入り時間は16時半頃。ついこの間まで夏だったと言うのに、と思います。

いつも言っていますが、早く夏にならないかな、と思います。さしあたりは、正月めがけて頑張らないと、と思いました。

で、読んでいるのが「安土往還記」です。3回か4回か、それぐらい読んでいると思います。

それにしても、ほんとうに西欧合理主義的な織田信長像が見事で息をのみます。戦争ですら芸術(アルテ)として捉えられるのではないでしょうか。かずかずの残虐的な戦後処理(比叡山の焼き討ちなど)ですら、そうです。

主人公は、言うまでもありませんが、イタリア人で、新大陸で戦闘を経験したことのある人物。織田信長が長篠の戦いで使った三段構えの戦法も、このイタリア人の支援があったから、という設定になっていて、いまから500年前にあっても、なにか西欧とのつながりがあったという事実が、不思議なようでもあり、あるいは、だからこそ現在と500年前が地続きであるようにも思うわけで、物語世界と現実がつながっていることを身体で感じてしまうわけです。じつに見事な設定です。九鬼水軍の装甲船もやはりこのイタリア人の手になるもの、という設定も(史実には当たっていませんが)実に見事です。

西欧合理主義的、と言う観点で言うと、石山本願寺を攻め下すために、遠大な計画をもってそれに当たる、というところも、実に合理主義的です。鉄砲を供給している雑賀を征服し、前述のように九鬼水軍を鍛え、包囲網に城を築き、じわじわと締め上げる。これを読んで、何か、米ソ冷戦の末期に、アメリカがソ連をじわりと追い込んだという史実を思い出したのです。スター・ウォーズ計画をでっち上げてソ連を宇宙開発競争・軍拡競争に引き込み、原油価格をサウジと組んで引き下げ、あわせてアフガニスタンで疲弊させる、という遠大な戦略を彷彿とさせるのです。

史実はどうかは分かりません。しかし、残念なことに事実というものは歴史の中で失われるものです。歴史小説によって描かれる事実は、おそらくは実際にあったこととは離れているのかも知れませんが、それはそれで一つの真実として世界に屹立しうる訳です。そういう意味では、この安土往還記における織田信長は、ひとつの合理主義的な人物として、リアリティがある人物として、小説世界に確固として存在していると思います。

ただ、どうもこうした西欧合理主義的な織田信長像も、時代の要請において、どうあるべきなのか、ということまで考えなくてはいけないのではないか、とも思うのです。果たして、現代において、織田信長的な西欧合理主義の意味は何なのだろうか、と。1970年代から現在までの40年に何があったのか。その歴史的経緯を踏まえた評価を行わなくては、とも思います。冷戦の二極化から、現在の多極化の時代において、なにが言えるのか。

この後、そうした時代の視点に気づかせてくれた辻先生の文章をとりあげようと思っています。

今日は長くなりました。どうか、みなさまお身体に気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

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都内某所で辻先生について発表的なものを試みる

この一週間近く、このブログ書けませんでしたが、実は辻先生のことばかり考えていました。

実は、先日、とあるグループで辻先生について発表的なものをしたんですが、まあ、巧くいかなかったなあ、と。いつも仕事場でやっているように、骨子だけスライドを作って、話をしましたが、進行上、早く終わらせたかったと言うこともあって、うまく説明できず、と言う感じ。

さらには、プロジェクタの性能がいまいちで(私が持って行ったもの)、画面とからめてうまく説明出来なかったなあ、という思いもありました。

人文系も発表は、大学以来なので、20年ぶりぐらい。振り返るとかなりチャレンジングだったと思います。私は哲学系でしたが、哲学よりも文学のほうがいっそう概念が揺れます。そこをなにか大学時代の記憶をたよりに哲学的なアプローチで攻めてしまった感もあり、方法論として間違っていたようにも感じました。

言葉は、言葉として発語した時点でその意味が揺れるように思います。そうした言葉の揺れの中から、お互いの共通点を探っていくわけですが、そんな中でもあるのに、どうもターム(専門用語)に甘えてしまった感もあります。と反省することばかりでございました。

ただ、個人的には、新たな発見をたくさんしてしまいまして、とても勉強になったのです。そういう意味では素晴らしい機会をいただきました。内容はこちらにも機会があれば出そうと思いますが、どうでしょうか……。

会も終わりに近づいた頃、会場には夕陽が差し込んでいました。その時に、かけた音楽が、グンドラ・ヤノヴィッツが歌う《四つの最後の歌》のなかから、Im Abendrotを聴いたときには胸がいっぱいになりました。CDをBOSEのWAVEシステムで聴いたのですが、深みのある音で素晴らしかったです。しばし時を忘れた感覚。Apple Musicで聴くのとは全く違います。

それにしても、寒くなるのは嫌なものです。また風邪をひいてしまいました。10月のあたまからずっと風邪気味な気がします。暖かくしているつもりですが、やれやれ。

それではみなさまも風邪をひかれぬようご注意ください。おやすみなさい。

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つれづれ

今日はほんとうにつれづれを書きます。

最近、思いもよらないことがたくさん起きるのです。想定外ばかり。その措定外がやることをすこしずつ増やしていく……。新しいことをやると、まあそんなものなのですが、制御できないことが多過ぎで、難しいですね。

ともかく、いろいろなことが少しずつ動き始めている気がします。くじけず頑張らないと。

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それでは、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

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くたびれた?──ウォルト・ワイスコフ

あまり、くたびれた、とか、疲れた、とか、書かないようにしています。

ただ、今日は、特にくたびれた、という感じがします。細かいことは書きませんが、まあ、くたびれた、という感覚。この、感覚は、肉体的というよりは、むしろ精神的なもので、今日がとりわけ、というものではなく、10年以上溜め込んだくたびれが浮き出してきたような、そんな感じ。

で、いつものようにプールで10分ほどクロールで泳ぎ、帰宅。夜半前の暗い道で、Apple Musicのプレイリストを聞いていたら出てきたのが、ウォルト・ワイスコフでした。

昔、Apple Musicで聴いていたのでレコメンドされたのだと思います。ピアノはブラッド・メルドー。聞いた瞬間に、あ、こっちが本物の世界だ、と思いました。サックスのノンビブラートのロングトーンも素晴らしい。しばらく聞き惚れてしまいました。くたびれた中で、ふと、なにか柔らかい羽毛のようなものに触れた気がしました。

私の中では、あらゆる美こそが、本当の世界で、美と美はあちら側の本当の世界でつながっている、ということになっています。おそらくこのアルバムを聞いた瞬間、あちら側の世界に心が触れたのだと思います。芸術とはそういうものなのかもなあ、と最近思っています。

明日も引き続きくたびれる予定。しかしながら、もしかすると今日のような美と触れられるかもしれないです。楽しみです。

それでは、みなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

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つれづれ

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なんだかつれづればかり。まようことしきり。

11月になって、寒くなりましたが、写真は、さきの週末の秋晴れに生えるケヤキ。じょじょに葉も落ち冬ぞなえです。

たくさんのことがやらなければならず。まあできることは限られているもで、目の前のものを粛々と片付けるだけですが、まあそれだけでも大変です。またすこしずつ夜更かしするようになってしまったし……。

そんな中、すこしこの本を読んでこころをやすめました。あすからまたがんばらないと。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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深まる秋

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11月になりました。深まる秋。

相応しい曲は何だろう?と思いました。

思いついたのが、リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」や「ツァラトゥストラはかく語りき」でした。

で、マゼール盤をAppleMusicで。

マゼール盤は、巨大な演奏、という印象をかつては持っていましたが、今日聞くと、なにか音の輪郭がくっきりしたイメージで、つやのある果物が並んでいるのを眺めているような気分になりました。オレンジやチェリーが輝いていくつも並んでいるような、それも露店で、太陽の光を浴びているような、そんな感覚を持ちました。マゼールのオリジナリティは本当に素晴らしいです。

それにしても、いろいろあるこのごろ。頑張らないと。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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